Marcelo Bielsa, Argentina manager, 2002

新時代の名将ポチェッティーノ――エキセントリックな二人との忘れがたい体験「彼は空気銃を乱射してたんだ!」

土曜日、マウリシオ・ポチェッティーノは多くの監督の夢であるチャンピオンズリーグの決勝でチームを指揮するという夢を成就する。トッテナム指揮官は、故郷アルゼンチンでプロサッカー選手としての第一歩を踏みだしてから長い道のりを歩んできた。中でも忘れがたい体験は、偉大なるディエゴ・マラドーナと同部屋になったことだ。常識ばなれしたスターの最も信じがたい大暴れのひとつを目の当たりにしたのである。

■ビエルサとの出会い

Marcelo Bielsa, Argentina manager, 2002

ポチェッティーノは、ムルフィーというサンタフェの小さな農村で育った。スパーズの控えのゴールキーパー、パウロ・ガッサニガも同じ村の出身で、人口4,000人の村からチャンピオンズリーグのファイナリストが2人出たことになる。2,000人に1人の割合というわけだ。

「ムルフィーはとても小さな街で、毎日することといったら学校へ行くことと友達と一日中サッカーをすることくらいだった。家にはテレビもなかった」と、ポチェッティーノは2013年に『BBC』 のインタビューで語っている。後にポチェッティーノ家は大枚をはたいて白黒テレビを買い、働き者の父ヘクターがトラクターのバッテリーから取った電気で見ていた。

子どもの頃のポチェッティーノはラシン・クラブ・デ・アベジャネーダのファンだった。だが、ポチェッティーノ少年がサッカーでブレイクしたのは、ニューウェルズ・オールドボーイズ時代。14歳のとき、マルセロ・ビエルサの伝説の右腕、ホルヘ・グリファにスカウトされたのだ。グリファは、ガブリエル・バティストゥータ、ホルヘ・バルダーノ、マキシ・ロドリゲス、ガブリエル・エインセといった才能ある選手たちを発掘したことでも知られている。

サンタフェは、サッカーの名選手の宝庫なのだ。ポチェッティーノ少年はロサリオへ引っ越し、エル・ロコことマルセロ・ビエルサが監督をしていたニューウェルズ・オールドボーイズのユースチームで、サッカー選手としてのキャリアを始めたのである。

契約の最終責任者であったビエルサは、ポチェッティーノの両親を説得し、10代の若者をニューウェルズへ呼び寄せるべく、わざわざムルフィーへやってきた。将来性豊かなスターをその目で見たかったのだ。「ある夜、午前1時に、ビエルサは私の家に来て、ドアをノックし、13歳の少年に会いたいと言ったんだ」と、ポチェッティーノは『ESPN』で語っている。

「彼は私の脚を見たがった! 夜中の1時なんだから、もう少し配慮があってもいいだろうに……両親はまだ完全に目が覚めてなかった」

「それから彼は、こう言った。『この脚なら、素晴らしい選手になれる』。悪意のないお世辞だった。私は、彼のことをずっと崇拝していた。彼は『エル・ロコ(狂人)』なんて呼ばれているけれど、私に言わせれば、彼はちっとも狂ってなんかいない」

「彼は天才なんだ。カリスマ性があって、我々、普通の監督とはまったく違う個性の持ち主だ。特別な存在なんだよ」

1990年、ビエルサがトップチームの監督に就任するときには、ポチェッティーノはすでにシニアでのプレーを2年間経験していた。エル・ロコに率いられ、ポチェッティーノが守備を操るニューウェルズは、チーム史上最高の時期を満喫した。

国内リーグのタイトルを2度獲得し、1992年にはコパ・リベルタドーレスの決勝に進出したのだ。ただし、後にワールドカップで優勝するカフー、ライー、ゼッチ、ミュラーを擁するサンパウロのチームに、PK戦の末に敗れた。

このコパ・リベルタドーレスでの戦いは、実際のところ、ホームでサン・ロレンソに0対6で負けるという悲劇から始まった。激怒したニューウェルズのバーラ・ブラバ(フーリガン)たちは、ビエルサの家に押しかけて抗議したが、ビエルサが手りゅう弾を玄関前で振り回したため、退散した。「今すぐ帰らなければ、ピンを抜いて投げるぞ」と、ビエルサは警告し、逃げだしたチンピラたちを、手りゅう弾を手に数ブロック先まで追いかけた。

■マラドーナと同部屋に

2019_5_30_maradona(C)Getty Images

ビエルサは、コパの決勝で負けた後、ニューウェルズを去ってメキシコへ移住したが、ポチェッティーノはとどまった。1年後、ディエゴ・マラドーナが加入して、ニューウェルズは大騒ぎになった。

アルゼンチン・サッカーのレジェンドであるマラドーナは、セビージャでの激動の時期を終えたばかりで、ナポリを去る原因となったコカインの使用による長期の出場停止が明け、ピッチに復帰しようと、ロサリオのクラブに加入することを選択したのだった。

4万人を超えるファンが、ニューウェルズのユニフォームを着たマラドーナの初めての練習を見ようと押しかけた。ニューウェルズの遠征中、ディエゴと同部屋になるよう選ばれたのがポチェッティーノだった。

「信じられなかった。私はずっと、寝室の壁に彼の写真を貼っていたんだからね」と、のちにその時の経験について尋ねられたポチェッティーノは微笑んだ。

「彼と一緒にいるというのは、とんでもないことだった。最初の晩のことは忘れられない。私は電気を消して、眠ろうと横になった。マラドーナと一緒にいるということが信じられず、夢を見ているんじゃないか、現実ではないんじゃないかと思った」

マラドーナにとってのニューウェルズ時代は嵐のようだった。度重なるケガに悩まされ、監督とケンカが絶えず、ピッチに立つという貴重な時間はほとんどなかった。試合に出場したのは全部で5試合だけで、無得点だった。それでもディエゴは1994年当初ニューウェルズに在籍し続け、マル・デル・プラタのリゾートビーチでの夏のプレシーズンの練習には参加した。

だが、ポチェッティーノが証言するとおり、小柄な天才との生活は予測不可能なものだった。

「私たちは、マル・デル・プラタで一緒にプレシーズンを過ごした。あの日の前日、私たちは同じ部屋になった」と、ポチェッティーノは語った。

「その夜、彼はバスケットボールが大好きだったから、リーグの決勝を見にいっていた。翌朝、私が目を覚ましたとき、彼はベッドにいなかった」

1994年2月2日、ディエゴは一体どこに行っていたのか。その謎が明らかになったのは数時間後だった。

「朝食の後、私たちは練習に出かけ、昼食のために戻ってきた。その時まだ、誰もディエゴがどこにいるのか、わからなかった」と、ポチェッティーノは言う。

「食事をしながら、私たちはテレビでニュースを見ていた。彼が、ブエノスアイレスで記者たちを撃っていた。私たちがいるところから400キロも離れたところで!」

前夜、ポチェッティーノが眠っている間に、マラドーナはアルゼンチンの大西洋岸の街を離れて、自宅のあるブエノスアイレス近郊のモノレへ行っていたのだ。目が覚めて記者の一団が門のところにいると知ったディエゴは、エアライフルを発砲。6人の記者が負傷したが、それでも去ろうとしない記者たちに、今度はホースを向けたのである。2002年、この事件に関して執行猶予付きの禁固2年の判決が下り、マラドーナは乱闘で負傷した記者たちへの損害賠償を命じられた。

記者たちへの攻撃はさておき、スパーズのポチェッティーノ監督は、自身のサッカーのアイドルであり、かつてのルームメイトを今でも敬愛している。「私はサッカーを愛している。いつだって大好きだ。私のアイドルはずっと、ディエゴ・アルマンド・マラドーナだ」と、『スカイ・スポーツ』のインタビューで答えている。

そして今、ムルフィー生まれの少年は、ディエゴもビエルサもなしえなかったことをやってのけた。ヨーロッパのサッカークラブにとって最高の舞台に立つのだ。サッカー界で最もエキセントリックにしてユニークなキャラクター2人とともにロサリオで練習し、ホテルの部屋をシェアしていた若かりし頃から、長い旅を経てそこまでたどりついたのである。

あの2人が、ポチェッティーノを一人前の男にし、今日のような監督にする上で、大きな役割を果たしたことは間違いない。

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