■勝利とイコールの存在
ここはレアル・マドリーの本拠地サンティアゴ・ベルナベウ。日付は6月2日、時刻はまもなく24時になろうというところだ。
ピッチ上につくられた舞台では、デシモキンタ(15回目の欧州制覇)を成し遂げたばかりの選手たち、カルロ・アンチェロッティ率いるコーチングスタッフがビッグイヤーを中心にして輪をつくって、回りながら歌を歌っている。チームの面々を回らせ、歌わせるのは7万人以上集まった白の信奉者たちだ。
彼らはデシマ(10回目の欧州制覇)達成の際につくられたイムノのほか、お馴染みのチャントも天に響かせていた。
「アシ! アシ! アシ・ガナ・エル・マドリー(マドリーはこう勝つ)!」
「コモ・ノ・テ・ボイ・ア・ケレール?(どうして愛さずにいられようか) シ・フイステ・カンペオン・ウナ・イ・オトラ・ベス(何度となく欧州王者になったのならば)」
……つくづく、凄まじいチャントだと思う。世界の最たる常勝クラブは、そのサポーターから勝つことを大前提とされている。彼らを愛する理由のハードルは、あまりに高い。リヴァプールの「ユール・ネヴァー・ウォーク・アローン(人生一人ではない)」、アトレティコ・デ・マドリーの「エナモラード・デル・アトレティ、ノ・ロ・プエデス・エンテンデール(アトレティへの愛、お前には分かるまい)」、ベティス の「マンケ・ピエルダ(たとえ負けようとも)」など、無条件の愛を誓うものとは真逆のベクトルである。
マドリーのサポーターは、彼らを応援するチームが絶対的な勝者なのだと信じて止まない。そうでないとみなせば、容赦なく監督や選手たちをこき下ろしてきた歴史がある。傍から見れば、狂気じみているように思えるだろう。
しかし、僕は確信している。マドリーはだからこそ、どんな状況でもゴールを決め、最後には勝利をつかみ、どこよりもタイトルを獲得しているのだ。「おかしいのはほかのクラブだろ? 正しいのは私たちだけだ」という盲目的な思い込みがあるからこそ、他の追随を許すことがないのだ。だからこそマドリーは、惜敗で流す涙も感動のドラマになるフットボール界で、唯一勝利とイコールで結ばれる存在なのだ。
■“レアル・マドリー”そのもの
(C)Getty Images今回のチャンピオンズリーグ(CL)決勝ボルシア・ドルトムント戦の前、僕は盟友のスペインフットボールカルチャーマガジン『パネンカ』の記者兼コーディネーターであるルジェー・シュリアクに一つのコラムを依頼した。そのテーマは「バルセロナファンから見たマドリーの嫌いなところ」。現在のマドリーに抱える嫌悪感を書き連ねてもらい、逆に彼らの強さを浮き彫りにすることを意図していた。
ルジェーにとっては書くのをためらうテーマかもしれず、申し訳ない気持ちもあった。しかし、その出来は想像を優に超えるものだった。そこには僕の今後の人生に永遠に刻み込まれるであろう、こんな言葉も記してあったのだ。
「レアル・マドリーでプレーするために生まれた選手などいない。“レアル・マドリー”はホセルの頭の中、ナチョの心の中、もしくは、フェデ・バルベルデのつま先に宿っているものなのだ」
「彼らは勝者のメンタリティを、マドリディスモ(レアル・マドリー主義)の根幹たる不撓不屈の精神を、まるで伝染性の真菌のように培養して、成長させていったのである」
これは10年で6回のCL優勝を達成したマドリーの核心を突いた言葉だと思う。彼らの現在の黄金期が始まったのは、デシマを達成した2013-14シーズンのCL決勝アトレティコ戦。当時もアンチェロッティに率いられていたチームは、0-1で迎えた92分48秒にモドリッチのCKからセルヒオ・ラモスがヘディング弾を決めて延長戦にこぎ着け、逆転優勝を果たした。
CL優勝から12年間も遠ざかっていたために、それまで辛辣な批判も受けてきたマドリーは、デシマから新たな勝者のメンタリティーを体得している。劇的勝利からの優勝という経験は、“自分たちのクオリティーならば最後まであきらめないことで絶対にゴールを決められる。最後には絶対に勝っている”、という自信を生み出した。それはクリスティアーノ・ロナウド、S・ラモス、ベンゼマらが残していき、カルバハル、ナチョ、モドリッチ(デシマ後に加わったクロースも)らが伝え続けているメンタリティーであり……ルジェーが記した“レアル・マドリー”そのものである。
■名監督
(C)Getty Imagesマドリーの近年の補強方針は、資金力で太刀打ちできない国家クラブの出現で大きく変化し、大物選手の獲得から有望な若手選手の青田買い(それでも多額の移籍金を支払ったりしているが)にシフトした。
バルベルデ、ヴィニシウス、ルニン、ブラヒム、ロドリゴ、ミリトン、カマヴィンガ、チュアメニ、ベリンガム……デシマ以降、CLで何度も優勝してきたクラブに憧れる若手たちは加入前から“レアル・マドリー”を頭の中や心の中に宿し、先輩たちの導きでそれを具現化している。……いや、若手だけではない。31歳リュディガーは世界最高のCB級の活躍を見せ、苦労人である34歳ホセルも今季マドリーが収めた成功に欠かせなかった。“レアル・マドリー”は、チーム内のほぼすべての選手に浸透している。
そして、監督の存在も重要だ。マドリーは明確なプレースタイルを持たず、勝てない時期が続くと批判とともに「やはりスタイルが必要なのではないか?」という論争が常々巻き起こってきた(メッシとグアルディオラのバルセロナが欧州を席巻していた時期が最たる危機だったろう)。しかしアンチェロッティ(加えてジダンも)は、マドリーというまるで大洋のような存在を、プレースタイルといったような枠で囲う無謀な真似をしなかった。
映画界の名監督は、名優と呼ばれる役者に細かい指示を行わず、用意するセットや状況から凄まじい演技を引き出すというが、アンチェロッティもまた然りである。選手時代のジダンのプレーを見て、個の力を信じる大切さを痛感したというイタリア人指揮官は、ありとあらゆる状況で個々の力を生かそうと試みている(例えばドリブル突破の総量が年々激減している欧州フットボール界で、類い稀な才能を持つヴィニシウスにちゃんと勝負をさせている)。彼は個々を重視しつつもそれを“勝つ”ために使うのが非常にうまく、その道程においてチームは守備的にも攻撃的にも振る舞う(これは攻守の切り替えがシームレスになりつつある現代フットボールにも合致する)。そしてクラブの見事な補強手腕により、その陣容には名優ばかりを揃えるのだ。
アンチェロッティと、自分たちが誰より優れていると自覚する選手たちは知っている。もしフットボールが暴力なき代理戦争なのだとしたら、自分たちがその公理に最も忠実であることを。試合は究極のところでは、スタイルやパフォーマンスの優劣や勝利に値したかどうかに関係なく、スコアで上回るか下回るか、やるかやられるか、勝つか負けるかしかないのだ。
■永遠であり、不滅
(C)Getty Imagesドルトムント戦は、マドリーのこの10年の集約を見たような思いだった。前半は間違いなくドルトムントのペースでゴールを決めるに値したが、決定力不足やクルトワの好守によって0-0のまま試合を折り返した(ここでバルセロナファンのルジェーは言っていた。「どれだけ押し込まれても、マドリーが負けるなんて期待するだけ無駄だ。結局、こいつらは勝つんだよ。むしろ1点取られてビハインドを負った方が、逆転して確実に勝てるんじゃないか?」と)。
迎えた後半は、開始直後に前半からナーバスな表情やプレーを見せていたベリンガムが足の痙攣を止めるような仕草を見せている。過去にモリエンテスが「CL決勝では緊張し過ぎて40分で足がつってしまった」と語っていたようなことが、これからフットボール界を背負うであろう20歳のMFの身にも起こったわけだが、すると、クロースとカルバハルが決勝でのゴールの決め方を伝授している(どれだけジャブを浴びようとも、冷静に相手を一撃でダウンさせるストレートを炸裂させればいい)。前者がいつものように正確無比なCKを蹴ると、173センチの後者がS・ラモスを彷彿させるようなへディングシュートでネットを揺らした。
先制後、今度は若手たちが自分たちに宿る“レアル・マドリー”を示している。前線でのボール奪取をきっかけに、ベリンガムのスルーパスからヴィニシウスがペナルティーエリア内左に入り込み、左足のシュートでGKコベルを破った。ドルトムントの選手たちは前半に迎えた数多の決定機を逸したときから、マドリーの脅威に染められた不安の表情を浮かべていたが、誰もが覚えていた予感はやはり的中した。マドリーはアトレティコ戦(×2)、ユヴェントス戦、リヴァプール戦(×2)に続いて、またも絶対的勝者であることを、そして、その精神性がベテランから若手に受け継がれていることを示したのである。このマドリーは永遠であり、不滅だ。
■16回目の欧州制覇へ
(C)Getty Images決勝から1日後に行われたベルナベウでの祝勝会は、日付が変わり6月3日となってから終了している。意気揚々とスタジアムを出たサポーターたちは、クラクションをリズミカルに鳴らしながらカステジャーナ通りを走る車やバイクに対してマフラーを掲げながら「アラ・マドリー!」と叫び、あふれ出る歓喜を交感していた。
サンティアゴ・ベルナベウ駅の入り口に吸い込まれてからも、彼らのお祭りは終わらない。メトロを待つホームで「アシ! アシ! アシ・ガナ・エル・マドリー!」「コモ・ノ・テ・ボイ・ア・ケレール?」のチャントを繰り返し歌い、絶対的勝者たる我がクラブへの忠誠を誓うとともに、「チャビ・ケダテ(残ってくれ)!」「トニ(・クロース)・ケダテ!」と、これこそ本当に不可能と思えることにも可能性を見出していた。
そして彼らはもちろん、こうも叫ぶのである。
「ア・ポル・ラ・デシモセクスタ(16回目の欧州制覇へ)!」
白の信奉者たちにとって、一つの優勝は次の優勝への出発点。そしてここ10年間のマドリーであれば、それはクロースの引退を撤回させるよりも、ずいぶん簡単なように思える。
クリスティアーノ、S・ラモス、ベンゼマ、ベイル、ジダン、マルセロらが去ってもマドリーはマドリーであり続けた。そして今季の終わりには、もうすぐ39歳となるのにレギュラー奪還の意欲を燃やすモドリッチ、最高の姿のままスパイクを脱ぐことを決意したクロースが道を分かち、彼らの大きな背中を見つめるバルベルデ、ヴィニシウス、ベリンガムらがマドリーの神話をこれからも押し広げていこうと息巻いている。さらに今夏には、エンバペまでもスペイン首都に到着する。クリスティアーノに恋焦がれた彼もまた、“レアル・マドリー”をその心と体とつま先に宿しているのだ。
メトロに乗った後も人々は歌い、叫び続けた。途中から乗り込んでくる人たちは、そんな彼らの様子を笑みを浮かべながら眺めたり、スマートフォンで動画を撮ったり、あるいは、ちょっと煩わしそうにしていた。一駅通過する度に、白いユニフォームを着る人の数は減っていったが、僕が家の最寄駅で降りるときにも声は途絶えていなかった。
今のマドリーはひょっとすると、彼らが心に思い描いた狂気じみたような理想像すら上回る。だからこそ愛を叫ばない理由など、信じることを止める理由など、パラシュートなしで飛行機から突き落とされたとして、空を飛べないと思う理由など、どこを探しても見当たらない。
その証左こそが、“レアル・マドリー”なのだ。
取材・文=江間慎一郎




