アーセナルはその長く輝かしい歴史の中で、多くのワールドクラスと契約し、その大半はアーセン・ヴェンゲルが築いた20数年間の間に加入した。
しかし、全員がティエリ・アンリのようになれたわけではなく、最終的にインパクトを残せず売却されるためだけに高額な対価を支払って獲得したひどく低調に終わったフランシス・ジェファーズやデニルソンといった選手たちもいた。
今回『Goal』では、ガナーズファンが忘れてしまいたいクラブ史に残るワーストの補強を紹介する。
Getty/Goalアーセナルはその長く輝かしい歴史の中で、多くのワールドクラスと契約し、その大半はアーセン・ヴェンゲルが築いた20数年間の間に加入した。
しかし、全員がティエリ・アンリのようになれたわけではなく、最終的にインパクトを残せず売却されるためだけに高額な対価を支払って獲得したひどく低調に終わったフランシス・ジェファーズやデニルソンといった選手たちもいた。
今回『Goal』では、ガナーズファンが忘れてしまいたいクラブ史に残るワーストの補強を紹介する。
Gettyアーセン・ヴェンゲルは、これまでに度重なる負傷に泣かされたことからビショフとの契約を“ギャンブル”と表現した。もちろん、コンディションが戻ったからと言って、この契約が報われることはなく、ビショフは定位置をつかむには至らなかった。
同選手は『Goal』とのインタビューで、プレミアリーグでの出場機会がわずか25分に終わるなどプレー時間を得られなかったことによりアーセナルからの退団を決断したと明かした。
「簡単な決断ではなかった。なぜなら僕はケガをしていたんだ。でも、僕は復帰したし、全力を出し切った。そして、残留するか、退団するかの疑問が浮かび上がってきた」
「ヴェンゲルと話をして、僕はもっと多くのファーストチームでの試合でプレーしたかったから、僕たちはクラブから離れることが賢明だという判断に至った」
Gettyシャマフは2010年にボルドーからフリートランスファーで加入し、将来の成功を約束されたアーセナルでのキャリアのスタートを切った。
モロッコ人ストライカーは2013年1月にローンでウェスト・ハムに加入するまで公式戦67試合で14ゴールを記録したが、これはロビン・ファン・ペルシの台頭によりスターティングラインナップから居場所を失ったことが起因となった。
シャマフはのちに、アーセナルのファーストチームで出場機会を得られるとヴェンゲルに騙されたと感じていたことを明かした。
「6カ月間プレーして、ゴールを決め、決定的な仕事をしてきた。そして2011年1月、ロビンがケガから復帰して、公平なチャンスもなく一晩にしてベンチへと追いやられた」
「実際に与えられたものよりももっとプレー時間を手にするに値したと思っていたから、ヴェンゲルに対して少しばかり不満があったことは明らかだ」
「1年の始まり、シーズンのスタート時に、彼は僕に対してチームは戦術を変えるかもしれないし、ロビンと一緒に前線で僕を起用するかもしれないと言っていた」
Gettyアーセナルは、エデン・アザールやヨアン・カバイェらを擁してリーグ・アンで優勝したリールからジェルヴィーニョを獲得。しかし、サミル・ナスリの代役としてやってきて以降、コートジボワール代表FWがアーセナルに馴染めなかったことから、ヴェンゲルは間違った選手と契約してしまったと言っても過言ではない。
公式戦69試合で11ゴールは、アーセナル攻撃陣を牽引するのに同選手がふさわしくなかったことを表しており、リーグカップのブランドフォード戦でのどフリーでのシュートミスが同選手にとってのアーセナルキャリアのハイライトと言ってもいいだろう。
Getty Imagesグロンダンは18歳の時にサンテティエンヌから加入したが、クラブに在籍した5年間でリーグ戦1試合に出場したのみに終わり、その後スコットランドのダンファームリン・アスレティックに売却された。
後に、グロンダンはアーセナル時代について「好パフォーマンスをする最高の選手が揃っている大きな、大きなクラブで僕は若く、経験がなかった。監督のところに行って、チームに入れてもらう必要があると言えなかった」と振り返った。
「ローン期間が終わってアーセナルに復帰する度に、僕はゼロからスタートしたけど、現状を受け入れなければいけなかったし、召集されればプレーする準備ができていると信じて一生懸命取り組むしかなかった」
「どうして僕に50万ポンドもの費用が掛かったのかわからないし、善意としてこの金額が支払われたとしか推測できない。当時のサンテティエンヌに本当にたくさんの良い若手がいたことがアーセナルがかかわりを持った理由だと思っている」
Getty2001年にエヴァートンから800万ポンドでアーセナル加入した当時のジェファーズは“ずる賢いストライカー”と表現される選手だった。
ヴェンゲルは獲得に至った経緯について「我々はルート・ファン・ニステルローイとフランシス・ジェファーズを検討し、最終的にジェファーズを選んだ」と明かしていた。
同選手は度重なるコンディション不良を抱えてわずか8ゴールを記録したのみに終わり、2004年に260万ポンドでチャールトンに売約された。一方のファン・ニステルローイは、マンチェスター・ユナイテッドでプレミアリーグを勝ち取り、レアル・マドリーでも2度のラ・リーガ制覇に輝いた。
Gettyルズニーは2度のFAカップ制覇と1度のプレミアリーグタイトル獲得を経験。万能なウクライナ代表選手はアーセナルのセンターバックと左サイドバックとしてプレーした。
しかし、1年目からファーストチームで31試合に出場したものの、リー・ディクソンからポジションを奪えず、先発機会はわずかに11試合のみだった。
Getty Imagesマルツは1999年に1860ミュンヘンから加入したが、パトリック・ヴィエラやエマニュエル・プティ、ロベール・ピレスといった選手たちを擁する中盤に割って入ることはできなかった。
同選手は公式戦14試合に出場したのみで、加入からわずか2年でクラブを後にした。
Getty Imagesメンデスはニコラ・アネルカやエマニュエル・ピレス、マルク・オーフェルマルスらと同じ年に加入したが、この若手選手は完全に他の選手たちと同様の道筋を辿ってはいない。
ドイツのノンリーグに所属するSCフォイヒトから1997年に移籍したものの、メンデスは自身の名前を11試合に刻んだだけでアーセナルのキャリアに終止符を打った。
Getty Imagesムスタフィは、大きなインパクトを残したサンプドリアとバレンシアでのキャリアを経て、急成長を期待されてエミレーツ・スタジアムにやって来た。
しかし、高額な移籍金が掛かったものの、ドイツ人DFはガナーズ在籍期間に数多くのミスを犯し、2019年にはファーストチームのメンバーから外れた。
最終的に、同選手は2021年2月にフリートランスファーで放出され、現在ラ・リーガのレバンテでプレーしている。
Getty Imagesペレスはデポルティーボを降格の危機から救う素晴らしいシーズンを送ったことで2015-16シーズンのラ・リーガで一躍注目を集めた。リーグ戦15ゴールは問題を抱える攻撃陣の解決策になる可能性があるとアーセナルを説得するには十分なスタッツだった。
しかし、ガナーズにとって残念なことに、ペレスは完全なる大惨事であることを証明しただけだった。
デビューシーズンにして唯一のシーズンで同選手は、プレミアリーグ11試合でわずかに1ゴールを記録しただけに終わり、翌シーズンにはデポルティーボにローンで復帰。その後、アーセナルは大きな損失とともにスペイン人ストライカーをウェスト・ハムへと放出した。
FC Goa Mediaペア・メルテザッカーやヨッシ・ベナユンと同時期に、ブラジル人選手は左サイドバックの人材難解消のためにアーセナルに加入した。
しかし、サントスのスピード不足やひどいポジショニングはメディアやサポーターから非難され、マンチェスター・ユナイテッドに1-2でリードされるハーフタイムにロビン・ファン・ペルシとユニフォーム交換を行った同選手の判断は、さらなる怒りを助長させることになった。
Getty Imagesヴェンゲルとファーガソン時代のアーセナルとマンチェスター・ユナイテッドが激しいライバル関係にあった中、レッドデビルズからのミカエル・シルヴェストル加入がガナーズサポーターからしぶしぶ受け入れられたことは少なからずサプライズだった。
フランス人選手は脇役として過ごしたノースロンドンでの2年間で疑いの声を払拭するには十分とは言えず、オールド・トラッフォードで見せていたレベルにはほとんど到達できなかった。
Gettyトニー・アダムスの負傷に伴い獲得されたステパノフスだが、オールド・トラッフォードでマンチェスター・ユナイテッドに1-6で完敗した後、同選手の自信は2度と回復できないほどの大きなダメージを受けた。
スイスのグラスホッパーに加入するまで、ステパノフスは4年間にわたりアーセナルでリーグ戦17試合に出場しただけだった。
Gettyフランス人DFは不足するアーセナルディフェンス陣を補強するために獲得されたが、早々から複数のミスが続いたことで抜け出せない深みにはまってしまった。
スキラッチはすぐさまチーム内での序列を下げ、2013年に放出された。

ヴェンゲル時代のアーセナルにとって最も不可解な補強の1つとされるパクは、クラブからの興味が伝えられた直後、リールでのメディカルチェックから立ち去った。
リーグ・アンで高評価を得ていた韓国人FWは、デビュー戦となったボルトンとのリーグカップで得点をマーク。しかし、プレー時間の不足や同選手のクオリティへの疑問などにより、10試合に出場したのみで2014年に退団した。