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“ユトレヒトの白鳥”マルコ・ファン・バステンの歓喜と悲哀に満ちた物語:史上最高のゴールと最も悲しい5分間【GOAL's Hall of Fame パート2】

オランダ史上最高の選手・指導者である故ヨハン・クライフから、フットボールに関わる様々な技術を学んだマルコ・ファン・バステン。その恵まれた体格だけでなく、白鳥のような優雅さと蝶のような軽やかさでピッチを漂い、見るものを欺き続ける足技やタッチで相手を翻弄し、正確なパスとシュートで得点を演出する……まさに漫画の世界から出てきたような偉大なアタッカーであった。彼のプレーは現代のファンにも、『Youtube』や『TikTok』を通して衝撃と興奮を与え続けている。

キャリア通して24ものチームタイトルを手にし、3度のバロンドールを含む数々の個人賞を受賞。現代フットボールでも十分スター選手として活躍できるであろうこの元オランダ代表FWは、誰もが認めるフットボール界のレジェンドだ。だがしかし、彼の偉大なキャリアは悲劇的な形で幕を閉じている。そうしたことも含めて、彼に魅了されるものは後をたたないのだ。

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    歓喜と悲哀

    1988年EURO決勝ソビエト連邦戦での圧倒的な輝きから、1995年8月18日の感動的な引退試合まで、“ユトレヒトの白鳥”のキャリアはフットボール史に永遠に刻まれる忘れがたい瞬間で満ち溢れている。

    まずは、フットボールに最高の喜びをもたらすゴールだ。クラブレベルで奪った277ゴール、代表チームで奪った37ゴールはどれも素晴らしいものだ。

    その中でも最も美しいゴールは、あの1988年EURO決勝戦。1-0とリードしていた54分、左サイドからMFアーノルド・ミューレンが送った緩やかなクロスを、強烈かつ繊細かつ完璧なタッチでダイレクトボレー。一瞬、誰もが目を疑うようなスーパーゴールがネットに突き刺さったのだ。このゴールを未だに「フットボール史上最も美しいゴール」に挙げる人も多いだろう。それほどの“格”を感じさせる伝説的なゴールである。

    また、彼の技術とダイナミックさを証明する2つのゴールも魅力的だ。アヤックスでプレーしていた1986年、若き日に決めたオーバーヘッドでのエールディヴィジ初ゴールは、本人も「美しい絵画」と表現するほどお気に入りだ。自伝『Fragile』でもその場面を鮮明に振り返っていた。

    さらに、ミラン時代の1992年11月のチャンピオンズリーグ、IFKヨーテボリ戦も圧巻だ。この試合で4ゴールと異次元のパフォーマンスを見せていたが、特に3ゴール目はおそらくロッソネリで決めた最高のゴールだろう。あのシザースからのゴールはタイミング、精度、協調性の完璧な融合だった。

    だが、ファン・バステンがフットボール界の「アイコン」であるのは、最高のゴールを決め続けたからだけではない。良いときも悪いときも、歓喜も悲哀も知るからこそ、彼の物語は世界中の人の胸を打ったのだ。

    自身のアイドルであったクライフと代わって出場したプロデビュー、足首の痛みを抱えながらプレーを続けた苦悶の表情、1992年EURO準決勝のPK戦後の涙、1993年チャンピオンズリーグ決勝で敗れた後の表情……極めつけは1995年8月18日。スエードのジャケットに身を包んだ30歳の彼は、ほぼプレーできなかった2年間を経て、サン・シーロのピッチを周りながら涙に暮れるミランサポーターへ別れを告げた。そう、偉大な選手としては早すぎる現役引退を余儀なくされたのである。彼は自伝にこう記している。

    「8万人の前で、私は自分の別れの瞬間を目撃している。マルコ・ファン・バステン、フットボーラーはもう存在しない。みんなはもういない人間を見ているんだ。亡霊に拍手を送っている。私は走り、拍手を送り返すが、もう自分はいない……悲しみが奥深くから湧き上がり、私を圧倒する。大声援と拍手が、私の心を貫いていく。泣き出してしまいたいが、ここで子どものように涙は流せない。冷静さを保たないと……試合は終わった。何かが変わってしまった。私を形作っていた、何かが変わってしまった。フットボールは私の命だった。私は命を失った。フットボーラーとしての死を迎えた。だが、私はここにいる。自分の葬式に招かれた客人のようだ」

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    憧れのクライフと共に

    マルセル“マルコ”ファン・バステンは、1964年10月31日にユトレヒトで生を受けた。彼のフットボールへの情熱は、現役時代にオランダリーグ優勝を経験した父のヨープに植え付けられたものだ。幼少期から故郷で様々なクラブを渡り歩き、その中でも飛び級で年上の選手たちと切磋琢磨し続けた。だがあらゆる手を尽くしても、彼を止めることはできなかったという。

    1981年、16歳でアヤックスのユースアカデミーに加入し、翌年にトップチームデビュー。クライフに代わって出場し、いきなりプロキャリア初ゴールを決めるなどその非凡な才能をすぐに証明した。

    そして指揮官となったクライフの下、アヤックスでの172試合で152ゴールをマーク。3度のリーグ優勝と国内カップ戦制覇、1987年のUEFAカップウィナーズカップ優勝を達成している。

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    “最強”のミランで

    アヤックスでスター選手としての頭角を表すと、1987年に当時世界最高のリーグとされていたセリエAに舞台を移したことで、彼は真のレジェンドとなる。革命的な指揮官アリーゴ・サッキと出会い、彼と愛憎入り交じった関係を築きながら成長し、その後ファビオ・カペッロの下で理想的なフィニッシャーにまで上り詰めた。

    右足首に常に包帯を巻きながらも、彼はこれまでのセンターフォワード像を再定義。ゴールを奪うだけでなく、最高のプレーメーカーとしての才能も発揮した。1980年代後半に“最強”を誇ったミランにおいて、3度のスクデットや2度のUEFAチャンピオンズカップ優勝、2度のインターコンチネンタルカップ制覇を達成。1988年、1989年、1992年と3度もバロンドールを受賞している。ロッソネリでは201試合出場、125ゴール49アシストをマーク。対戦したセリエAの全チーム相手にゴールを決めたのはこれまでの歴史の中でも2人だけだが、その1人がファン・バステンだ。

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    最後の5分間

    しかし、彼の栄光の時代は長く続かなかった。ミランは1994年にセリエAとチャンピオンズリーグ制覇を達成するが、ファン・バステンはそれを観客として見守った。激しい足首の痛みはが彼を襲い、28歳からはほとんどベンチを温めることに。1992年12月、3度目のバロンドールを受賞した翌日に右足首の手術を受けたが、もう以前の姿を取り戻すことはなかった。

    1993年春にピッチへ戻ってきたファン・バステンだが、試合中に歯を食いしばってプレーする姿はあまりにも痛々しかった。当然、以前のようなダイナミックかつ優雅で気品に溢れるプレーは鳴りを潜めた。1993年チャンピオンズリーグ決勝戦、選手生活で初めて痛み止めの注射を打ってプレーしたが、足の感覚はほとんどなかったという。85分から出場するも、流れを変えることができず。オリンピックスタジアム(奇しくもキャリア最高のゴールを決めた同じスタジアム)での5分間が、彼の現役生活最後のプレーとなった。“ユトレヒトの白鳥”の翼は、もぎ取られてしまったのである。

    ミラン側は復帰への希望を捨てずに、1994年夏に2年間の新契約を結んだ。無給での契約を受け入れた彼はリハビリや手術を繰り返し、最後まで希望を捨てなかった。しかし、1995-96シーズン開幕目前にスパイクを脱ぐことを決断。世界中から彼の引退を惜しむ声が上がり、今でも早すぎる引退を嘆く声が聞こえるのは、彼が奪ってきた衝撃的なゴールの数々と、その歓喜と悲哀に満ちたストーリーが心を打ったからであろう。