Adriano Rebel UnitedGetty Images, Footballco

アドリアーノ:インテル・ブラジルの“皇帝”を蝕んだうつとアルコール、そして一発の弾丸【Rebel United:反逆者たち】

フットボールにおいて、「シュート」は特別なプレーだ。ある時は選手を“神”とするし、ある時は笑いものにもする。西ドイツ代表ヘルムート・ラーンは1954年ワールドカップで伝説的なシュートを叩き込んだ。彼の同胞であるマリオ・ゲッツェも同じことを語れるだろう。一方でロベルト・バッジョは、1994年ワールドカップ決勝戦で放った1本のシュートが未だに悲劇として語られ続けている。

そして、アドリアーノ・レイテ・リベイロまた、「シュート」によって永遠に人々の記憶に残りづつけている。それはポジティブな意味でも、ネガティブな意味でも。ロナウドの後継者として、そして“皇帝”としてファンの熱狂的な人気を集めた男。当時のブラジル代表指揮官カルロス・アルベルト・パレイラが「フットボールの歴史を描く」と称賛した男。彼の左足は素晴らしく、残酷で、強烈だった。

そんな“皇帝”は、フットボールにおけるすべてを手にする才能があった。しかしリオデジャネイロのスラム街で生まれ育った男は、アルコールに溺れ、うつ病に苦しみ、この世界から姿を消していったのだった。

  • 転機

    偉大な才能がそのキャリアを踏み外して転落していく時、必ず1つの疑問が頭をよぎる。「そのきっかけは何だったのか?」、アドリアーノの場合、この質問の答は簡単だ。

    1992年3月のある夜、リオのスラム街ヴィラ・クルゼイロにて、警察が「コマンド・ヴェルメロ」と呼ばれる悪名高い麻薬組織の首領を摘発するために突入した事件だ。

    「あの日、私の人生は変わった」アドリアーノは数年後に『FIFA』で語っている。当時10歳の少年だったアドリアーノは、郵便配達員をしていた父親のアルミール・リベイロが頭部を撃ち抜かれるを目撃した。一命は取り留めたが、手術を受ける費用はなく、弾丸は頭蓋骨に残ったままだった。12年後、その弾丸は息子であったアドリアーノの頭の中にくすぶる火種に火をつけている。

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  • Adriano InterGetty

    鮮烈なデビュー

    アドリアーノの才能を開花させたのは、当時フラメンゴのユースコーチだったルイス・アントニオ・トーレス。DFだった彼について「特別な才能はない。彼は良かったが、チームメイトより優れてはいなかった。不器用で、技術に欠けていたと思う。ブラジル人らしくなかった」と振り返っている。そして14歳のアドリアーノがプロテストに落選寸前だった時、トーレスはセンターフォワードで起用するように頼んだ。これがキャリアを大きく動かしている。

    ストライカーというポジションを見つけたアドリアーノは、その後ユース年代を席巻。U-17ワールドカップで決勝ゴールを決め、1年後にはフラメンゴのプロチームデビュー。デビューから5分で初ゴールを決め、さらに3ゴールをアシストした。すぐさまブラジル中の注目を集めると、彼はフラメンゴから受け取った最初の給料で家族のためにリオの高級住宅街バーハ・ダ・チジュカにアパートを購入。憧れであるロナウドの家があるエリアだ。犯罪と殺人事件が万円するスラム街から脱出することを決めた。

    そして彼の才能は、当時インテルの筆頭株主だったマッシモ・モラッティの耳にも届いていた。

  • 象徴的な一撃

    フラメンゴでの2シーズン目を終える前、モラッティは500万ユーロと選手の譲渡を提示し、アドリアーノの獲得に成功。2度目の十字靭帯断裂の影響で苦戦していたロナウドの後継者として、加入3日後にはレアル・マドリーとの親善試合でプレーしている。そしてこのデビュー戦について、地元紙は「魔法のような8分間」と表現した。

    ピッチに立った青年はアイトール・カランカを翻弄、股抜きで置き去りにすると、フェルナンド・イエロすらも圧倒した。90分には自らFKを獲得すると、時速180kmの弾丸をゴール右上隅に叩き込んでいる。この伝説的なゴールは、未だにアドリアーノを象徴する1場面として語り継がれている。

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    パルマでの輝き

    鮮烈なインテルデビューを果たしたアドリアーノだったが、ロナウドの復帰が近づき、さらにクリスチャン・ヴィエリらも健在だったため、その冬にはフィオレンティーナへレンタル、2002年の夏にはパルマへ移籍している。

    フィオレンティーナでは15試合で6ゴールを奪って英雄のように愛されたが、クラブが降格し、さらには破産したことでクラブを変えることに。すると、パルマが1450万ユーロ払って獲得。パルマではアドリアン・ムトゥと最高の関係を築き、03-04シーズンは開幕9試合で8ゴールを叩き込んでいる。この圧倒的な活躍によってインテルサポーターから圧力をかけられたモラッティは、2004年冬には買戻しを行った。

  • Adriano Copa AmericaGetty Images

    国民的英雄として

    ブラジルではアドリアーノを嘲笑と軽蔑の意味を込めて「トマバドゥール」と呼んでいたころ、彼はインテルでは英雄として扱われていた。シーズン終盤の6試合で6ゴールを決めたことで、その地位は絶対的なものに。“皇帝”という愛称はそのことから使われている。

    そんな“皇帝”は、ブラジル代表としてコパ・アメリカにも参加。ロナウドとロナウジーニョが不在のセレソンですら控えと目されていたが、宿敵アルゼンチンとの決勝でも2ゴールを奪うなど、7得点を挙げて得点王に。優勝の立役者となり、ついにブラジル国民にも認められる存在となったのだ。そして決勝戦後、あの銃撃による病状が進行していた父へ涙ながらにタイトルを捧げている。

    「このタイトルは父のもの。僕の人生で最高の友人であり、パートナーだ。彼がいなければ、僕は何もできなかった」

    当時のブラジル代表指揮官は「彼はフットボールの歴史を描き、次のワールドカップ3大会を支配する。それは確実だ」と絶賛。国民的英雄として、スーパースターへの道を確かに歩んでいた。

    しかし2004年7月25日、最愛の父が他界。これを機に、彼のキャリアは大きく道を外れることになる。

  • Adriano Confederations CupGetty Images

    最愛の父の死

    父親を失ったことをミラノで知ったアドリアーノは、まるで自分の世界が崩壊したかのように壊れていった。インテルの伝説的なキャプテン、ハビエル・サネッティは数年後に『Sempre Inter』で「電話を投げ捨てて、叫び始めたんだ。その叫び声は想像もできないような絶叫だった。今でもそのことを思い出すと鳥肌がたつ。その日から私とモラッティは、彼を兄弟のように見守るよう決心したんだ」と振り返っている。

    04-05シーズンの前半はセリエA16試合で14ゴールを記録し、サネッティらのサポートによって父の死を乗り越えたかのように思われた。2005年にドイツで開催されたコンフェデレーションズカップでも再び得点王となり、最優秀選手にも輝いた。カカ、ロナウジーニョ、ロナウドとともに“ファンタスティック・フォー”の一員として、さらなる輝きを期待されていた。

    しかし、最愛の人を失った悲しみ、痛み、怒りはアドリアーノの心を蝕み、悪魔のような存在としてつきまとった。サネッティは語る。

    「彼はプレーを続け、ゴールを奪い、そのゴールを天国の父へと捧げ続けた。しかしあの電話以来、彼は別人になってしまったんだ」

    2018年のテレビ番組に出演した際、アドリアーノ自身は当時をこう振り返った。

    「イタリアで一人ぼっちだった。孤立し、悲しみとうつに襲われた。だから飲み始めたんだ。毎晩ね。手に入るものは何でも飲んだよ。ワイン、ウィスキー、ウォッカ、大量のビール……やめられなかったんだ。いつも酔っ払っていたよ」

  • うつ病とアルコール

    ドイツ・ワールドカップ出場直前の数日、アドリアーノはブラジルで友人たちとパーティーを開いた。

    「彼はまだ内気で静かな少年だった。だが僕らにとって、ディディコ(アドリアーノの友人たちの間での愛称)は英雄だった。だが、うつ病とアルコールは彼の生活の一部になっていた」と、親しい友人が『FourFourTwo』に語っている。そんな彼の友人(スラム街で共に育ち、後に道を踏み外した人たち)の中には、あの「コマンド・ヴェルメロ」に加わった者たちもいる。

    アドリアーノはワールドカップで2ゴールを奪ったが、かつてのブラジル国民の英雄の姿はもうそこにはなかった。セレソンも準々決勝で敗退。こうして彼のキャリアは転落していく。

  • Adriano MourinhoGetty Images

    インテルでの最後

    毎晩のように夜中までパーティを続けると、インテルでの練習を欠席するのを恐れてまったく眠れない日々が続いた。本人は「朝、酔っ払って練習場に行くと、二日酔いを終わらせるためにメディカル部門に送られた。いつもマスコミには筋肉に問題があると伝えていたね」と振り返っている。体重は20キロも増加し、自制心を完全に失っていた。

    2008年、モラッティは「自分を探すための休暇」をアドリアーノに与えた。サンパウロへレンタル移籍し、28試合で17ゴールをマーク。相手選手への頭突きなどいくつか問題は起こしたが、希望は持てる状況までは回復していた。

    そしてその半年後にインテルへ復帰することになるが、まだ早すぎた。アドリアーノは再び悪循環に陥ってしまい、ジョゼ・モウリーニョですら彼を扱えなかった。2009年4月のインターナショナルウィーク後には、チームに復帰することなく失踪。一時は死亡説まで囁かれた。その数日後には公の場に姿を表したが、「フットボールへの愛情を失った」と明かし、そのまま契約解除に至っている。

  • 一発の弾丸

    その後アドリアーノはフラメンゴに復帰し、47試合で35ゴールをマーク。17年ぶりのブラジル全国選手権制覇に導いた。しかし2010年ワールドカップの代表メンバーから外れたことが決定打になる。

    それ以降、ナイトクラブでの喧嘩や薬物使用疑惑が次々と報じられると、ネット上で金色のAK-47を片手にとマフィアのボスとポーズを取る写真が流出。犯罪組織に保護料を支払わされ、さらには「コマンド・ヴェルメロ」に加入したまで噂された。2010年にはローマに加入してセリエAに復帰したが、結局トラブル続きのまま退団。コリンチャンスではアキレス腱断裂の重傷を負うと、さらに体重は増加し、選手として再起することはできなかった。その4年後の2016年、マイアミ・ユナイテッドで現役を引退。ロナウドの後継者としてブラジルを担う存在と期待された男の、悲しい結末だった。

    後にアドリアーノは、キャリアを振り返ってこう漏らしている。

    「残念ながら、本当の問題が周囲の人間だと気づくのが遅すぎた。僕を『友人』と呼ぶ人たちは、ただパーティに連れて行って女性を与えるだけだったんだ。キャリアはこうして終わってしまった」

    アドリアーノが道を外れそうになった時、サネッティをはじめ止めようとした人は確かにいた。しかし、心のなかにまとわりつく悪魔を振り払うことができなかったのだ。その悪魔は、彼が10歳の時から心を蝕んでいる。父親を襲った一発の弾丸は、最終的にその息子のフットボーラーとしてのキャリアも破壊している。

     

  • FBL-BRA-ADRIANO-FAREWELLAFP

    スラムへの帰郷

    サネッティは「彼をうつ病から救えなかった。それが私のキャリアで最大の敗北だろう」と語る。またインテル時代のチームメイト、ズラタン・イブラヒモヴィッチも後悔を抱えている。

    「加入した時に会長へすぐに話した。『あいつを売るな。アドリアーノのプレーしたい。あいつは怪物だ』とね。どんな角度でもゴールを奪えたし、ボールを失うことは決してなかった。だが、キャリアは短命過ぎた。フットボールはメンタルが50%以上を占める。それが整っていないと難しい」

    そんな悲しい結末を迎えたアドリアーノだが、数年後にそのキャリアが報われる瞬間が訪れている。2021年5月、彼は伝説的なスタジアムであるマラカナンの「ウォーク・オブ・フェイム」に刻まれた。ペレ、ジーコ、ロマーリオ、ロナウド、ロナウジーニョ、カカなど、偉大な選手たちと共に、その足跡が永遠に刻まれたのだ。その知らせを受けた時、涙が止まらなかったという。アドリアーノは昨年末、『The Players' Tribune』で自身を「フットボール史上最大の無駄遣い」と表現した。本人が認めるように、フットボール界が失ってしまったものは確かに巨大すぎるものだった。

    そんなアドリアーノは今、すべての始まりの地、ヴィラ・クルゼイロに戻っている。酔っ払ってシャツと靴を脱ぎ捨て、裸足で路地を散歩する。彼はこれを2日に1度繰り返す。ドミノで遊び、縁石に座り、過去の物語を回想する。幼少期と、“皇帝”としての人生を。音楽を聴き、友人と踊り、床で眠る。そして、こう呟くのだ。

    「どの路地にも、父の姿が見える」