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【Hidden Gems FC】エンゴロ・カンテ:無名選手が世界中から最も愛される選手になるまで

その日の主役はエデン・アザールだった。このベルギー代表はカーディフ・シティ相手にハットトリックを達成し、チェルシーをプレミアリーグ首位に押し上げた。ところが翌日、あらゆるイギリスの新聞が掲載したのはカンテに関する記事だった。

すべては試合後の行動ゆえだった。しかし、カンテはスタジアム外で乱闘を起こしたわけでもなく、タブロイド紙が彼の過去からスキャンダラスな闇の秘密を暴いたわけでもない。カンテが注目を集めたのは、愛すべき人柄ゆえだった。その人柄こそが、2010年代後半に彼を世界で最も愛されるサッカー選手のひとりに押し上げたのである。

  • 「単なる優秀なサッカー選手以上の存在」

    カンテはスタジアムから飛び出し、セント・パンクラス駅へと急いでいた。パリに住む家族を訪ねるため、必死でユーロスターに乗り込もうとしていたのだ。しかしプロ入りしてから滅多にないことに、カンテは列車に乗り遅れてしまった。

    そこでカンテは近くのモスクを訪れることにした。彼を出迎えたのはバドルル・ラーマン・ジャリルだった。アーセナルのサポーターであるジャリルはカンテを自宅に招待した。高給取りのプレミアリーグのスター選手なら即座に断るかもしれないが、謙虚なフランス代表選手は喜んで承諾した。

    「モスクで一緒に礼拝しました」と、ジャリルはワールドカップ優勝者との出会いについて『BBC』に語った。「イスラムの習慣では誰でも夕食に招くので、彼も誘ったまでです。彼はひとりで帰宅する途中だったので、一緒に来てくれました。彼はタンパク質が豊富な食事を望んだので、チキンカレーを食べました。その後、彼はゲームの『FIFA』で私たち全員に勝ち、みんなで『マッチ・オブ・ザ・デイ』を観ました。とても楽しい夜でした」。

    「彼が謙虚なのに驚いた」と、同席していたジャリルの友人が『ツイッター』に記した。「彼は単なる優秀なサッカー選手以上の存在だ。私にとって彼は、お手本にすべきムスリムであり、善良な人とは彼のような人のことである」。

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  • N'Golo Kante Leicester CityGetty Images

    「最も親しみやすい人」

    このような話は、カンテに関しては例外ではなく、むしろ普通のことである。例えば、彼はかつて、3度のバイパス手術を受けたばかりのチェルシーファンを励ますために、3時間もかけてそのファンを訪ねたことがある。1年後、彼はそのファンの娘の結婚式に出席し、そのファンと再会した。

    カンテは派手なフェラーリを運転するわけではなく、ミニクーパーを常用している。カーンで一緒にプレーし、この内向的なMFの面倒を見ていた元DFでブラジル出身のフェリペ・サードの話も、カンテの性格を如実に表している。

    「彼は私が知っている中で最も親しみやすい人物だ」と、サードは『UOL Esporte』誌に語った。「サッカー界では、もはやそのような人物を見かけることがない。だからこそ、ロッカールームにいる全員が彼を愛している。彼はテレビで見かける姿とまったく同じだ。いつも恥ずかしそうな笑顔を浮かべていて、滅多にしゃべらない」。

    「私は最初から彼の面倒を見てきた。ある時、私の誕生日パーティーに招待したことがある。イギリス料理店で、他に2、3人の選手を呼んだだけの小さな集まりだった。突然、彼はチョコレートの箱を手に、とても気まずそうな顔で店に入ってきた。エンゴロは贈り物について謝りながら、『誕生日パーティーに招待されたことが一度もなくて、何を贈ればいいか分からなかった』って言ったんだ!」

  • ささやかな始まり

    2017年、PFA年間最優秀選手賞を受賞した際のカンテの独特なスピーチは、瞬く間に世界中に広まった。「皆さん、ありがとう。拍手をありがとう」と、当時26歳の彼は愛らしい笑顔を浮かべて語った。声は震え、何度も「えーっと」と口ごもり、額に浮かんだ汗から滲み出る緊張感が、愛すべき光景を作り出していた。

    「これは大きな栄誉だ。数年前までフランスの下部リーグでプレーしていたのに、この場に立てるんだから。5年前にはプロのサッカー選手ですらなかったのに…」

    それこそが、物語を驚くべきものにしている理由だ。この好感の持てる謙虚な中盤の戦士が、なぜこれほど長く注目されなかったのか? その答えを見つけるには、まずパリの西にあるリュエイ=マルメゾンまで戻らなければならない。1980年にフランスの首都へ移住したマリ人の両親のもとで育ったカンテが、幼少期を過ごした場所である。

    「幼い頃からサッカーが大好きだった」と、カンテは2023年、プレミアリーグの公式YouTubeチャンネルのインタビューで語った。少年時代、彼は当時フランスサッカー界の9部リーグに属していたJSシュレンヌと契約した。「そこでサッカーのある生活について学び、努力することを身につけた。監督たちはしばしば、僕より年上で背が高く体格の良い少年たちのチームに僕を起用した。その差を、努力と粘り強さで埋めたんだ」。

    フランスのアマチュアクラブでカンテを指導したひとりであるピエール・ヴィルは、シュレンヌでのカンテの日々について多くの質問を受けてきた。「彼を初めて見た時の記憶と言えば、テーブルよりも背の低い少年だったことだ。身長は120センチにも満たなかったが、満面の笑顔でここに来て、ただ静かにサッカーをやりたがっていた。いつもあのかわいらしい笑みを浮かべていた」。

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  • 逆境を乗り越える

    しかし、その笑顔の背後には痛ましい悲劇が隠されていた。9人兄弟のひとりであるカンテは、11歳のときに父親を亡くしていた。彼はゴミ拾いをしてわずかな小遣いを稼ぎ、母親を助けながら、脚力と肺活量を武器に、サッカーを救いとしていた。しかし、21歳の誕生日を迎える頃になっても、まだプロのクラブからオファーはなかった。数キロしか離れていないパリ・サンジェルマンからも、まったく連絡はなかった。

    「彼は、単純に体が小さすぎて、目立たなかった」と、ヴィルは『BBC』で語った。「彼は自分のためではなく、チームのためにプレーしていた」。

    最終的にカンテは、フランスのブローニュにあるチームから誘われることとなったが、まずは5部リーグでプレーするBチームに所属することとなった。

    「ブローニュでプレーしていた頃、プロ選手として成功できるかどうか確信が持てなかったので、勉強も続けていた」と、カンテは『スカイスポーツ』で語っている。「18歳のときにバカロレア(フランスの大学入試資格試験)に合格し、その後2年間、会計学を勉強した」。

    カンテにとって転機となったのは、2012年夏にミシェル・エステバンの後任としてジョルジュ・トゥルネが監督に就任したことだった。トゥルネはクラブのユースチームを見直し、誰からも見過ごされていた選手、カンテを見出した。

    「私は着任してすぐ、彼を含む若手選手全員をテストした」と、トゥルネは『フィガロ』紙で言った。「すぐにエンゴロに目が行った。ボールのない時での動き、技術、ポジショニング、スタミナ。なぜ彼がBチームにいるのか理解できず、即座にプロ契約を結んだ」。

    体力テストでチームメイトたちが疲労困憊して倒れる中、カンテは何分間にもわたって走り続け、トゥルネは驚嘆した。その後、カンテは21歳でモナコ相手にデビューを果たし、リーグ・ドゥ所属のブローニュのトップチームに定着。そのシーズンにブローニュは降格したものの、『NG』ことエンゴロは3部リーグでさらに確固たる地位を築いていくこととなる。

  • Leicester City v Everton - Premier LeagueGetty Images Sport

    ボール泥棒がやってきた

    カンテは2013年にカーンに移籍し、2部リーグに復帰。チームのリーグ・アン昇格に貢献し、全試合に出場した。1年後、カンテはヨーロッパの主要リーグで最多のボール奪取数を記録し、この事実はイングランドでも注目され、レスター・シティのスカウト責任者スティーブ・ウォルシュは、他のクラブがカンテを狙っていないことを密かに祈っていた。

    ウォルシュは新監督のクラウディオ・ラニエリにカンテの価値を説得するという難題も乗り越えなければならなかった。このイタリア出身監督は、小柄なカンテではプレミアリーグで通用しないのではないか、十分な身体能力があるのか、疑念を抱いていた。だがウォルシュは以前からこのMFに注目していたため、練習場でラニエリ監督と会うたびに「カンテ、カンテ」と耳打ちし、ついにラニエリ監督は折れた。

    「彼が練習グラウンドの食堂に来たという話を聞いた」と、ラニエリのアシスタント、クレイグ・シェイクスピアが、カンテの加入について『ザ・アスレティック』に語っている。「誰もが少し驚いた。彼の体格を見て、アカデミーのトライアルに来たのかと思ったんだ!」

    ウォルシュはそれまでにもリヤド・マフレズとジェイミー・ヴァーディをレスター・シティに連れてきていたが、カンテについての判断も正しかったことは、すぐに証明された。ラニエリ監督は、ミスパスをすべて回収し、動くものすべてにタックルを仕掛ける、このフランス出身のエネルギッシュな選手にたちまち魅了された。

    「実際には、彼はそれほど頻繁にタックルするわけではない」と、ヴィルは気づいていた。「相手の足元からボールを奪うんだ。それはまったく別物だ」。

    この小柄なボール泥棒は、キング・パワー・スタジアムのピッチの至る所に現れた。SNSでは「地球の70%は水で覆われている。残りの30%はエンゴロ・カンテがカバーしている」と、評された。シーズン終了時、カンテのチームはプレミアリーグ優勝を果たした。レスター・シティのロッカールームに溢れる数々の奇跡的な物語の中でも、彼の物語は最も予想外の展開だった。

  • FBL-NATIONS-FRA-NEDAFP

    究極の賞

    その成功の代償として、レスターは優勝メンバーを次々と引き抜かれたが、最も高額だったのはカンテだった。チェルシーは新王者から、当時の移籍金記録を更新する約3,000万ポンド(約63億円)の移籍金を支払ってカンテを西部ロンドンに連れてきた。

    「まるで双子とプレーしているようだ」と、ウェストハム戦の後、アザールはカンテについて記者団に語った。「ピッチにいる時、彼が2人いるように見えるんだ!」

    カンテはアントニオ・コンテ監督のチェルシーがプレミアリーグ連覇を達成する上で重要な役割を果たした。しかし真の栄冠は翌年、フランス代表がロシアW杯の決勝でクロアチアを4-2で下して優勝した時に訪れた。

    モスクワでの決勝戦で胃腸炎を患いながら前半をプレーした後、後半早々に交代するまで、カンテは全試合にフル出場していた。兄ニアマが亡くなった直後にもかかわらず、大会の全試合に出場しており、カンテは不平を言わず、どれほどの痛みにあっても決して笑顔を絶やさなかった。

    フランス代表が優勝を祝うためスタッド・ド・フランスに戻った時、カンテは、ほとんど気まずそうな表情を浮かべていた。ぎこちなく微笑むとサポーターに向かって親指を立て、ワールドカップのトロフィーのてっぺんをそっと叩いた。

    ところがその直後、カンテは新たなヒットソングの主人公として祝賀の中心に出ることとなる。ジョー・ダッサンの『シャンゼリゼ』のメロディに乗せて歌われた歌詞はこうだった――「彼は小柄で、愛らしく、レオ・メッシを止めた男。だけど、みんなが知っている、彼はいかさま師だ!」。この最後のフレーズは、UNOをやっている時にカンテがカードを隠したのをキリアン・エンバペが目撃したエピソードを指している。これはその時点までのカンテの輝かしい経歴における唯一の「汚点」だった。

  • ピッチ外での影響

    カンテは2021年にチェルシーでチャンピオンズリーグ優勝を果たしたが、その後の2シーズンは膝、ハムストリング、鼠径部のケガに悩まされ、2023年夏にサウジアラビアのアル・イテハドへ移籍した。

    30代半ばとなった現在、巨額の年俸を得たカンテは多くの善行を行なっている。2025年にはマリに500万ドル(約8億円)相当の最先端の病院を建設し、貧困層の医療アクセス向上に貢献。さらにマリに「NGアカデミー」を設立し、子供たちにサッカーの夢を追う機会を提供している。

    「サッカーでの成功は素晴らしいが、何よりも大切なのは人間として正しくあることだと彼に示せたことを、私たちはこの上なく光栄に思っている」と、ユース時代の監督ヴィルは微笑みながら語った。「エンゴロの評判を私たちは誇りに思う。彼は皆から愛される存在だ」。

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