そのレアル・マドリーに決勝で敗れたリヴァプール、そして準決勝で敗れたマンチェスター・シティは、ピッチ上の絶対的なパフォーマンスとその土台となる戦術的な先進性、そして完成度という点では、現在のヨーロッパで(ということは世界で)最高峰と言っていいチームだ。
リヴァプールを率いるユルゲン・クロップとシティを率いるグアルディオラは、2010年代後半から現在に至るプレミアリーグを舞台に、元々は大きくコンセプトの異なる戦術を出発点としながら、お互いの切磋琢磨を通じて相手のエッセンスを取り入れ、それぞれのチームと戦術の完成度を高め合ってきた。
2010年代初頭にボルシア・ドルトムントを率いて、ボール保持にこだわらず、敵陣での即時奪回によって最も得点しやすい状況を作り出そうとする革新的な戦術「ゲーゲンプレッシング」で脚光を浴びたクロップは、リヴァプールにおいては、従来の縦方向に速く強いアグレッシブなスタイルに、自陣でのポゼッションによるゲームコントロールという要素を加えることで、相手に応じて戦い方を変える柔軟性を手に入れた。
監督キャリア1年目の2008-09シーズンに、相手に対して数的・位置的な優位性を作り出す配置を活かし、シンプルなショートパスによるポゼッションで前進しながらボールと地域とゲームを支配する「ポジショナルプレー」に拠って前人未到の「六冠」を成し遂げたグアルディオラも、その後バイエルン・ミュンヘン、そしてシティへと仕事場を変えながら自身の戦術を磨き上げてきた。
現在のシティは、センターフォワードが中盤まで下がって前線中央にスペースを作り出す「偽9番」、サイドバックが内に絞ってボランチ的に振る舞う「偽サイドバック」といった配置の流動性から、GKをビルドアップに組み込んだ数的優位を活かし、相手のプレスを誘って一気にその背後を衝く縦への志向性まで、グアルディオラの戦術的変遷の集大成とも呼ぶべきチームと言える。
リヴァプールもシティも、戦術的な観点から見れば、レアル・マドリーに対して明らかな優位に立っていた。ボールと地域の支配はもちろん、作り出した決定機の数とその質、与えた決定機の数においても、レアル・マドリーは試合のほとんどを通じて彼らにやられっぱなしだった。10回戦えば9回勝った内容、というのはシティも同じである。その意味で2人の監督が、何か敗因につながるような過ちを犯したと考えることは難しい。おそらく2人とも「何が間違っていたのか」と今も自問自答を続けているに違いない。
グアルディオラは、マスコミや批評家からしばしば「オーバーシンキング」と揶揄されるように、対戦相手を研究し尽くした上でその裏をかく選手起用や配置で戦う傾向がある。しかしレアル・マドリーとの準決勝は、2試合とも相手への対策より自分たちのアイデンティティを前面に押し立てた顔ぶれをピッチに送り出した。途中交代で投入したジャック・グリーリッシュが駄目押しのゴールを決められなかったのは、クルトワの奇跡的なセーブに阻まれたからでしかない。敗退の2日後、記者会見でマスコミから、チームのメンタルが弱いのでは?と質問されたグアルディオラは、こう答えている。
「メンタルが関係するような時間はなかった。彼らは45秒後にはもう1点決めていた。落ち込む時間すらなかった。感情の問題だ。どんなデータや分析でも選手の感情はコントロールできない。選手たちはクロスを防ごうとした。ボールが誰かに当たってロドリゴのところに行ってゴールが決まった。これがフットボールだ」
圧倒的な優位から放ったシュートを何度もクルトワに阻まれ、たった一度のチャンスを決められて敗れたリヴァプールも、立場は似たようなものだろう。決勝の内容からリヴァプールの「敗因」を探し出すのは困難だ。最強のチームが全力を尽くして戦い、打つべき手は全て打ってもなお、試合に勝てないことはある。
ただ、試合後レアル・マドリーのカルロ・アンチェロッティ監督がこう言っていたことには注目すべきかもしれない。
「クルトワが止めてヴィニシウスが決めた。そして勝った。それだけだよ。それはさておきリヴァプールは明確なアイデンティティを持っているから、どう出てくるか予想しやすかった。意外性がない分、準備・対応は他のチームより楽だった」
すでに見たようにリヴァプールは、アグレッシブに前に出るハイプレスとゲーゲンプレッシングという明確なアイデンティティを根幹に持ちながら、異なるタイプの戦い方もできる柔軟性を身に着けたチームである。にもかかわらずアンチェロッティにそう言われてしまうのだとしたら、求められるのはさらなる多様性、可変性なのかもしれない。おそらくだからこそグアルディオラも「オーバーシンキング」と正攻法の間で揺らいでいるのだろう。