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チェルシー移籍が大失敗に終わった選手たち|投資に見合わなかったのは?
Getty Imagesチェルシー移籍が失敗したのは?
2000年このかたチェルシーFCは161人の新たな選手を雇い入れ、21億6000万ユーロ(約200億円)を棒に振ってきた。
投資額に引き合う見返りが得られたこともあるにはあったが、費やした大金に別の使い道があったのではないかと考えられる場合があまりに多かった。大失敗した移籍の例は以下の通り。
Gettyダニー・ドリンクウォーター
マンチェスター・ユナイテッドのアカデミーで育ったドリンクウォーターは長い間誰にも気づかれない存在だったが、レスター・シティFCでの活躍によってブルーズ(チェルシーの愛称)の注目を引いた。2017年、チェルシーは4000万ユーロ(約53億円)を支払って彼をスタンフォード・ブリッジ(チェルシーのホームスタジアム)へ招いたが、これは懐の痛い誤算となった。
ドリンクウォーターは23試合に出場したのみで、さっそく2度のレンタル放出となり、まずはバーンリーFC、次はアストン・ヴィラFCへ貸し出されたものの、夏にはチェルシーへ返された。その後は一度もトップチームの一員としてピッチに立つことなく、リザーブチームでコンディションの維持に努めた。
だが、U-23チームでの ”コンディションの維持” も結局は惨めな結果を招き、トッテナム戦の際にカッとなった相手方の選手共々一発退場を喰らってメディアを騒がせ、まやもやどん底を味わうことになった。
ブレイク後9年目にして180°の方向転換はなるか?チェルシーはドリンクウォーターの3度目のレンタルに同意しており、彼はスュペル・リグのカスムパシャSKへ行くことが決定した。レンタル期間はシーズン終了まで。
Getty Imagesルーカス・ピアソン
“カカ2世” は2012年1月に750万ユーロ(約7億5000万円)の移籍金でサンパウロFCのU-20チームからやって来た。常に快活に6度のレンタル放出を受け入れ、9年間にブルーズの試合に出場したのはたったの3回だけだった。
2019年から2021年の1月まではリオ・アヴェFCに貸し出されていた。チェルシーとの契約はまだ夏まで続き、1年延長のオプションもあったものの、ピアソンはSCブラガの意向を打診した。今度こそ最終的にチェルシーを去ることができるだろう。
Gettyハリド・ブラールズ
このオランダ出身のセンターバックがハンブルガーSVでプレーしていた時に目をつけたチェルシーは、2006年に1300万ユーロ(約20億円)で彼を手に入れた。だが、膝のケガのせいもあり、23試合に出場したのみだった。
まずセビージャFCへ貸し出された後、500万ユーロ(約8.5億円)でVfBシュトゥットガルトへ移って行った。PSVアイントホーフェンやブレンビーIFで短期間プレーした後、2016年にキャリアを終えた。
Gettyフアン・クアドラード
2014年度ワールドカップでの力強い活躍によってブルーズの目に留まり、3100万ユーロ(約42億円)でACFフィオレンティーナからチェルシーへ移籍した。期待に沿えずに半年を送った後、彼のキャリアにおけるチェルシーでの1章は早くも終わりを迎えた。
チェルシーで15試合を戦ったのみでユヴェントスFCへ移ったが、ユヴェントスではこれまで公式戦ほぼ200試合に出場を果たしている。2017年のセリエA優勝後に買い取りオプションが行使され、2000万ユーロ(約25億円)の高額でユヴェントスへ完全移籍した。それだけの価値のある買い物だった。
Getty Imagesアシエル・デル・オルノ
1200万ユーロ(約16億円)でアスレティック・ビルバオからやって来て、初年度には左サイドバックのウェイン・ブリッジをベンチへ追いやった。だが、チャンピオンズリーグでのリオネル・メッシとの対戦が取り返しのつかない結果を招き、デル・オルノのチェルシーでのキャリアを粉砕した。
2006年2月、まだ若かった当時のメッシにさんざん翻弄されたデル・オルノは、ある粗暴なプレーによってとうとう退場処分を受けた。新たな左サイドバックを求めたモウリーニョ監督は2006年8月にアシュリー・コールを見出した。
デル・オルノはスペインへ戻り、さらにバレンシアCF、レアル・バリャドリード、レバンテUDや古巣のビルバオで現役生活をつづけたが、2012年に31歳になったばかりでキャリアを終えた。
Gettyラダメル・ファルカオ
ASモナコ、FCポルト、アトレティコ・マドリーであらゆることを成し遂げたファルカオは、世界最高のセンターフォワードの一人と見なされていた。マンチェスター・ユナイテッドへのレンタルで成果を出せなかったファルカオはプレミアリーグへの最後の挑戦としてチェルシーへやって来た。
しかし、ケガの問題や脆弱なパフォーマンスのためすぐにベンチを温める羽目になり、失望したファルカオはわずか12試合に出場したのみでブルーズを去った。現在はガラタサライSKでプレーしており、もう一度 “春の終わり”(6試合5ゴール)を味わっているようだ。
Gettyイジー・ヤロシーク
ブルーズがディディエ・ドログバ、アリエン・ロッベン、マイケル・エッシェンといった大物たちを雇い入れていた時期に、ほとんど無名のセンターバックだったヤロシークも1200万ユーロ(約16億円)でチェコスロヴァキアからチェルシーへ連れてこられた。“なぜ彼を?” という疑問は今なお解けない。
識者の主張によると、クラブのオーナーであるアブラモヴィッチ(ユダヤ系ロシア人)の意向で進められたのだとされた。移籍金がロシアのビッグクラブであるCSKAモスクワを潤すことになるからだ。例によって、6回スターティングメンバーに入ったのみで早くもレンタル放出となった。
Gettyスラヴィシャ・ヨカノヴィッチ
CDテネリフェとデポルティーボ・ラ・コルーニャにおける優れたパフォーマンスはブルーズの関心を引き、2000年にラニエリ監督がこの守備的ミッドフィールダーをおよそ200万ユーロ(約2億円)で雇い入れた。
テクニックの才に恵まれたボランチとしてキープレーヤーの一人として活躍するはずだったヨカノヴィッチだが、プレミアリーグのテンポについていくことができなかった。53試合に出場したものの、攻撃力に強みを持ちながら1点も挙げられず、ロンドンに別れを告げた。
Gettyケパ・アリサバラガ
世界一高価なゴールキーパーとして8000万ユーロ(約100億円)でアスレティック・ビルバオからチェルシーへやって来たが、神経質でミスの多い選手という正体が露わになった。
いくつかひどいミスをやってのけ、何度も控え選手からベンチに追いやられ、今ではチェルシーで誰からも相手にされない存在になっているようだ。結局、夏に加入したエドゥアール・メンディが舞台に立つことになった。
Gettyマテヤ・ケジュマン
彼は引退後に『Sky』のインタビューで「キャリアで最高の時間」をチェルシーで過ごしたと語っているが、必ずしもそうは言えないだろう。
PSVでは122試合に出場して105ゴールを挙げている。モウリーニョ監督がケジュマンを欲しがったのは明らかで、800万ユーロ(約10億円)近くを費やして彼を手に入れたのだが、41試合でわずか7ゴールという結果は期待を見事に打ち砕いた。
その後はアトレティコ・マドリー、フェネルバフチェSK、PSG、ゼニト・サンクトペテルブルクを次々と渡り歩き、2011年には中国へ渡った。2012年、中国でキャリアに終止符を打った。
Getty Imagesマルコ・マリン
チェルシーファンは “ドイツのメッシ” としてマリンの到着を歓迎し、当時の指揮官であったロベルト・ディ・マッテオは「わくわくさせる選手」だと彼を称賛した。だが、結局のところすべては大きな見込み違いにすぎなかった。
ブルーズで16試合を戦った後、ヨーロッパを巡り、さらにはヨーロッパの外にまで及ぶ、マリンの長い放浪の旅が始まった。レッドスター・ベオグラードではついに中心選手として活躍し、現在はサウジアラビアでプレーしている。
Getty Imagesアドリアン・ムトゥ
2002-03シーズンにアドリアーノと共にパルマで大ブレイクした。そのためチェルシーは1900万ユーロ(約25億円)で彼を買い入れたが、ムトゥは名声や金とうまく折り合えない選手であることがわかった。
ケガを偽り、落ち込み、コカインを乱用し、モウリーニョに大っぴらに叱責された。ブルーズで過ごした短い間にムトゥはありとあらゆることをしでかした。38試合に出場して10ゴールを挙げた後、チェルシーから解雇されて訴訟を起こされた。
イタリアへ戻ったムトゥは結局ACFフィオレンティーナで大成功を収め、143試合に出場して69ゴールを挙げた。2016年、ユース時代を過ごしたルーマニアのクラブでようやくキャリアを終えた。現在はルーマニアでU-21の代表監督を務めている。
Gettyスコット・パーカー
フランク・ランパード、ジョン・テリーと共にチェルシー “イングランドの若き枢軸” となるはずだったが、パーカーのわずか数ヶ月後にブルーズに雇われたモウリーニョ監督が中盤でのフランク・ランパードのパートナーに好んで起用したのはチアゴ・メンデスやクロード・マケレレだった。
チェルシーはチャールトンから彼を譲り受ける際に1450万ユーロ(約20億円)を費やしたが、29試合に出場したのみでパーカーはニューカッスル・ユナイテッドへ去った。その後、マグパイズ(ニューカッスルの愛称でカササギの意)、ウェスト・ハム、フラムではプレミアリーグで再び多くの活躍を果たし、イングランド代表にも18回参加して2017年にキャリアを終えた。
Gettyスロボダン・ライコヴィッチ
2006年、ヨーロッパで最高の守備のタレントの一人を確保しようと、チェルシーはほぼ500万ユーロ(約7億円)を投じてOFKベオグラードからこのセルビア人選手を手に入れた。が、初めのうちライコヴィッチはロンドンでの労働許可証を取得していなかった。
結局、彼はブルーズのトップチームではただの1戦にも出場せず、“レンタル軍団” の一人となってフランク・アルネセン等々の後を追ってハンブルガーSVへ移籍した。ブンデスリーガではさらにSVダルムシュタット98にも所属し、これまでに2度無所属になったが、2020年夏以来FCロコモティフ・モスクワでプレーしている。
Getty Imagesアンドリー・シェフチェンコ
明らかに、2006年のブルーズにとってより大きな災厄は “ミランの爆撃機” シェフチェンコと契約したことだった。デザイナーのジョルジオ・アルマーニから親友の一人と呼ばれるこの選手のために、チェルシーは4500万ユーロ(約64億円)をしぶしぶ差し出した。
これはクラブ史上最も高くついた誤算の一つとなった。当時監督だったモウリーニョの同意なしの移籍だったゆえ尚更に。当時シェフチェンコはすでに30歳。コンディションが優れず、プレミアリーグで9ゴールを挙げるにとどまった。
Gettyアレクセイ・スメルティン
500万ユーロ(約7億円)での契約後わずかひと月でレンタルに出された。ブルーズの給与リストには3年間その名が記載されていたものの、レンタルが続き、チェルシーでは16試合に出場しただけだった。
Getty Imagesクリス・サットン
1999年に1000万ユーロ(約12億円)を上回る移籍金でブラックバーンからロンドンへやって来たが、最初から持ち場が得られなかった。その後、さらにACミランからジョージ・ウェアが貸し出されて来ると、サットンにとって見通しはますます暗くなった。
わずか1年後の2000年、リーグ戦28試合に出場してたったの1ゴールを挙げただけで、6年契約でグラスゴーのセルティックFCへ去って行った。2007年、アストン・ヴィラFCでキャリアを終えた。
Gettyフアン・セバスティアン・ベロン
2001年に4200万ユーロ(約45億円)という途方もない金額で移籍したマンチェスター・ユナイテッドですでに大コケしていたベロンを、その半分の額で2003年にチェルシーが買い取った。だが、2100万ユーロ(約23億円)は使ったことになる。ベロンはかろうじて14試合に出場し、1ゴールを挙げた。
そのゴールを決めたのは2-1で勝利したリヴァプール戦の際で、よりによってこれは彼が出場した最初の試合だった。だが、夢のようなスタートを切った後はケガが相次ぎ、わずか1年後に2年契約でインテルへレンタルに出された。しかし、インテルでも再び中心選手として活躍することはできなかった。
2006年に故国アルゼンチンへ戻り、エストゥディアンテスで選手とスポーツディレクターを兼務した。42歳になってようやく最終的に選手生活の幕を閉じた。
Getty Imagesショーン・ライト=フィリップス
2000年代の初め、マンチェスター・シティのユース出身のフィリップスはイングランドのフットボール界で最も将来を嘱望される選手の一人だった。右ウィングを務める彼を、2005年、チェルシーは3150万ユーロ(約42億円)でシティから譲り受けた。
ブルーズでまさしく頼もしい戦いぶりを見せたのは2007年の3月から8月の間のみで(3ゴール5アシスト)、スタンフォード・ブリッジで3年を過ごして125試合に出場したにもかかわらず、その他の時期は失意の時を送った。2008年にシティへ戻り、さらにQPRでプレーしていた。
Getty Imagesユーリ・ジルコフ
これもいわくありげなロシア絡みの契約例。2009年、チェルシーは2100万ユーロ(約28億円)を投じてCSKAモスクワの左サイドバックを雇い入れた。だが、厳密な意味ではジルコフは一度もスタンフォード・ブリッジの一員にはならなかった。
彼は49試合(1ゴール)に出場したのみで、わずか2年後にアンジ・マハチカラへ移って行った。現在、37歳になるジルコフはゼニト・サンクトペテルブルクでプレーしている。
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