Balotelli Rebel United 16:9GOAL

才能のムダ遣い?治しようがない“悪童”?それとも誤解され続けた天才?マリオ・バロテッリという男【Rebel United:反逆者たち】

2025年5月、マリオ・バロテッリはイタリア国営放送『RAI』のインタビューで、リラックスしながらこう語った。

「ヨーロッパで起きているすべてに少し疲れたんだ。次はどこへ行くかって? アメリカだ。引退する前に、あと2~3年プレーしたい」

これはお別れと言うよりも、静かな引退宣言のようだった。キャリアの大半を世界と、そして内なる悪魔と戦ってきた選手のラストダンスだったのかもしれない。35歳を目前に控えるバロテッリは、一時期は間違いなく世界のフットボールを牽引する才能を持っていた。だが同時に、その天賦の才を捨てた“悪童”でもあった。

今回の『Rebels United:反逆者たち』は、おそらく史上最も才能に溢れた“悪童”の物語をお届けする。

  • Mario Balotelli Time MagazineGetty Images

    「スーパーマリオ」の終焉

    力強さと優雅さを併せ持ち、そして類まれな得点感覚を備えた万能ストライカー……クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシが絶頂期にあった時代に、彼らに次ぐバロンドール候補とされたのも当然だった。難民の子として生まれ、新たな多様性を持つイタリアの象徴でもあった。2013年、『タイムズ』が選ぶ「世界で最も影響力のある100人」にバラク・オバマやスティーブン・スピルバーグ、ビヨンセらと共にも選出されている。当時のバロテッリは22歳。マンチェスター・シティとイタリア代表でプレーし、世界で最も恐れられるFWの1人だった。当時に、フットボール界にはびこる人種差別に声を上げた最初の選手でもあった。

    それから12年、バロテッリが世界のフットボール界を牽引することは、ついになかった。話題になるのは主にピッチ外のことばかりであり、2024-2025シーズンに所属した故郷のジェノアでも6試合の出場のみ。本人はパトリック・ヴィエラ監督との関係性に問題があったと主張している。

    あの『RAI』のインタビュー後、多くの人の頭に浮かんだのは、キャリアを通じて繰り返されてきた疑問である。「権威と不平等と戦い続ける永遠の反逆者、理解されない天才なのか?」、それとも「規律と成熟に欠ける更生不能な“悪童”なのか?」と。

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  • Balotelli Jose MourinhoGetty Images

    “矛盾の迷宮”

    「反逆者」と「無法者」の境界線は、多くの人にとって曖昧なものだ。バロテッリが歳を重ねるごとに、彼が「世界で最も影響力のある100人」に選出されたプレー以外の面を評価する人間はいなくなっている。

    彼の物語は“矛盾の迷宮”だ。強靭な肉体とボールを扱う特別な技術を持ち、豪快にシュートを叩き込み、美しいゴールを何度も決めながらも、決して笑顔を見せない冷徹な選手である一方で、同時にそのピッチでの優雅さを台無しにするような行動も繰り返した。アフリカ系移民の息子としてイタリアの英雄にもなったが、自国サポーターからは猿の鳴き声で嘲笑もされ続けた。

    確かに、彼への批判は彼自身が巻き起こしたことでもある。だが同時に、「見捨てられた」という感覚は最後まで消えなかった。それが彼の生涯のテーマである。常に「バロテッリvs世界」だった。“Why always me?”。

  • FBL-EURO-2012-GER-ITA-MATCH30AFP

    奴隷からの解放

    スポーツには、単なる結果を超越する瞬間がある。選手たちはアイコンとなり、試合そのものを遥かに超えた文化的象徴となる。2012年6月28日、その主役はマリオ・バロテッリだった。ワルシャワで開催されたEURO準決勝で、イタリアはドイツと対戦。この2年後に世界王者となるドイツは、圧倒的な優勝候補とされていた。だが、その夢を打ち砕いたのがバロテッリである。

    最初のゴールは20分、“愛すべき狂人”アントニオ・カッサーノがボックス左端で2人のDFをかわしてクロスを送ると、バロテッリはマークを振り切って力強くジャンプし、強烈なヘッドを叩き込んだ。そして36分、リッカルド・モントリーヴォからのロングパスを受けると、優しくボールをコントロールし、圧倒的なスピードでゴールへ直進。パワーと精度が融合した豪快なミドルシュートは、当時世界最高のGKであったマヌエル・ノイアーも反応できないほどの一撃だった。

    信じられないような2点目の後、バロテッリはシャツを脱ぎ捨てて自らの肉体を誇示するとともに、その力を見せつけるようにその場に立ち尽くした。その顔に笑顔はなく、その表情からは研ぎ澄まされた集中力が感じ取れる。まるでハルクのようだった。

    バロテッリは後にあのパフォーマンスについて、「奴隷からの解放」を表現したかったと明かしている。フットボールを通して、強烈なメッセージを発信する反逆者であったのだ。『タイムズ』はこう綴っている。

    「まるで『これが俺、黒いイタリア人の肌だ』と言っているようだった。イタリアの英雄、黒く誇り高い男が、イタリア全体を抱きしめるよう呼びかけていた—―—『イタリアのアイデンティティの境界線に、新たな概念を』と」

  • バロテッリのすべて

    フットボール史上最も有名なあのパフォーマンスは、今では世界的なネット・ミームにもなっている。ハルクやバレリーナ、月やタイタニック、はたまた建設作業員に……彼は1人のフットボーラーからポップカルチャーの象徴に変貌を遂げた。それこそ、バロテッリのすべてを凝縮したものだ。

    あのゴールパフォーマンスは、その前の圧巻のゴールがなかったら生まれなかった。それができるのは世界最高レベルの選手だけである。そして彼が絶えず直面し続けた人種差別という問題に対する反逆でもあった。だが同時に、相手選手やサポーターが不快に感じるものであったのも事実である。それが今ではミーム化され、込められた深い意味は削ぎ落とされ、手軽に消費できるジョークの1つに変わってしまった。天才であり、反逆者であり、悪童であり、そしてアイコンである彼を象徴するすべてである。

    あの瞬間は、確かにバロテッリのキャリアにおける頂点だった。21歳で世界の頂きにたどり着いていた。しかし、それを維持するために絶え間ない努力をするつもりはなかったようだ。

  • Mario Balotelli Manchester Derby why always meGetty Images

    Why always me?

    イタリアに新たな価値観をもたらした英雄から、世界中の笑いものへ……マリオ・バロテッリにとって、その境界線は常に低いものだった。21歳で迎えたワルシャワの夜がキャリアの頂点であれば、子供じみたいたずらと無謀さ、無意味な挑発でその頂点から転がり落ちていくのもあっという間だった。

    2011年3月、「ただ退屈だった」という理由だけでユースチームの選手に向かってダーツを投げるという暴挙に出た。そのわずか半年後、今度はマンチェスター・ユナイテッドとのダービーの36時間前に、バルセロナで花火を暴発させて40万ポンドの損害を与えている。さらに遡れば、イングランドにやってきた直後、練習に向かう途中でアウディR8を破壊。やってきた警察から財布に5000ポンドが入っている理由を尋ねられ、「俺は金持ちだからだ」と淡々と答えている。

    驚くような規律の欠如は、ピッチ外のことだけではない。ディナモ・キエフ戦で食らわせたカンフーキックや、スコット・パーカーの頭部を故意に殴った事件はほんの一部に過ぎない。練習中にも、彼の唯一の理解者であったロベルト・マンチーニを含むチームメイトと何度も小競り合いを起こしている。

    そして極めつけは、彼を象徴するもう1つの瞬間である「Why always me?」だろう。マンチェスター・ユナイテッドを6-1で撃破したあのダービーで見せたあのシャツは、フットボール史上最も有名なシャツであるかもしれない。多くの人間は彼の傲慢さを象徴する事象だと思っているが、本人は後に「俺のことを知らないのに悪く言う連中に、ただ『なぜいつも俺なんだ?』と訪ねただけだ」と振り返っている。

    本人曰く、あのパフォーマンスがその傲慢さを示すものではなく、平穏を願う訴えであったようだ。だが、容認できないような幼稚な行動を繰り返したのも事実である。自身が作り上げたパブリックイメージによって世界的な名声を手にした一方で、そのパブリックイメージの被害者でもあり続けた。「Why always me?」は修辞的なものではなく、存在論的なものであったのだ。

  • Mario Balotelli daughter PiaGetty Images

    癒えない傷

    バロテッリを理解するためには、彼の幼少期を知ることが重要だ。あの冒険心や傲慢さ、そして権力への犯行は、決して癒えることのない深い傷の表れでもあるかもしれない。彼の生涯は子供の頃の喜びではなく、痛みと分断から始まっているのだ。

    1990年にパレルモでガーナ系移民の家庭に生まれた彼は、生後間もなく命にかかわる腸の病気を患い、1歳になるまでに何度も手術を必要とした。そして3歳になる前に、貧困に苦しむ両親は彼をブレシアの養子縁組家庭であるバロテッリ家に預けることになる。彼はこの分断を乗り越えることができていない。「放棄は癒えない傷だと言う人もいるが、俺はただ『捨てられた子どもは決して忘れない』とだけ言っておく」と2008年に語っている。このトラウマは消えないのだろう。

    そして、イタリアという国の制度が彼をさらに困難な状況に追いやっている。バロテッリはイタリアで生まれ育ったにもかかわらず、イタリア国籍を申請できるのは18歳になるまで待たなければならなかった。彼は今でもこれを激しい不平等だと訴えており、『RAI』のインタビューでも改めて言及している。

    幼少期の分断や市民権の問題、人種差別など、幼い頃から何度も社会的な問題に直面してきたバロテッリ。自身の過ちを正当化する言い訳として機能している一面もあるかもしれないが、彼の燃え盛るような反逆心と幼稚な振る舞いはこうした経験が影響しているのかもしれない。

  • Balotello RacismGetty Images

    「イタリア人に黒人はいない」

    そんなバロテッリは、1人のプロフットボーラーとしてデビューした後も社会的な不平等に苦しめられている。イタリアにはびこる人種差別という巨大な問題に立ち向かう象徴となったが、その役割は決して彼が求めたわけじゃない。彼の肌の色と名声によって押し付けられたものだった。それは残酷であり、露骨であり、一時はイタリア中に存在していた。スタジアム中に響き渡る「イタリアに黒人はいない」という歌、投げつけられるバナナ、ボールに触れるたびに巻き起こる猿の鳴き真似は、イタリアで生まれ育った彼を容赦なく傷つけている。

    イタリア代表でプレーしていた時でさえも、心無い言葉や行動が彼を襲った。「人種差別は、フットボールを始めたときにはもう始まっていた」と本人は語っている。またスタジアムだけでなく、EURO2012直前にイタリア最大のスポーツ紙『ガゼッタ・デッロ・スポルト』がビッグベンに登るキングコングを模したバロテッリの漫画を掲載。後に正式に謝罪しているが、こうした事件もバロテッリを激怒させた。

    バロテッリは、彼と同じような移民の子どもたちにとって、自身存在と帰属意識を主張する世代の象徴となった。その憎悪への反応は衝動的なものだったが、影響力は絶大だ。ブレシアに所属していた2019年のヴェローナ戦、人種差別被害を受けた彼はボールを広い、怒り狂ってスタンドに蹴り込んだ。そのままピッチを去ろうとしたが、チームメイトに説得されて試合を続行している。

    こうした公然の場での反抗は、多くの人間が目を背けてきた問題を改めて提起するものである。『コリエレ・デラ・セラ』が表現したように、バロテッリは人種差別との闘いの「証人」となった。それはイタリアだけでなく、主に白人社会で暮らす黒人が味わっている苦い真実を浮き彫りにしたのだ。本人が後に語ったように、バロテッリが「イタリア人」と認められるのは勝利の瞬間だけであり、自らが作り上げなければいけなかった。逆にピッチでの失敗や問題行動が話題になると、彼は難民として世間からあまりにも悲惨な扱いを受けている。バロテッリが反逆者であり続けたのは、自身の根本的な権利を守るためでもあった。

  • Mario Balotelli RaiGetty Images

    輝くような笑顔を

    だが結局、そうした彼の戦いは忘れ去られ、最後には「何でもできたはずの男が、その才能を完全に無駄にした」という事実だけである。バロテッリは「俺は天才だと思っているが、反逆者ではないんだ。俺の人生があり、世界がある。誰にも迷惑をかけずにやりたいことをやりたい」とかつて語っている。しかし、彼のその思いは現実とはあまりにも対照的だ。

    彼のその偉大な才能を見れば、2012年以降はミラン、リヴァプール、ニース、マルセイユ、そして小規模クラブを転々とするなど、「失敗」の一言で片付けられるかもしれない。だがそこには、彼が直面し続けた社会的問題と自ら招いた批判など、深い問題があることは忘れてはならない。

    そして今、バロテッリはアメリカに行くことを望んでいる。完全に改心した男として? おそらくそうではないが、キャリアの晩年を迎えて落ち着きを取り戻している。『RAI』のインタビューでは、「確かにもっとできたかもしれない。だが、幸せだった」とキャリアを振り返っている。

    常に激情に流され続けてきた彼は、幼少期から望み続けていた本当の平穏を見つけることができるのだろうか? その答えは不明だが、『RAI』で見せた輝くような笑顔がこれまで以上に続くことを願いたい。