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不世出の男、本当のディエゴ・マラドーナとは。永遠に生き続ける伝説

ディエゴ・マラドーナ、死す。

この言葉を頭の中で、文字に書き出して、ニュースを声に出して、何度繰り返してもまだ嘘のようだ。

ピベ・デ・オロ(神の子)、ディエゴ。世界中のフットボーラーたちを刺激し続けたこの男が、どうしてこの世から旅立ってしまおうというのだろうか。

以下に続く

確かにこれまで死の淵に瀕したことはあった。自らが招いたものではあったが、またこちら側に戻ってきては、これまで通りの減らず口を叩いたものであった。

しかし今回ばかりは違う。ディエゴ・マラドーナは死んでしまった。これからのフットボール界は彼を失い、寂しいものになってしまうだろう。

■アルゼンチンそのもの

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彼の死が確認されたのは水曜日のこと。ブエノスアイレス郊外のティグレにある自宅で心不全のため亡くなった。自国からだけでなく、世界中からすぐに哀悼の言葉が送られた。

「アルゼンチン人としての喜びを我々に与えてくれた」

そう語りはじめたのはアルゼンチンの大統領アルベルト・フェルナンデスで、国中が3日間喪に服すことを宣言した。これほどの名誉が過去に与えられたことは、元大統領のフアン・ドミンゴ・ペロンとその妻エビータなど、アルゼンチンの歴史を紐解いても片手で数えられる程度だ。

「マラドーナはアルゼンチンそのものだ。マラドーナほどの人物が再びこの世に現れるとは、私にはとうてい思えない」

ペロンとエビータのように、ディエゴを中傷する人はいたが、彼らの批判は正当化されることが多かった。マラドーナは無作法で、口汚く、自滅的だったからだ。たちの悪いマネジャーやエージェント、取り巻きに唆され、悪の道に染まったりもした。

だが、彼は同時に希望の象徴だった。どんなに粗末で困難な出自を抱えた子供であっても成り上がることができ、成功の頂に立つことができることを証明する存在だったのだ。

■ナポリをスクデットへ導く

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1960年10月30日、マラドーナはラヌースの診療所で生を受けた。診療所の近くには今にも崩れそうな小さな家があり、父ディエゴと母トータ、そして7人の兄弟とともに、貧民街であるビージャ・フィオリトで過ごした。

少年時代のマラドーナは、街の荒れ地や砂利道で非公式の試合を行い、独特の技能を磨き、そこで同時に精神も鍛えられた。どんなに大きい相手でも、威圧的だったり悪意のある相手でも、小さなペルーサ(縮れ毛を意味するマラドーナの愛称)に立ち向かい、彼のドリブルスキルを脅かす人はいなかったし、不正を犯しても立ち向かってくる相手はいなかった。

16歳になる頃にはすでにアルヘンティノス・ジュニアーズでファンをどよめかせていた。タジェレス相手のデビュー戦では何万人もの人が彼を目撃した。

そこから、短い期間ではあったが、国内の雄ボカ・ジュニアーズに移籍。クラブと選手の間に結ばれた永遠の愛はまさに死ぬまで続く関係となった。バルセロナではセザール・メノッティの下、爆発的な活躍をしたが、「ビルバオの虐殺者」と呼ばれたアンドニ・ゴイコエチェアによってかかとを負傷。その後、彼は薬物に依存し始めた。薬物は晩年の彼を何度も悩ませることとなったのだ。

しかし1984年、ナポリに移籍するとマラドーナは一選手から神のような存在に変身を遂げた。

ブエノスアイレスの貧民街出身のスラムの少年は、抑圧の歴史を持つイタリア南部の人々にまたたく間に認知された。イタリア南部は北部の富裕層とは相容れない地区であった。

「ナポリ、イタリアにようこそ」――ディエゴのデビューにあたって、ヴェローナの本拠地スタディオ・マルカントニオ・ベンテゴディにはこんな横断幕が掲げられた(※ヴェローナはイタリア北部に位置する)。この試合では、ホームのヴェローナが3-1でやすやすと勝利を飾った。しかし、最後に笑ったのはマラドーナとナポリだった。

ナポリは1987年と1990年にスクデットを獲得し、コッパ・イタリアとUEFAカップも制した。ファンが抱えていた劣等感を永遠に払拭し、この活躍でディエゴはサンパオロの伝説へと上り詰めた。

イタリアでの活動はたしかに、結局悪い形で終わることとなってしまったかもしれない。1990年W杯の直後、コカイン陽性反応が検出され、出場停止処分を受けたのだ。それでも彼は、「第2のホーム」ではアイドルであり続けた。曜日のナポリの悲しみはブエノスアイレスと同じくらい深かった。

■絶頂、そして…

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穏やかな7月の午後、マラドーナは太陽の照るメキシコシティで最高の時を迎えた。

アルゼンチンの10番はイングランド戦、90分で2得点を決めた。1点目はおそらくW杯史上最高のゴール。そして2点目は、その対抗馬の存在になるだろう。

「ディエゴの頭には少し触れたが、神の手にも少し触れた」

準々決勝後、マラドーナは当惑したピーター・シルトンの頭上に掌を掲げ生み出した、あの傍若無人なゴールにぴったりな名前をすぐに作り上げたのだった。

1試合のうちに世界中で最も有名なゴールを2つも生み出したのだ。彼の人生、そして才能と邪悪を表現するのに、この事実を語るより適した方法はあるだろうか。

アルゼンチンはこのW杯を優勝に向かって突き進んだ。それまでマラドーナにとってよくない思い出ばかりであったこの大会を払拭するようであった。

1978年大会では最終候補から外された後、セサル・ルイス・メノッティにも泣かされ、その4年後には大失態(ブラジル戦での退場)を犯した。1990年には、再びもう少しで優勝というところまでこぎつけた。しかしかかとの怪我は深刻で、試合前に大量の痛み止めを飲まなければフィールドに出られなかったほどだった。

マラドーナのW杯はいつだってドラマティックな幕切れを迎える運命にあったようだ。1994年アメリカW杯でのドーピング検査でまたしても禁止薬物が検出された。アルゼンチンに戻り、33歳にして衰えていないことを証明した矢先のことであった。

そして、ディエゴがプロキャリアを終えたのは1997年。薬物と大幅な体重増加の両方からくる健康問題が影響していた。この健康問題で彼の人生は幕を閉じかけてしまった。

■再びアルビセレステに

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しかし、贖罪の時は再び近づいた。マラドーナは回復し、2008年に代表監督の座につくことになった。チームを率いて南アフリカへの切符を掴むことに成功。決勝トーナメント進出に導いた後は、UAEとメキシコのクラブで指揮をとり、UAEではスポーツ親善大使にも就任した。

昨年にはついに、アルゼンチンフットボール界に戻ってきた。ヒムナシア・ラ・プラタを率いたが、常に試合前には相手チームから感動的な賛辞を受けた。しかしその時、肉体の衰えが始まっていることは皆、気がついていただろう。マラドーナ監督は、ダグアウトに現れる際やインタビューを受ける際に介助がなければ歩けなかった。

それでは、どのディエゴが「本当の」ピベ・デ・オロだったのだろうか。ビージャ・フィオリトの貧民街から成り上がり、世界を席巻した巻き髪の怪物だろうか? 絶頂期、ナポリとアルゼンチン代表での英雄的な10番の姿だろうか? 長年連れ添ったエージェントであるギジェルモ・コッポラと大酒盛りし、ブエノスアイレスのほとんどのバーやキャバレーから出入りを禁じられたり、記者を空気銃で撃ったりした落ちぶれた英雄の姿だろうか?

それとも、南アフリカW杯予選でマルティン・パレルモが終了間際に得点してペルーを破った際、ずぶ濡れのグラウンドでダイブして大喜びした、タガがはずれた指導者の姿だろうか? それとも、ウゴ・チャベスやフィデル・カストロと仲が良かった革命家の姿だろうか?

本当のところ、これら全てがディエゴなのだ。まだ他の一面もあるだろう。マラドーナはあるべき姿を決めつける全てを拒否し、雑誌やテレビに居心地良く収まっていることを拒否したのだ。

人生のほとんどの期間を衆目のもとで過ごしたものの、本当にマラドーナを知り、理解している人はほとんどいないだろう。彼と最も近しい人達ですら、おそらくそうだろう。

一切の躊躇なく言えることは、少なくとも、マラドーナは彼の世代で最も素晴らしい才能であったということだ。それだけでなく、彼の人間性は世界中を虜にし、彼のプレーを生で見たことがない若者からも英雄視されていた。

60年という年月は、マラドーナのような男が地球を闊歩するには短すぎる。しかし、そのような短い年月でも、喪に服した後も永遠に残る爪痕を残していったことは間違いない。

マラドーナは死んだ。しかし、あらゆる意味で、ディエゴは死なない。

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