大きな失望とともにアトレティコ・マドリーへ去って行ったアルバロ・モラタに代わり、ゴンサロ・イグアインがミランから加わった。
アルゼンチン代表のイグアインは、モラタから背番号9を受け継ぐことになるが、この番号はエースナンバーであると同時に呪いの数字ともなっている。フェルナンド・トーレス、ラダメル・ファルカオ、そしてモラタなど、全員が期待に応えられずに終わってしまった。イグアインも彼らと同じ轍を踏んでしまうのだろうか。
Getty/Goal composite大きな失望とともにアトレティコ・マドリーへ去って行ったアルバロ・モラタに代わり、ゴンサロ・イグアインがミランから加わった。
アルゼンチン代表のイグアインは、モラタから背番号9を受け継ぐことになるが、この番号はエースナンバーであると同時に呪いの数字ともなっている。フェルナンド・トーレス、ラダメル・ファルカオ、そしてモラタなど、全員が期待に応えられずに終わってしまった。イグアインも彼らと同じ轍を踏んでしまうのだろうか。

クラブ史上最高額の6,000万ポンドで契約したと報じられた時には、スタンフォード・ブリッジでの輝かしい未来が待っていたはずだった。当初は素晴らしいスタートを切り、プレミアリーグ初出場から11試合で8ゴール4アシストを記録。
ところが、モラタは様々なケガと向き合うこととなり、次第に尻つぼみになっていく。コンディション不良と自信喪失のせいでパフォーマンスが落ち、ロシア・ワールドカップのメンバーからも落選した。
チェルシーでの迫力に欠けるパフォーマンスのため、2019年1月、アトレティコ・マドリーとの再契約に至った。12年前、ユースに所属していたクラブに、18カ月間のレンタル移籍することになったのである。
Getty Imagesマンチェスター・ユナイテッドへのレンタル移籍中、26試合で4ゴールしか挙げるができず、2015年に加入した。
スタンフォード・ブリッジではさらに深刻な事態となり、12試合で1得点のみ。シーズンの大半を、アトレティコ・マドリーでチームメイトだったジエゴ・コスタがピッチで光り輝くのを、ベンチで見ているしかなかった。
ブルーズことチェルシーとのレンタル移籍契約が満了した後、ファルカオはモナコに戻り、現在はそこでトップフォームを取り戻しつつある。
Getty Images2011年1月、当時イギリスの移籍金記録だった5,000万ポンドでリヴァプールからチェルシーに移籍した。アンフィールドで培ったゴールハンターとしてのスタイルを取り戻そうと躍起になっていたが、ブルーズことチェルシーで最初の得点を決めるまでに、903分の時間がかかってしまった。
「エル・ニーニョ(神の子)」と呼ばれたトーレスは、リヴァプール時代にはヨーロッパで最も危険なストライカーの一人との評判を確立していたが、チェルシーに移籍する頃にはすたれてしまっており、最初のシーズンは11得点にとどまった。
それでもトーレスは、ロンドンで記憶に残る活躍もしている。2012年のチャンピオンズリーグ優勝メンバーとなったことが最大の名誉だろうか。
Gettyチリのクラブであるアウダックス・イタリアーノで、プロサッカー選手として将来有望なスタートを切り、2008年にチェルシーと340万ポンドで契約。すぐさまトップチームに名を連ねることとなった。
アルゼンチン出身のストライカーであるディ・サントは、2008-09シーズンに16試合でプレーしたが、そのほとんどが途中出場によるものであり、1得点も奪うことはできなかった。
その後はブラックバーン・ローヴァーズへレンタル移籍され、24試合でたった1得点を挙げたのみだった。さらにウィガンと契約して完全移籍すると、チームは2013年のFAカップでマンチェスター・シティを破って優勝を果たしたが、彼自身は決勝でプレーすることはなかった。
Gettyバイエルン・ミュンヘンで174試合に出場し71得点を挙げた後、フリーでチェルシーに移籍したが、スタンフォード・ブリッジで過ごした2シーズンでは、たった2ゴールしか記録せず。
ピサーロは、ロンドンではスタメンを勝ち取ることはできず、ヴェルダー・ブレーメンにレンタル移籍した後、2012年にバイエルン・ミュンヘンに戻った。
Gettyなぜチェルシーがエースナンバーの9をミッドフィルダーに与えることにしたのか、そのこと自体が謎である。さらに、そもそも、なぜスティーヴ・シドウェルと契約したのかさえわからない。
U-23イングランド代表であったシドウェルが、チェルシーに来る直前、プレミアリーグのレディングで活躍していたことは事実である。168試合で29得点を挙げ、チェルシーへの移籍を果たした。だが、チェルシーには1シーズン半しかおらず、後にトップチームでの出場機会を求めてアストン・ヴィラへ移籍した。
Gettyシドウェルに背番号9を与えたことが奇妙な選択だったとしたら、その後、DFであるブーラルーズが「9」を背負ったことは、信じがたいことであった。シドウェルと同じくブーラルーズも得点はなかった。
ブーラルーズの名誉のために言うならば、彼は才能あるディフェンダーであり、チェルシーでは主に試合終盤での守備固め要員として起用されていた。チェルシーではインパクトのある活躍ができないまま、2シーズン後にシュトゥットガルトへ移籍した。
Gettyリヴァプールのファンには、2005年のチャンピオンズリーグ決勝で、2ゴールを挙げたミランの選手として記憶されているだろう。
イタリアのパルマとラツィオで数シーズンを過ごした後、一時は世界で最も高額なサッカー選手であった。アルゼンチン出身のクレスポは、初めてイングランドへ渡ることを決意したが、ロンドンでの最初のシーズンはケガで苦労することとなる。ピッチ外での問題でACミランへレンタル移籍した。
その後、1シーズンでチェルシーに戻り、タイトル獲得に貢献。最終的には49試合で20得点を挙げた後、完全移籍でインテルへと移籍した。
GettyオランダのPSV時代には得点能力の高いストライカーだったが、プレミアリーグで同じように得点を量産しようとした努力は報われなかった。
PSVのリーグ戦で105ゴールを奪ったケジュマンが500万ポンドでブルーズに来た時は、安い買い物だと思われていた。しかしながら、彼の奮闘は失望へと変わり、チェルシーでは41試合で7ゴールしか手にしなかった。
ただし、2005年のリーグ・カップの決勝では、リヴァプール相手に決勝ゴールを挙げ、優勝へと導いた。その年の夏、アトレティコ・マドリーへ移籍している。
GettyGチェルシーの21世紀最初の背番号9はジミー・フロイド・ハッセルバインクであった。2000年、アトレティコ・マドリーから1,500万ポンドで移籍してきたのである。
チェルシー史上最も成功した背番号9の一人であり、4シーズンで、最初はジャンフランコ・ゾラ、その後エイドゥル・グジョンセンと、素晴らしいコンビネーションを見せつけた。プレミアリーグのデビューシーズンで、21得点を挙げてゴールデンブーツ賞を受賞。チェルシーでのキャリア通算では177試合で88ゴールを記録した。