サッカーファンは毎夏、所属クラブが大金を移籍市場に費やすことを期待ししている。ウィンドーが9月に閉まれば噂は再び盛り上がり、クラブの動きのサイクルは終わることがない。移籍のニュースは24時間体制で報じられるが、実際には地味な移籍がしばしば大成功を収めることも少なくない。
見る目を養えば、素晴らしい掘り出し物が見つかるだろう。実際、世界中の競争力のあるクラブがしっかりと目を向ければ、才能ある選手を格安で獲得できるのだ。ここでは、2000年以降の価値ある移籍の中でも特に優れた25件を紹介する。
GOALArticle continues below
Article continues below
Article continues below
サッカーファンは毎夏、所属クラブが大金を移籍市場に費やすことを期待ししている。ウィンドーが9月に閉まれば噂は再び盛り上がり、クラブの動きのサイクルは終わることがない。移籍のニュースは24時間体制で報じられるが、実際には地味な移籍がしばしば大成功を収めることも少なくない。
見る目を養えば、素晴らしい掘り出し物が見つかるだろう。実際、世界中の競争力のあるクラブがしっかりと目を向ければ、才能ある選手を格安で獲得できるのだ。ここでは、2000年以降の価値ある移籍の中でも特に優れた25件を紹介する。
Getty Images Sport公正を期すために、このリストにはフリー移籍を含めないこととする。シェイマス・コールマンがスライゴ・ローヴァーズからエヴァートンへ移籍した際の6万ポンド(約1140万円)という価格は、ほぼ無料に近いと言っても過言ではない。右サイドバックのコールマンはここで最も地味な名前かもしれない。しかし、これだけの少額でプレミアリーグの名だたるディフェンダーにひけを取らないパフォーマンスを見せ、さらに10年以上にわたって活躍を続けたことから25人のリストに割って入った。
最終的にコールマンはグディソン・パークでの最後の偉大な選手として名を刻むだろう。近年のエヴァートンにおいてすべてが尊敬に値するプレーヤーだ。
AFPエヴァートンに来た当初は期待を寄せられたが、マージーサイドとの別れには反発が伴った。特に、エヴァートンファンが2011年に「アルテタの金はどこに消えた?」とTwitterで騒いでいたことを覚えているはずだ。
アーセナルは30歳目前のアルテタを獲得するために1000万ポンド(約19億7200万円)を支出し、若いミッドフィルダーに必要な経験をもたらした。アルテタはFAカップを何度か獲得し、キャプテンシーも身につけた。これだけでもこのリストに入るだけの功績たりうるが、その後監督としてアーセナルを新たな域に引き上げたことがなによりの功績だろう。
この移籍なしでは、アーセナルは2019年にアルテタを監督に就任させる賭けにも出られなかったはずだ。アルテタの成し遂げた革命は古参の監督たちにはできなかったかもしれない。今でもこのバタフライエフェクトを生々しく感じられる。人生とはこうも面白いものなのだ。
Getty Imagesトッテナムの過去を振り返れば、このリストに適した選手は何人かいる。EURO2008で大活躍する前の知名度が低かったルカ・モドリッチをディナモ・ザグレブから獲得したのは最高のスカウティングだったが、移籍金は当時のクラブ記録の1650万ポンド(約31億4700万円)だった。その数か月前にはサウサンプトンからガレス・ベイルを引き入れたが、チャンピオンシップでシニア年代を1シーズンしか経験していない左サイドバックに対して1000万ポンド(約19億720万円)を費やした。
一方、このリストの趣旨からすると、クリスティアン・エリクセンに軍配が上がる。2013年にスパーズは、すでに世界有数のプレーメーカーとしての地位を確立していたエリクセンを、アヤックスからたった1150万ポンド(約20億9700万円)で獲得することができたのだ。
ハリー・ケイン、デレ・アリ、ソン・フンミンといった充実のスカッドと共に過ごしたエリクセンは、他の選手の質を高め、メンバーを一体化させるような存在だった。
AFP一般論として、移籍市場は時に無情で、時に愚かなものだ。特にゴールキーパーの市場はさらに過酷だ。現実的にはクラブは優れたキーパーを1人確保すれば良く、他のポジションに比べてゴールキーパーはキャリアの動きが激しいため、有利な取引に繋げやすいはずだ。だが、クラブにとってはそれが困難なようにも見受けられる。
インテルがフラメンゴからジュリオ・セーザルを200万ポンド(約3億8100万円)で獲得した際の動きも印象に残る。セリエAでキャップを積ませることで非EU選手枠をキエーボ・ヴェローナ経由で回避してからインテルに加わり、ゴールキーパーとして最高の移籍のひとつに数えられている。サンシーロでは優れたショットストッパーとして実力を発揮し、ネラッズーリに多くのトロフィーをもたらした。
AFP2012年にサンパウロからレアル・マドリーにローンで加入したカゼミーロだったが、数年後にトップチームで絶大なインパクトを残すことになることはあまり予想していなかっただろう。
ロス・ブランコスの長期プランには含まれていなかっただろう。だがカゼミーロはレアル・マドリーにひしめく攻撃的ミッドフィルダーやフォワードのスター選手たちを支える理想的な存在となった。「水を運ぶ」能力に秀でたカゼミーロがいなければ、チームがチャンピオンズリーグでの成功を収めるのは困難だっただろう。
最近はマンチェスター・ユナイテッドであまり活躍できていないが、全盛期の偉大さを減じるものではない。
Getty Images Sport少し背が高めの左ウイングから、万能型センターフォワードに変貌を遂げたいなら、アーセン・ヴェンゲルが適任だった。アーセナル初期にティエリ・アンリと共にミラクルを起こしてきたヴェンゲルは、その後もロビン・ファン・ペルシを見事に変容させた。
今では、このオランダ人がストライカーであるのは当然と見られているが、彼のスタイルが確立するまでには、ヴェンゲルの指導、試合経験を積み続けること、そしてケガからの復帰が不可欠だった。
最終的に、彼はマンチェスター・ユナイテッドへの移籍を成功させ、プレミアリーグ優勝を手にすると同時に、PFA年間最優秀選手と得点王の称号を得るに至った。これらがすべて、300万ポンド(約5億7200万円)以下で手に入ったのだ。
Getty Images Sportパトリス・エヴラがバラ色のサングラスをかけ、豪快な笑い声を響かせ、生の鶏肉を食べる奇行を見せるようになる前は、エヴラは優れた左サイドバックだった。2006年にマンチェスター・ユナイテッドに加入した時点で、彼はすでにフランス代表キャップを数回積み、モナコではチャンピオンズリーグ決勝にも出場していた。
アーセナル、リヴァプール、レアル・マドリーから関心が寄せられる中、どうしてマンチェスター・ユナイテッドがたった550万ポンド(約10億4900万円)で同世代最高のディフェンダーを獲得できたのかは謎である。
エヴラは8年間、右ウイングの選手たちに対して屈辱を与え、対面する相手を封じ込め続けた。
AFPセルヒオ・ラモスがいなければ、ディエゴ・ゴディンは同世代で最も重要なセンターバックとして記憶されていただろう。ただ、結局ゴディンは、2013-14シーズン最終戦のバルセロナ戦で同点ゴールを決め、アトレティコ・マドリーにラ・リーガ優勝をもたらした。さらに、その1週間後にはレアル・マドリーとのチャンピオンズリーグ決勝でも先制ゴールを挙げたが、残念ながら敗れてしまった。
その瞬間以外でも、このウルグアイ人は世界で最も激しくアグレッシブなディフェンダーの一人であり、対面したくない選手であった。
Getty Images Sport昔ながらの物々交換のような取引だ。経済的な問題があり解決策を探していたのだとしても、昨今ではあまり見られないやり方だろう。
2006年のアシュリー・コールのアーセナルからチェルシーへの移籍は、たった500万ポンドに万能ディフェンダーのウィリアム・ギャラスを追加することで実現した。その時ギャラスが西ロンドンに残りたがらなかったとしても、彼のポジションはコールに取られていただろう。
これが史上最高とも言われる左サイドバックの獲得費用だった。まるでポテトチップスとエナジードリンクでロレックスを手に入れるような取引だ。
Getty Images Sportチェルシーは過小評価されたサイドバックを探し出すのが得意なようだ。セサル・アスピリクエタはコールほどの才能はなかったが、ブルーズの成功には同じくらい重要だった。
アスピリクエタは2012年のチャンピオンズリーグ優勝直後、控えめな契約で加入し、右サイドバックでの競争力を高めるために呼ばれた。皮肉なことにスタンフォード・ブリッジでは10年以上に渡ってそのポジションでほとんどプレーせず、逆足の左サイドバックやセンターバックとして名を馳せた。
11年間、西ロンドンを訪れたすべての監督がアスピリクエタを起用し、その役割を見出した。それは決して偶然ではない。
Getty Images Sportエドウィン・ファン・デル・サールがフラムからマンチェスター・ユナイテッドに移籍した際、彼はもうすぐ35歳だった。これこそユナイテッドが彼を190万ポンド(約3億6300万円)で獲得できた理由だろう。もしあと6年キャリアを続けるとフラムが知っていたら、交渉はもっと厳しくなったかもしれない。
細身長身のオランダ人守護神ファン・デル・サールは、アレックス・ファーガソン監督が予感した通り、ピーター・シュマイケル以来クラブ最高のゴールキーパーとなった。ユナイテッドは2000年代に守護神探しに苦しんだが、ファン・デル・サールの加入で問題は解決した。
ファン・デル・サールはキャリアの終盤でピークを迎えた。1シーズン中の連続無失点記録(1302分)を更新し、2008年のチャンピオンズリーグ決勝ではニコラ・アネルカの決定的なPKを阻止した。この移籍は価値に見合うものだった。
AFP2005年のクリスマス、マンチェスター・ユナイテッドはスパルタク・モスクワからネマニャ・ヴィディッチを700万ポンドで獲得した。
レッドデビルはその2年前、セルビア人FWをスーパースターの可能性があると見込んでいた。しかし、フィオレンティーナへの移籍を逃しそうになる前に、移籍を完了させることはできなかった。最終的に彼が現れたとき、オールド・トラッフォードでは安堵のため息が漏れた。
今日に至るまで、ヴィディッチの名前はプレミアリーグの歴代ベスト・ディフェンダーのリストで、トップではないにしろ、突出している。これは、ユナイテッドによるセンセーショナルで至高のスカウティングであり、それが実を結んだのである。
Getty Images Sport価格が高い取引のため、リストの上位ではなく下位に位置している。それにもかかわらず、これは依然として愚かな取引だった。
トニ・クロースがバイエルン・ミュンヘンで控え選手の立場にあり、放出候補に挙がっていたことは問題ではなかったはずだ。彼が当初、デイビッド・モイーズのマンチェスター・ユナイテッドに加入することに同意していたことも問題ではなかったはずだ。レアル・マドリーがトニ・クロースのような選手を2500万ポンド(約47億6800万円)で獲得できたことは許されるべきではなかったし、バイエルンはどんなことをしても全力で彼を引き留め、できるだけ長期の契約を結ぶべきだった。
クロースがレアルに移籍した際、わずか8000人しかサンティアゴ・ベルナベウに集まらなかった。しかし、彼がドイツで最も栄誉ある選手として引退することをファンが知っていれば、スタジアムは満員になっていただろう。
AFP『フットボール・マネージャー』の真のファンならアンディ・ロバートソンの活躍にそれほど驚かなかったかもしれないが、そのストーリーは驚異的だ。左サイドバックのロバートソンは、2014年から2017年にかけてハル・シティで目立たない存在だった。彼のクロスとスタミナは評価されていたが、それがリヴァプールのようなトップチームで通用するかは疑問もあった。
しかし、結果としてユルゲン・クロップ監督が構築していたチームには最適な選手だった。彼はリーダーとして活躍し、ワイドなポジションからのクロスで多くのアシストを記録した。右サイドのトレント・アレクサンダー=アーノルドと共に、この5年あまりの間リヴァプールが世界最高のサイドバックを擁することになった。
Getty Images Sport21世紀には、時の流れに埋もれてしまったお買い得な移籍はそれほど多くない。しかし、ヴァンサン・コンパニがハンブルクからマンチェスター・シティへ移籍した際の700万ポンド(約13億3500万円)の取引はその一例だ。
プレミアリーグで偉大な選手となり、シティで伝説的な存在となった。ダービーではヘディングを得意とし、2018-19シーズンのプレミアリーグ優勝をほぼ決定づける一撃を放った豪快なセンターバックだった。
レスター戦のあの一撃の後、ガリー・ネヴィルが実況で「ヴァンサン・コンパニ、君の像はどこに欲しい?」と叫び、その後すぐにエティハド・スタジアムの外に像が建てられ、普及の存在として刻まれた。
AFPこの記事冒頭では、成功するためにはフットボールのエリートですらバーゲンを見つける必要があると述べた。さて、ここからはそのポイントを証明するレアル・マドリーに関連する話が続くことになる。
まずはラファエル・ヴァランの話だ。2010年代初頭、ランスのユースチームでの成長とティーンエイジャーでのトップチーム入りがレアルの注目を集めた。レアル・マドリーは彼を説得するためにあらゆる手を尽くし、クラブの伝説であり将来の監督でもあるジネディーヌ・ジダンとの面会まで設定した。
ヴァランはレアルを選び、ランスの時と同様に若い年齢で即座に強い印象を残した。この事実を最もよく表現したのは、当時の監督ジョゼ・モウリーニョかもしれない。彼は2013年、ペペの出場時間減少について問う難しい質問にうまく対処し、こう言った。
「ペペの問題にはある名前がつきまとう。それはラファエル・ヴァランだ」。まさにその通りだった。
Getty Images Sportロベルト・カルロスがひとつのクラブで長年活躍したことは、他のクラブにとって不公平だ。そしてさらに、その後継ともいえるマルセロをすぐに獲得したこともまた不公平だ。
レアル・マドリーはマルセロの才能を15年間にわたって享受した。彼は左サイドを縦横無尽に駆け抜け、クリスティアーノ・ロナウドと理想的なコンビネーションを見せた。そのピークは、2017年のチャンピオンズリーグ準々決勝、バイエルン・ミュンヘン戦でのプレーであり、歴代最高の左サイドバックの1つとして語り継がれている。
マルセロの長いキャリアがヴァランを上回る理由の1つだが、正直に言えばその差はごくわずかだ。
Getty Images Sportレアル・マドリーは若手選手を一旦売却し、安価な買い戻し条項をつけ、売り手クラブを少々手玉に取るのが得意だ。
ダニ・カルバハルは、2012年にカスティージャからブンデスリーガの強豪レヴァークーゼンへ移籍し、すぐにドイツのトップリーグで頭角を現した。そして1年も経たずにスペインの首都に戻った。
この経験はカルバハルにとって貴重なものとなった。それ以来カルバハルはレアルで不動の右サイドバックとして400試合以上に出場し、クラブのキャプテンにも就任している。
Getty Images Sportイタリアの共同保有ルールを覚えている人はいるだろうか。このややこしい制度にのせいで、ユヴェントスは2005年にジョルジョ・キエッリーニの購入費用をリヴォルノとフィオレンティーナの2クラブと分担することとなった。両クラブはキエッリーニをあまりにも安く、早々に手放してしまったのだ。
当時ユヴェントスは予想だにしていなかったが、彼らは次の10年間でイタリアを代表するセンターバックを手に入れていたのだ。キエッリーニはアレッサンドロ・ネスタやパオロ・マルディーニといったレジェンドたちの精神を受け継ぐ後継者となった。
キエッリーニがトリノで過ごした約20年は、ユヴェントスの歴史の中でも最も成功した時代の一つであり、キエッリーニはその堅牢な哲学を純粋なまでに体現した。18年間、彼はユヴェントスそのものだった。
AFPシルヴィオ・ベルルスコーニは、ACミランがカカを「はした金」で獲得したと語っている。サンパウロに710万ポンド(約13億5400万円)を送金して手に入れた華麗なミッドフィルダーであるが、この評価ですら過小評価であったことが驚くべき事実だ。
カカはあまりにも優れた選手で、DFは彼を阻止しようと自ら絡まり合って混乱してしまった。マンチェスター・シティは彼を世界初の1億ポンド(約190億7200万円)プレーヤーにしようとしたほどだった。この優れた才能をもって、背番号22は象徴的な存在となった。
2000年代のロッソネリ(ACミランの愛称)はイタリア版「銀河系軍団」だったが、その中でもバロンドールを受賞したカカはひときわ輝く存在だった。そして、そんなカカはたった9桁ポンドの金額でミランに加わったのだった。
Getty Images Sportレスター・シティの奇跡の物語にはあまりにも多くの語るべき階層があるため、全貌を把握するのは難しい。リヤド・マフレズの場合、彼は当初フォクシーズの注目の的ではなかったし、マフレズにしても、クラブを同じ町にあるラグビーチームの「レスター・タイガース」と間違えたほどだった。
レスターは当初、ル・アーヴルのチームメイトであるライアン・メンデスを狙っていたが、最終的には同じイニシャル「RM」を持つ別のウインガーに注目することとなった。そしてそのスカウティング出張を後悔することは無かった。
マフレズは、レスターがプレミアリーグで優勝した年にPFA年間最優秀選手に輝いた。そのチームの他の2人のスターはこのリストでより高い評価を受けているが(ネタバレ失礼)、彼こそがこの物語の中で最も印象を残した選手だった。
Getty Images Sportレスター・シティに加入したことが、ここでエンゴロ・カンテが取り上げられる主な理由だが、その後のチェルシーでの成功が彼をさらに突き抜けた存在にしている。
ミッドフィルダーとして世界最高のボール奪取力を誇るまでに急成長した姿は、統計やデータがロマンを少々失わせる現代においても、まだ発掘されるべき隠れた逸材が存在することを示している。
キャプテン・アメリカのようなスーパーソルジャーを作るために血清を注入しても、カンテほど息を切らすことなく走り続けるプレーヤーを作り出すのは難しいだろう。
AFP確かに、ズラタン・イブラヒモヴィッチは破格の価値がある伝説的な選手だったが、バルセロナはすでに4000万ポンド(約76億2900万円)近い金額の取引に、まるで使い古しのタイヤのようにサミュエル・エトーを付け加える必要はなかった。
カメルーンのストライカーは、歴史的な3冠を達成したバルセロナの最前線で活躍したばかりだった。彼がそんなに簡単に、しかし強制的に去らせられたことには、カタルーニャで大騒ぎが起こるべきだった。しかし、その損失はインテルにとって大きな利益となった。
エトーはジョゼ・モウリーニョのインテルに加入し、ディエゴ・ミリートと前線でコンビを組み、短期間ながらもサン・シーロで伝説的なパートナーシップを築いた。
2010年5月にインテルが欧州王者に輝いた後、エトーは唯一無二の偉業を達成した。彼は史上唯一、2つの異なるクラブで連続して3冠を達成した選手となったのだ。
Getty Images Sportジェイミー・ヴァーディは25歳までノンリーグ(5部以下のセミプロリーグ)でプレーし、レッドブルを飲みながら楽しむようにゴールを量産していた。しかし、25歳を超えた彼はチャンピオンシップやプレミアリーグで同じようにレッドブルを飲み、ゴールを決め続けている。
2016年のプレミアリーグ制覇に繋がったレスター・シティの卓越した才能発見力は、その真価を十分に証明した。ヴァーディは体調や年齢、疲労に関わらず驚異的な執念でプレーを続けることで生ける伝説となった。彼の身体能力は、人類の歴史を遡っても他に類を見ないほど優れている。
イングランドサッカー界での認知度は非常に高いが、かつてはナショナルリーグのフリートウッド・タウンでプレーしていた。伝記映画の公開が待ち遠しい。
Getty Images Sportクリスティアーノ・ロナウドが「史上最高の選手(GOAT)」とされるかどうかはわからないが、少なくとも多くの人は彼を歴代トップ3に数えるだろう。さらに重要なことに、21世紀で最も価値のあるお買い得移籍ランキングのトップにも立っている。その価値には値段をつけることができないだろう。
ロナウドがマンチェスター・ユナイテッドに初めて現れたのは、2003年のこと。その時はまだ髪もブロンドで、歯科治療が必要な状態だったが、プレシーズンの親善試合でいきなりユナイテッドを驚かせた。
レアル・マドリーへ移籍し、ありとあらゆるゴール記録を次々と打ち破る前ですら、ユナイテッド時代の初期のロナウドはすでにサッカー史上最高の選手の一人だった。これは間違いのない事実だ。