バスクを代表する両クラブによるダービーマッチだが、当然のように熱狂に包まれる一方で、サッカー界では珍しく“友好的”なダービーとして知られている。そんな大一番と久保建英の関係を、現地記者が紐解く。
文=ナシャリ・アルトゥナ(Naxari Altuna)/バスク出身ジャーナリスト 翻訳=江間慎一郎
(C)Getty Imagesバスクを代表する両クラブによるダービーマッチだが、当然のように熱狂に包まれる一方で、サッカー界では珍しく“友好的”なダービーとして知られている。そんな大一番と久保建英の関係を、現地記者が紐解く。
文=ナシャリ・アルトゥナ(Naxari Altuna)/バスク出身ジャーナリスト 翻訳=江間慎一郎
(C)Getty Imagesバスクは今、特別な1週間を過ごしている。この記事はフットボール専門メディアで公開されており、バスクには超有名な日本人選手がいるのだから、なぜ特別な1週間なのかはおおよそ検討がつくだろう。そう、ダービーである。土曜日にビルバオで、アトレティック・クラブ対レアル・ソシエダが開催されるのだ。
歴史も気質もまったく異なる、バスクの両雄の対戦である。赤白のアトレティックはレアル・マドリー、バルセロナとともにリーガ1部から一度も降格したことがない無傷の、しかし傷つくことを恐れぬ“漢”たちが在籍する名門クラブだ。その愛称はレオネス(獅子たち)。
対して久保建英が所属する青白のソシエダは、1970年代に1部に定着。2007年に一度2部に落ちたものの、そこから力強く1部復帰を果たして以降、同カテゴリーの強豪に位置付けられる。歴史的にはアトレティックの方が獲得タイトル数が多いが、ここ最近のソシエダはリーガの順位で彼らを上回り、また2年前のコパ決勝ダービーではミケル・オヤルサバルのゴールによって、1-0でレオネスを下している。
そんな彼らが激突するバスクダービーは、ほかのダービーと変わらずとても情熱的な一戦だ。が、ほかとは異なり非常に友好的なダービーでもある。カップルの片方が赤白、もう片方が青白のユニフォームを着て観戦することだって珍しくなく、そのように赤と青がまばらに散りばめられたスタンドはお祭り的なムードを醸し出している。ほかのダービーであれば“まぜるな危険”であっても、ここで危険な化学反応(試合後の憎しみ合い、いがみ合い、騒動)はほとんど起きることがない。だからこそアトレティック&ソシエダ以外の選手たちは、バスクダービーに理想なスポーツマンシップを見出し、羨望の眼差しを向けるのである。
アトレティックとソシエダはバスクで、それぞれが本拠を構える県を代表する存在だ。バスクで最も大きな県はビスカヤであり、その県都こそビルバオ。アトレティックはその共同体において大事な大事な象徴として扱われている。そのことはエウスケラ(バスク言語)で歌われる彼らのイムノの一節、「この村はお前を愛している。お前はその腹の中から生まれたのだから」によく表れているだろう。
アトレティックの本拠地サン・マメスは、カテドラル(大聖堂)の愛称で知られている。土曜の試合、選手入場の直前にはチャラパルタが打ち鳴らされることになる。チャラパルタはバスク伝統の打楽器であり、私たちの先祖は隣の村と交信するために使用していた。これもまたバスク文化のかけがえない象徴であり、アトレティックのサポーターは試合前、この楽器を用いてカテドラルの荘厳な雰囲気をつくり上げるのだ。
(C)Getty Imagesフットボールは文化や人々の感情と密接に結び付いており、バスクの両雄と彼らの“友好的”なダービーは、そのことをありありと体現している。アトレティックとソシエダの両キャプテンが、イクリニャ(バスク民族旗)をキャプテンマークとしてその腕に巻いていることにしてもそうだ。その旗はフランシスコ・フランコの独裁政権が続いた40年間、使用が禁止されているものだった。
1976年12月5日、レアル・ソシエダの旧本拠地アトーチャではイクリニャにまつわる感動的なダービーが行われている。フランコはその1年前にこの世を去ったが、バスク旗の使用はまだ禁止されたままだった。しかしソシエダの選手たちは一枚だけ入手することに成功し、密かにスタジアムへと持ち込んでいる。
バスクの人々はイクリニャ、ひいてはバスクという土地に深い思いを抱えている。ソシエダの選手たちはその気持ちを皆と共有すべく、アトレティックの選手たちと密かに話し合い、両チームでイクリニャをその手に持ってピッチに入場した。その様子を見た人々は胸に秘めていたバスクを思う気持ちを、まるで突き上げるような気持ちを、両目から涙としてあふれさせたのだった。
それから少ししてイクリニャの使用は正式に認められることとなり、両チームのキャプテンが土曜も腕に巻く旗へとつながっていくのだ。人々はこういった事象を、“伝統”と呼ぶのである。
(C)Getty Imagesスペイン・フットボールの黎明期、アトレティックはバルセロナとともに、このスポーツの支配者として君臨していた。フランコの独裁制の中でも、アトレティックの選手たちは体育という観点で手本にすべき存在だった。
フットボールをビルバオに持ち込んだのはイギリス人であり、アトレティックのプレースタイルはそれから今まで、ずっとイギリスのスタイルと紐づけられている。20世紀初頭、アトレティックで名を馳せた監督はウィリアム・バーンズ、ミスター・ペントランドという2人のイギリス人であり、彼らが情熱的かつ頑健でダイレクトなフットボールの種をビルバオに植わったのだった。だからこそ、その花が咲き乱れるサン・マメスにおいて、フットボールはロックンロールとして扱われている。息つく暇などない。
対してギプスコアの県都サン・セバスティアンに位置するソシエダも、その地域に深く根ざした存在だ。実践するフットボールにも同じことが言え、バスク人の性格を反映するように逞しく、力強い守備と良質なカウンターを特徴としてきた。加えて彼らは、高レベルのGKを何人も輩出してきたことでも知られている。
しかし世紀の変わり目に、ソシエダのフットボールは変化を遂げることになった。2002-03シーズン、フランス人指揮官レイノー・ドゥヌエの手によってポゼッション&連係重視のスタイルを身につけた彼らは、ガラクティコ(銀河系軍団)のレアル・マドリーと最後まで競り合った末、リーガ準優勝を達成。この新たなプレースタイルは、成功体験とともにクラブ哲学に深く浸透することになった。
それから10年後、また別のフランス人指揮官フィリップ・モンタニエに率いられたソシエダも、チャンピオンズリーグ(CL)出場権獲得という成功を手に。さらに10年を経た現在もドゥヌエがもたらしたスタイルは維持されており、日本人の久保も擁するチームは今一度CL出場を果たそうとしている。
(C)Getty Images次の土曜日、私たちはプレーリズムが極めて高い試合を目にすることになるだろう。アトレティックは後方からボールをつなごうとするソシエダを、インテンシティーあふれるハイプレスで潰そうとするはず。エルネスト・バルベルデ率いるアトレティックも、例に漏れずダイレクトなフットボールを好んでおり、ソシエダとは正反対にビルドアップにそこまで時間をかけない。
アトレティックのギアを上げるのは、イニャキとニコのウィリアムズ兄弟である。兄のイニャキはその快速によって前方のスペースを突き、同じく快速の弟ニコは1対1で相手を抜き去ることで優位性を生み出す。どちらも若く、意思が強く、才能にあふれる兄弟……ソシエダで言うならば、まるで久保のようだ。
久保はシーズン前半戦、ソシエダの本拠地アノエタでバスクダービーを経験。しかも、ただ経験したというだけでなく、チーム2点目を決めて3-1の勝利に貢献した。前半37分のゴールにもかかわらずユニフォームを脱いで、スタンドのサポーターと喜びを分かち合っていたが……彼こそ一番のお祭り男だった。
そして今回のダービーで、久保はサン・マメスの真の迫力を知ることになる。カテドラルはレアル・マドリー及びバルセロナとのクラシックマッチ、そしてダービーでこそ、世界屈指の熱狂を生み出すのだ。
(C)Getty Imagesさて、1976年のイクリニャのダービー、2020年のコパ決勝ダービーのことはすでに記したが、ほかにも覚えておいて損のないダービーがある。1980年代、彼らはリーガ優勝をかけて直接対決に臨んだのだった。
ソシエダとアトレティックは1981年から1984年までの4年間、リーガのタイトルを独占していた。1981-82シーズンのリーグ戦はサン・セバスティアンのダービーで決着がつき、ソシエダがアトレティックを2-1で下してクラブ史上初の優勝を達成。また1983-84シーズンは戦ったスタジアムも結果も逆となり、アトレティックがサン・マメスでソシエダを2-1で下して2シーズン連続、通算8回目の優勝を果たしている。ダービーがリーガ優勝決定戦になるというのは、バスク・フットボールにとって本当に誇らしいことだった。
それから、時代は変化していく。フットボール界は移籍マーケットに飲み込まれていき、育成に重きを置くクラブは逆境に立たされることになった。それでもアトレティックは自分たちの哲学を維持し、反対にソシエダは下部組織だけでは不十分と、1980年代の終わりから外国人選手への扉を開いている。
しかしながら現在、一時期は外国人選手に頼っていたソシエダも、再び“自家製の選手”にこだわるようになった。ソシエダは下部組織の選手構成比をギプスコア出身80%、その他の地域20%、トップチームの構成比を下部組織出身60%、獲得選手40%とする方針を打ち立て、自分たちの地域を大切にしている。
ソシエダの下部組織で、前述のポゼッション&連係重視のスタイルは全年代で一貫して使用されており、トップチーム昇格を果たした若手たちはまるで以前からプレーしていたように、すんなりと溶け込むことができる。そしてそれは、久保にとっても同じことだった。彼は下部組織で賄い切れなかった才能を持ち、それでいて下部組織出身の選手たちと同じフットボール言語を話す選手なのである。
久保はソシエダというクラブ、バスクという土地に完璧に適応しているように思える。しかし、だからといって自分がどこからやって来たのかを忘れてはいないようだ。
4月上旬、ソシエダの練習場ではすでに伝統となっているU-17国際トーナメントが行われたが、同大会には久保の古巣FC東京も参加していた。日曜日、久保は試合直前の日本人選手たちに近づいて挨拶を交わし、一緒にベンチに座って少し話し込んでいた。まるで、バスクと日本の架け橋であるかのように。
バスクは“自分たちの場所”や“自分と同じ人々”を大切にする。日本人たちと気さくに話す久保を見ながら、なぜ「ここのアイデンティーに合致したのか」、その理由が見えた気がした。きっと2回目のバスクダービーでも、“熱くて”ユニフォームを脱いでしまうくらい、燃えてくれるはずだ。