Cruijff 16:9(C)Goal

ヨハン・クライフ:サッカー界で永遠に語り継がれる“神話”を残した「預言者」【GOAL's Hall of Fame パート4】

彼がピッチにいると、誰もがその一挙手一投足を固唾をのんで見守った。彼がピッチにいると、チームメイトは常に100%以上の力を発揮できた。彼がピッチにいると、対戦相手は両足から繰り出されるその予測不可能な魔法に振り回され続けた。

ヘンドリック・ヨハネス・クライフ――通称「ヨハン・クライフ」。サンドロ・チオッティが「ゴールの預言者」と称えれば、ジャンニ・ブレラは「白いペレ」と表現した。その圧倒的な技術・プレービジョンに裏打ちされた強烈なカリスマは、全世界の選手・監督・ファンの人生を左右するような影響を与えている。また指揮官としても「トータル・フットボール」を完璧に解釈した人物として、60年代末から70年代初頭にかけて新たなフットボール哲学を確立。その影響は現代フットボールにも色濃く反映されている。

おそらく「彼以前」と「彼以降」では、フットボールの世界は全く違うだろう。いわゆる司令塔の役割にとどまることはなく、中盤から前のエリアを絶えず動き回りながらチームを動かし、相手を混乱に陥れる。現代フットボールの基礎を築いたのは間違いなく彼である。

伝説的な「14番」はアヤックス、バルセロナ、フェイエノールトの歴史に名を残し、ロサンゼルス・アステックス、ワシントン・ディプロマッツ、レバンテでも活躍。。9度のオランダリーグ制覇やスペインリーグ優勝、ヨーロピアンカップ3度優勝やインターコンチネンタルカップ制覇など、選手キャリアで21個ものトロフィーを掲げた。また、世界最高の選手を称えるバロンドールも3回受賞している。

また彼のカリスマを形成したのは、ピッチ上のことだけではない。長髪をなびかせ、美しい女性への情熱も絶やさず、独特な表現を駆使してまくしたてるように会話し、強烈な自信を言葉の節々から感じさせ、一切の妥協を許さない完璧主義者。そしてタバコを吹かす姿から、誰もが彼の虜になっていた。さらに、おそらくフットボーラーで初めて「自己プロデュース」を行った人物でもある。

こうしたもののすべてが、彼を唯一無二で絶対に真似できないレジェンドへと昇華させている。

  • 伝説的な瞬間

    クライフはフットボール界における真のアイコンだ。そんな彼がキャリア716試合で挙げた402ゴールの中で、最も「美しいゴール」はバルセロナ時代の1973年12月22日、アトレティコ・マドリー戦で奪ったものだろう。カルレス・レシャックが送ったクロスは届かないと思われたが、クライフはアクロバティックに飛び込むと華麗なバックヒールでネットを揺らした。これには敵将ファン・カルロス・ロレンソも「こんなゴールを決められては、文句を言うのではなく、ただただ拍手を送るだけだ」と脱帽。この「不可能なゴール」は、バルセロナ創立100周年企画でクラブ史上最高の得点にも選ばれている。

    もう1つ象徴的なゴールを挙げるとすれば、西ドイツワールドカップ準々決勝のブラジル戦のものだろう。1-0でリードしていた65分、左からのクロスを流れるようなダイビングボレーで得点している。さらにアヤックス復帰後の1981年12月9日、ハーレム戦で決めた“クッキアイオ”もまさにアイコニックな瞬間だ。

    彼の伝説的な瞬間はゴールだけじゃない。1974年ワールドカップで披露した「クライフターン」は、未だに全世界の子どもたちが憧れるプレーだ。さらに同大会の決勝ドイツ戦、オランダはキックオフから相手チームに一度も触らせることなく16回パスを回し、クライフがPKを獲得している。これは同大会史上最高の場面の1つだ。

    あまりにも周囲とかけ離れた超絶的なプレーをいとも簡単にやってのけ、またインタビューではその独特で哲学的な表現を多用するため、誤解されることも多かったクライフ。そうした声について、彼の没後に発売された自伝、『ヨハン・クライフ自伝 : サッカーの未来を継ぐ者たちへ(邦題)』でこう振り返っている。

    「すべての人間が私を理解したわけではない。それは選手としても、監督としても、その後もだ。だが、問題はない。レンブラントやゴッホもそうだったのだ」

  • 広告
  • 預言者

    1947年4月25日、アムステルダムの郊外で生まれたクライフ。路上でボールを蹴り始めた少年は、10歳でアヤックスの育成組織に加入すると、名将ジャニー・ファン・デル・ヴィーンに見出される。彼は師匠として基本的な技術から規律、スポーツ的な価値観に至るまですべてを授けた。彼の教えはこうだ。

    「『フットボールをする』ことは簡単だが、『簡単なフットボールをする』ことは難しい。フットボールの技術とは、1000回リフティングすることではない。それは誰でも練習すればできるし、むしろサーカスで働けるだろう。技術とは、ワンタッチかつ適切なスピードでパスを出し、チームメイトの利き足に届けることだ」

    クライフ少年は12歳で父マヌスを亡くすと、一家は経済的に困難な状況に追い込まれた。そこで勉学の道を諦め、プロのフットボーラーになることを決意する。アヤックスに母へ仕事を提供するように求めると、クラブは彼の才能を信じて受け入れ、清掃員として雇うことになる。

    そして17歳の時、ヴィック・バッキンガム監督の下でプロデビュー。1964年11月15日のフローニンゲン戦(3-1)では、いきなりキャリア初ゴールを決めてみせた。その後指揮を執ったリヌス・ミケルスに高強度の有酸素運動トレーニングと厳しい規律を教わると、同指揮官の下で初めて二桁ゴールを記録。さらに8シーズン連続で驚異的な成績を残し続けた。クライフは言う。

    「フットボールの基本は2つ。1つは、ボールを持っている時に精確なパスを出せること。もう1つは、パスを受けた時に精確にコントロールすることだ。そして、創造性は規律と対立することはない」

    クライフはアヤックスで6度のリーグ優勝と国内カップ制覇、チャンピオンズカップ3度優勝を達成。エールディヴィジ得点王のタイトルも獲得した。1972年にはインターコンチネンタルカップの頂点にも立ち、2度バロンドールに輝いている。

    しかし1973年にキャプテンの座を剥奪されたことをきっかけに、バルセロナへと約1億リラで移籍。すぐさまチームを14年ぶりのラ・リーガ制覇に導いた。オランダ代表としても1974年ワールドカップと1976年EUROでフットボール史に名を刻む瞬間を残す。1974年には3度目のバロンドールも受賞した。バルセロナでは計227試合出場で86ゴールを奪っている。だが1977年、息子の誘拐未遂事件をきっかけに最初の代表引退を宣言している。

  • 神話

    一時はそのまま現役引退も騒がれたが、義父を通じてMLSの前身である北米サッカーリーグに挑戦、ロサンゼルス・アズテックスやワシントン・ディプロマッツでプレーし、アメリカのファンを魅了した。1979年には北米リーグ最優秀選手にも選ばれている。しかし、発展途上のアメリカは彼にとって小さすぎた。1981年にはレバンテを経て、古巣アヤックスへと復帰。エールディビジ2回(通算8回)とカップ戦1回(通算5回)を制覇し、マルコ・ファン・バステンやフランク・ライカールトといった未来のチャンピオンを育てた。

    アヤックスでは367試合で269ゴールと驚異的な成績を残したが、1983年に若返りを図るクラブの方針からライバルであるフェイエノールトへ電撃移籍。若きルート・フリットとともにリーグ優勝とカップ戦制覇の“ダブル”を達成した。37歳でスパイクを脱ぐ前に、また1つ伝説を残している。そして引退後は指導者の道へと進んだが、アヤックス、バルセロナで残した彼の功績は計り知れないものだ。

    フットボール界にとってはまさに宝であり、その神話は永遠に不滅だ。2016年3月24日、68歳でこの世を去ってしまうが、彼に憧れ続けたペップ・グアルディオラやチャビ・エルナンデスといった存在がその神話を後世に語り継いでいくことになる。そう、生前の“預言者”がまさに予言した通りに。

    「ある意味、私は不滅の存在だろう」