Diego MaradonaGetty Images

ディエゴ・マラドーナ:不可能を可能にした“神”が史上最高の選手と言われる理由【GOAL's Hall of Fame パート3】

ディエゴ・アルマンド・マラドーナ。この選手を知らないフットボールファンは存在しないだろう。フットボールの歴史は「彼以前」と「彼以降」で分かれるほど、世界最大のスポーツにおいて最も影響力ある人物の1人だった。未だに世界中で本や歌、映画、壁画などでその存在が記されるまさにアイコンである。

そして特に、彼と同じ労働者階級の人々にとってはフットボーラーと超えた存在でもあった。キャリアにおけるタイトル獲得数だけを見れば決して多くはないかもしれないが、その叛逆心を持って力ある者たちへ立ち向かい、力の劣る者たちを束ねて世界の頂点に立っている。

またピッチ外での人間味あふれる数々の行動から、「人間に近い神」のような存在として崇められ続けた。ディエゴ・アルマンド・マラドーナという存在は、1人のフットボーラーが社会に何を与えられるのか、過去、現在、未来に渡って示した人物なのである。

  • アトラスのように

    「マラドーナ」という名前を聞いただけで、数々のイメージやエピソード、インスピレーションが思い浮かぶだろう。伝説的な“神の手”や“5人抜き”に象徴される衝撃的なゴールの数々? 見るものすべてを魅了する圧倒的なテクニック? 現役時代から苦しんだ薬物問題? 彼にまつわるストーリーは、何日あっても語り尽くせない。

    だからこそ、今回注目するのはまた別の側面。「マラドーナがいれば、実現不可能に思えた夢を実現できると周りに信じ込ませる力」を取り上げたい。実際に、彼はキャリアを通じてそれを証明している。

    フットボールの歴史上、偉大なレジェンドは多数存在する。しかしマラドーナのように、選手や監督、チームやクラブ、はたまたそこに住む人々の運命まで支えて成功に導いた人物は1人もいない。まるでギリシャ神話の「アトラス」だ。世界最高のクラブでプレーするのではなく、叛逆者としてそうしたクラブに立ち向かい、実際にタイトルを手にした。

    彼がナポリで成し遂げたことがそれを物語っている。これまでスクデットを手にしたことがなかったチームに2度のセリエA制覇とコッパ・イタリア、UEFAカップ優勝をもたらした。彼が残した259試合115ゴールは、その成功を語るほんの一部でしかない。「エル・ピベ・デ・オロ(=ゴールデンボーイ)」は、チームだけでなくナポリに住まう人々の心にまで深く浸透し、「夢見たことは何だって実現できる」と信じ込ませたのだ。マラドーナ本人はもちろん勝者だが、彼が特別だったのは、周りも勝者にするからである。

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  • Diego Maradona Napoli v Stuttgart UEFA Cup Final 2nd Leg 1989Hulton Archive

    偉業

    相手選手との乱闘や会長との関係悪化により、1984年にバルセロナでの最初のヨーロッパ挑戦を終えたマラドーナ。彼の行く先には大きな注目が集まったが、選んだのは当時決して強豪とは言えなかったナポリ。当時の史上最高額である1300万ドルで移籍が実現した後、ナポリの街は文字通り熱狂に包まれている。7月5日にスタディオ・サン・パオロで行われたお披露目会見には7万人が集結、シーズンチケットとユニフォーム売上で瞬く間にクラブ財政は潤ったという。そして彼がヘリコプターから降り立ったスタジアムは今、彼の名前を冠している。

    ナポリは前シーズン、降格を1ポイントで免れるなど低迷していた。チームメイトにも名のあるスター選手はいなかった。だが、彼の存在によって街全体がみるみる活気に満ち溢れていった。初年度は8位、2年目は3位と着々と順位を上げていき、ついに1986-1987シーズンに歴史的な初優勝を達成する。

    ミシェル・プラティニ擁するユヴェントス、オランダトリオのミラン、ジョバンニ・トラパットーニのインテル、クリスティアン・ヴィエリとロベルト・マンチーニが躍動するサンプドリア、ロベルト・バッジョにソクラテスまで……当時のセリエAは、間違いなく世界最高のリーグだった。だからこそ、マラドーナの偉業は語り継がれるべきである。彼がイタリアでプレーした1984-85シーズンから1990-91シーズンまでの7年間で、6つの異なるチームがスクデットを獲得した。この中で唯一、ナポリだけが2度の優勝を達成している。加入前年にやっと残留したクラブを、世界最高のリーグで王者にまで導いたのだ。

    マラドーナはナポリでの加入会見で、「ナポリの貧しい子どもたちのアイドルになりたい。アルゼンチン時代の僕と同じだからね」と語っていた。その言葉通り、今でもマラドーナは愛され続けており、彼の壁画は街の至る所で確認できる。

  • WORLD CUP-1986-ARG-BELG-MARADONAAFP

    アルゼンチンと共に

    またマラドーナは、ナポリで成し遂げたような偉業を母国アルゼンチンでも達成した。16歳で代表デビュー後、チームが優勝を達成した自国開催のワールドカップ1978年大会はメンバー外に。しかしU-20ワールドカップで圧倒的な活躍を見せ、1982年に代表チームへ復帰。同年のワールドカップでチームは2次リーグ敗退、マラドーナも退場処分で終わるなど悔しさも残る大会だったが、その4年後のメキシコ大会は、永遠に忘れられることのない大会になっている。

    マラドーナは14試合で5ゴール5アシストを記録、“神の手”や“5人抜き”など伝説的な得点もこの大会で生まれている。当時のアルゼンチンは今ほど才能に恵まれていなかったが、まさに彼にしかない「実現不可能に思えた夢を実現できると周りに信じ込ませる力」を遺憾なく発揮し、母国を2度目の世界制覇に導いている。彼のパフォーマンスは、ワールドカップで1選手が見せた最高のパフォーマンスと言ってもいい。

    続く1990年イタリア大会は、チームはさらに弱体化し、マラドーナ自身のコンディションもよくなかった。それでも宿敵ブラジルを下し、ユーゴスラビア、イタリアとのPK戦を制して決勝まで進んでいる。その後の1994年アメリカ大会は、トップリーグから長く離れていた時期もあったが、ギリシャ戦では驚異的なゴールを奪っている。しかしナイジェリアとの2試合目でエフェドリンの痕跡が検出され、出場資格剥奪と代表チームからの追放を味わっている。

    終わりに関しては残念でならないが、彼がアルゼンチン代表で残した91試合34ゴール、ワールドカップ優勝という結果は、未来永劫アルゼンチン国民の心に刻まれていくだろう。

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    史上最高

    1960年に生を受け、2020年に天寿を全うしたマラドーナ。アルヘンティノス・ジュニアーズでキャリアを始め、20歳で大陸最高の選手となり、ボカ・ジュニアーズとバルセロナを経て、ナポリでキャリアの頂点に立った。イタリアを去った後はセビージャとニューウェルズ・オールドボーイズでプレーし、最終的にボカに復帰している。

    貧しい街から世界の頂点へ到達するまでに、彼は数々の困難や失敗を経験した(もちろん自ら招いたことも多い)。それでもピッチ上で見せる華麗なプレーやビッグクラブに立ち向かっていく叛逆心は、多くの人間に夢と希望を与え、多くの人間のロールモデルになっている。自らが活躍するだけでなく、周りに夢を叶える力があると信じさせ、街全体を巻き込んでいく。そんなことができるのは、後にも先にもマラドーナしかいないだろう。

    ペレはブラジル代表で偉大な選手たちとプレーし、クライフはアヤックスとオランダ代表で、リオネル・メッシやクリスティアーノ・ロナウドも時代を象徴するクラブで活躍した。「GOAT(=史上最高)」の称号を背負う選手たちは、それにふさわしいチームメイトやクラブに恵まれた。だがマラドーナだけは、1人の力でその称号を掴み取っている。だからこそ彼は他と一線を画す選手であり、だからこそ魅力的なのだ。