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メッシのW杯優勝=サッカーそのものの勝利:孤高からリーダーへ、現実から永遠へ【特別寄稿】

5度目の挑戦にして、ついに悲願のワールドカップ優勝を達成したリオネル・メッシ。アルゼンチン代表、ひいてはサッカー界を常にリードし続けてきた史上最高の選手の優勝の意味を、バルセロナ出身小説家のジョルディ・プンティ(Jordi Punti)が綴る。

文=ジョルディ・プンティ(Jordi Punti)

翻訳=江間慎一郎

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    勝利

    もうずっとずっと、この文章をしたためかった。ようやく、“そのとき”が訪れたのだ。

    気持ちを鎮めてパソコンの前に座ってみる。もちろん、10番のユニフォームを着たままだ。まず最初に記したいのは、このワールドカップを勝ち取ったのがリオネル・メッシ、アルゼンチンだけではないということ。トロフィーをつかんだのは、私たち全員なのである。この文章を読んでる君と、あなたと、君もそう。もっと言えば、悲しみに暮れるフランス代表の選手たちだって含まれる。彼らは負けたと思っているのだろうが、月日が経てばあの決勝の舞台でメッシと対戦したことが、後世に語り継げる幸運であったと気づくだろう。

    なぜならば、このW杯の勝者はフットボールそのものだったのだから。同様に、リオネル・アンドレス・メッシ・クッシッティーニのフットボーラーとしての歩み(最初にロサリオ、次にバルセロナ、その後にパリ)を追いかけ続けた人々にとっても報いのときになった。

    今回のW杯決勝が、史上最高の決勝であったかは分からない。PK戦までもつれ込んだ試合は確かに劇的かつ激しいものだった。だが絶対に間違いないのは、W杯史上最も感情に訴えかける一戦であった、ということだ。不安と、恐怖と、感動と、数え切れない抱擁と、何リットルもの喜びの涙と……。何百万、何千万、何億人もの私たちが一選手の運命を見つめていた。世界的にこんなにもその実力を認められて、こんなにも愛されている選手は前例がない。

    じつのところ、メッシが至高の存在であることを示すためにW杯を勝ち取る必要などなかった。ただ、ある場所でずっと疑惑の影が存在し続けていたのも、また確かだった。そう、彼の母国アルゼンチンである。だが今回の勝利で、メッシは自国のフットボールヒエラルキーの最も高い位置、ディエゴ・マラドーナの隣についに据えられることになった――いや、ディエゴを上回った可能性すらあるかもしれない。

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    苦痛

    決勝はアルゼンチン・フットボールの本質を要約していた。それはつまり、苦しみ、である。ニコラス・タグリアフィコが「苦しまなければ価値がない」と言っていた通りに。このW杯を通して、アルゼンチンは苦しみながら勝利を手にしてきた。楽々ゲームを支配しているときでさえ、崖っぷちに立たされているような緊張感を覚えたくらいだ。

    初戦のサウジアラビア戦でいきなり土をつけられたのは、今後の道のりが思っている以上に険しいことを警告していたが、オーストラリア戦など自分たちの望むような展開にできていた試合であっても、不意の失点で状況はややこしくなった。最たる例は、オランダ戦だ。アルゼンチンは80分にわたり導権を握り続けていたが、10分間のカオスから同点に追いつかれ、結局PK戦で決着をつけねばならなかった。今思えば、あれはフランス戦の予行演習だった。同じような形で延長戦、PK戦までもつれ込み、主役となった二人もメッシ、ディブ・マルティネスとまったく同じだったのだから。

    どうして、アルゼンチンは苦しまなければならないのか? 私はメッシ、ニコラス・オタメンディ、ロドリゴ・デ・パウル、アレクシス・マック・アリスター、アンヘル・ディ・マリア、フリアン・アルバレスという名前から、その宿命を想像してしまう。名前から察するに、彼らの祖父や曽祖父は自分たちの未来、新たな世界、根を張れる場所を求めて欧州から南米に辿り着いたはず。アルゼンチンの勝利は逆境にも負けることなく運命の終着地点、新たな世界を探して見つけ出すことに似ている。

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    永遠

    メッシのフットボールに惚れ込んでいる私たちは、2010年の南アフリカ・W杯から、今、この瞬間を待ち望んでいた。あのとき、彼はまだ23歳だったがすでにスター選手として輝き、なおかつアルゼンチンを率いていたのはマラドーナだった。しかし南アフリカでも、2014年のブラジルでも、2018年のロシアでも願いは叶えられなかった。メッシ本人の言葉を借りるならば、「起こらなかった」ということだ。では、今回はその前の3大会と、一体何が違っていたのだろうか?

    最初に挙げられるのは、35歳という年齢だ。ベテランとなったメッシは今回が“ラストダンス”になることをはっきりと自覚していた。そして何よりも、一緒に連れ立った選手たち、監督が彼を一人にしなかったことが大きい。彼らは危機的状況でもメッシに頼り切ろうとせず、逆にその状況から彼を守っていた。2018年にリオネル・スカローニがアルゼンチンの手綱を握って以降、メッシは孤高の存在であることをやめて、“同輩中のリーダー”になったわけだ。

    これまで代表チームにのしかかる重圧を一手に引き受けていたメッシだが、その荷物の一部を仲間たちに預けたことで歳を重ねた体も幾分から軽くなり、クラブチームレベルで決定的プレーを連発するようになった。加えて、彼はこれまでにも増してアルゼンチン人になっている。かつてないほど他者から支えられるメッシは、孤独に抱えてきた不安を集団主義的な確信へと変えて、喜びも怒りもチームメート、サポーターと共有していた。

    そして最後に挙げるのは、これまでとの違いではなく、これまでと同じであり続けているもの。メッシを見ていると、もう若くはないという現実に由来する限界を節々に感じるが、それにも増して技術に限界がなさ過ぎる。フィジカルばかり取り沙汰されるこの現代フットボールで、ほぼほぼ技術だけでここまで決定的な存在になれるというのは現実を超越している。たとえヨシュコ・グヴァルディオルを一度かわして、しかし抜き切れなくて追いつかれたとしても、そのドリブル能力でもって永遠に翻弄し続けられるのが、彼の魔法の域にまで昇華された技術である。

    思い出すのは、何度も見返した幼少時のメッシのプレーだ。その動画の彼はまだ5~6歳で、ほかの誰よりも痩せていたが、すでに10番をつけていた。守備組織も何もない試合で10番はボールを求め、一度足元にそれが届けばもう二度と取られない。相手の反応を置き去りにするドリブルに股抜き、そしてゴール……。試合がリスタートされてもメッシのゴールにまで至るプレーがただひたすらに繰り返されていく。そのときから魔法は存在していたのだ。

    そしてその動画の途中では、「さあレオ、見せておやり! 見せてやるんだ! 見せてやるんだよ!」という女性のかけ声が聞こえてくる。これは推測だが、彼女はひょっとして、メッシの祖母セリアなのではないか。他の子よりも幼いメッシをプレーさせるよう地元チームの監督を説得し、日々彼の手を引いて練習まで連れて行き、彼が11歳の頃に天に召された祖母。メッシはそれからここまで、ゴールを決める度に両手を天にかざし、人差し指を立てて彼女に捧げてきた。私たちは子供の頃から変わらない(しかしずっと凄まじい)メッシを、ずっとずっと見てきたのだ。そして2022年12月18日、彼はセリアもマラドーナも見守っていたであろうカタールの空に向け、ついにW杯を掲げたのである。

    ペレ、エンバペ、チャールトン、ベッケンバウアー、ジェルソン、トスタン、リベリーノ、ジャイルジーニョ、ケンペス、マラドーナ、ジダン、ロナウジーニョ、イニエスタ……。フットボール史に残る彼らは、いずれも30歳前にW杯を獲得し、その存在を神聖化している。反対に、すでにその存在が神聖化されていたメッシはフィジカルが衰え、技術だけが残されつつある35歳というキャリアの黄昏時に、あきらめず再びトロフィーに手を伸ばし、皆に助けられながら今度こそそれをつかんだ。メッシがW杯で優勝しないフットボール界は、カインド・オブ・ブルーの存在しないジャズ界と同義だったが、フットボール界のマスターピースはより感動的な形で生まれたのだった。繰り返すが、これはフットボールの勝利にほかならない。

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    幻肢痛

    さて、ではこれから何があるのだろうか? メッシはもうすべてのタイトルを獲得し、その栄光は不朽のものとなった。まだ、やり残したことはあるのだろうか? おそらく彼は今後もフットボールを楽しみ続けるだろう。アルゼンチンについては「W杯というタイトルに名誉を与えるため」に、もうしばらくプレーすると公言しているし、パリ・サンジェルマンでも手にできるタイトルは片っぱしからつかもうとするはずだ。それこそが勝者の性であり、なおかつほぼ手中に収めるとはいえ8回目のバロンドール受賞も懸かっているのだから。

    しかしメッシの未来を見つめるとき、部屋の中にいる象ほど気になってしまうことが一つある。彼が最も長い年月を過ごし、望んでもいないのに退団を迫られ、退団会見で人目もはばからず深い悲しみの涙を流した――そう、バルセロナの存在である。

    今は難しいことのように見えるが、始まりの場所に戻ってスパイクを脱ぐことほど、美しい終わりはないのではないだろうか。彼だけが、レオ・メッシだけが過去を修正する力を持っている。今は「起こらない」ことなのかもしれないが、今なお幻肢痛を感じる私たちは、最後には優勝したW杯のように、“そのとき”をずっとずっと夢見てしまうのだ。

    【著者プロフィール】

    ジョルディ・プンティ(Jordi Punti)

    1967年生まれ。バルセロナ出身の小説家・コラムニスト。『Maletas perdidas(失われたスーツケースたち)』はいくつもの賞を受賞して16言語に翻訳された。フットボールについてのコラムも20年にわたって執筆し、特にバルセロナに熱を上げる。メッシのコラム集『Todo Messi(すべてメッシ)』は、世界最高の選手を叙情的に、ときにおどけながら描写。ジョゼップ・グアルディオラがメッシの「訳文」として絶賛するなど高い評価を受けた。