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レロイ・サネはどのようにスター選手となったのか? 関係者が語る秘話

2月20日、マンチェスター・シティのレロイ・サネはチャンピオンズリーグ・ラウンド16で古巣シャルケとの対戦に臨んだ。スーパースターへと成長を遂げて――。そして、12日にはホームにシャルケを迎えるセカンドレグを戦う。

『Goal』と『SPOX』は、サネの以前のチームメイトであるフレデリク・シュトライト、ドニス・アヴディヤイ、モーリス・ノイバウアー、パスカル・イター、ファビアン・レーゼ、ロマン・ノイシュテッター、そしてマンチェスター・シティ担当のジャーナリストであるデヴィッド・ムーニーとインタビューを重ね、サネの成長の足取りを追った。

■父と息子の取り決め

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電話に応えたスレイマン・サネ(画像)は、「それを望んでいるかどうか、まずレロイに問い合わせてみなければ」と言った。父親が息子について語ることを、サネが望んでいるかどうかを。かつてはスレイマン自身がそれなりの成功を手にしたプロフットボーラーで、ヴァッテンシャイト、ニュルンベルク、フライブルクなどのクラブでプレーしていた。

彼は世の中で名前を知られるというのがどういうことか知っている。外からの雑音がどれだけ邪魔になるかも知っている。だからスレイマン自身、かつて自分の父親とある取り決めをしたのだ。父親が自分の考えを口にするのは、あらかじめ息子との申し合わせがあった場合に限ると。スレイマンと彼の父親はずっとこのシステムを守ってきた。いずれにせよ、今回スレイマンは何も語ろうとしない。父親と息子は心を一つにしている。家族の絆は固いのだ。

「レロイは家族思いの人間だ。彼にとっては家族がすごく身近な存在なんだと感じたよ」と語るのはドニス・アヴディヤイだ。2011年7月1日にシャルケのユースチームに入団したアヴディヤイとサネは、4年間を共に過ごした。「あの時、サネが兄のキムと一緒にいたのを覚えているよ」と、アヴディヤイは語る。兄のキムも、3番目の兄弟で一番年下のシディもまた、この同じ日にシャルケに入団している。

現在24歳のキムはすでにキャリアを終え、15歳のシディは今のところシャルケのU-16チームでプレーしている。サネ3兄弟は同じような道筋をたどってユース時代を過ごした。彼らはドイツ西部の都市ボーフムのヴァッテンシャイト地区で育った。そこは、父スレイマンが現役を退いた後に住みついた土地だった。

サネ一家では最初からスポーツが重要な役割を果たしていた。母親のレギーナ=ヴェーバー・サネもまたプロのスポーツ選手だったのだ。1984年のロサンゼルス・オリンピックで彼女は、体操選手として銅メダルを獲得している。サネ家の子供たちはその敏捷性を母親から、ボールに対する感覚を父親から受け継いだのだ。

■ヴァッテンシャイトのアリエン・ロッベン

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子供時代のキム(画像上:左)とレロイとシディは、ロアハイデシュタディオン(ヴァッテンシャイトのホームスタジアム)からほど遠からぬ、ヴァッテンシャイト地区のあちこちにあるボルツプラッツ(ストリートフットボールが行われるミニゴールを備えた広場)で遊んでいたが、後にSGヴァッテンシャイトのユースチームに入団した。さらにキムがボーフムに、レロイがシャルケに籍を置いた後、再び3人そろってレヴァークーゼンに籍を移した。

当時12歳だったレロイは初めて、一日のうち少なくともある長さの時間、慣れ親しんだ環境を離れて過ごすことになった。ヴァッテンシャイトで学校に通い、学校が終わると列車でレヴァークーゼンへ向かい、練習を済ませてまたヴァッテンシャイトへ戻るという日常だった。

サネにとって、新しい環境に適応することには何の問題もなかった。「すぐに彼はすっかりなじんで、みんなからとても愛されていたよ」と、当時チームメイトだったフレデリク・シュトライトは語る。

「彼はふざけたことなら何でも一緒にやったし、いつでも小生意気な言い草を用意してたよ。だけど、ちょっとばかり滅茶苦茶なところもあったね」

シュトライトは、中部ライン選抜チームで共に過ごした時間のことを楽しげに回想する。

「あそこでは一緒にたくさん馬鹿をやったよ」

だが、サネと共に大いに楽しんだ思い出と同様に、彼のとんでもない才能もまたシュトライトの記憶に残っている。

「サネがフェイントをやる時の独特な動き方をまだはっきり覚えているよ。いつも左足を同じように動かすんだ。みんながそれを知っていたけど、それでも引っかかってしまうんだ。ちょっとアリエン・ロッベンみたいだったね」

“ヴァッテンシャイトのロッベン” はレヴァークーゼンで3年を送り、2011年に2人の兄弟と共にルール地方へ戻った。その後は3人そろってシャルケでプレーしていた。兄弟は互いに試合を観戦し合い、そういう時にはよくパパ・スレイマンの姿も見られた。

「レロイのお父さんは彼の生活態度をすごく気にかけていたよ。たとえばある時一緒に食事に出かけたんだけど、8時半になって、次の日は試合があったんだ。そしたらお父さんが何度も言うんだよ、『さあ、レロイ、そろそろ帰らないと』ってね」

こう語るのは、U-19で出会ってチームメイトになったパスカル・イターだ。アヴディヤイにも似たような記憶がある。

「レロイはいつもよく弟の面倒を見ていたし、お父さんやお兄さんはレロイのことを気にかけていた。特に、お父さんはすごくレロイの支えになっていたよ。すでに何もかも経験したことのある誰かから助言をもらうのは、レロイにとってとても役に立ったんだ」

■「あっという間に “違い” が生まれた」

donis-avdijaj(C)Getty Images

だがその父親にとっても、当時のサネの体格はどうにもしようがなかった。U-17時代にもまだ、サネはチームメイトたちに比べて体格的にハンデを抱えていた。「サネはかなり痩せっぽちで背が低かった」と、アヴディヤイ(画像上)は記憶をたどる。アヴディヤイがU-17に参加した最初のシーズン、サネはレギュラーメンバーに入れず、1ゴール1アシストという結果しか残せなかった。次の年も似たようなもので、1ゴール2アシストに終わった。

当時、チーム最大のタレントと見なされていたアヴディヤイは大成功を収めていた。1シーズンに44ゴールを決めたのだ。サネはと言えばその他大勢の一人であり、ドイツU代表でも何ら大きな活躍を見せていなかった。

「もちろんサネに才能があることは誰もが知っていたけれど、あの頃の彼が最高の選手だったとは言えないだろうね」と、モーリス・ノイバウアーは語る。ノイバウアーはサネと共にシャルケの年代別ユースを駆け上がり、現在はドイツ南西部レギオナルリーガ(4部リーグ)のFC 08ホンブルクでプレーしている。

2013年、それまでU-17でプレーしていたノイバウアーとアヴディヤイとサネは、そろって、育成分野でレジェンドとなっている監督ノルベルト・エルゲルトの率いるU-19チームへ進んだ。かつてサネはエルゲルトを指して、「僕の人生でとても重要な役割を果たした人物」と呼んだことがある。エルゲルトは若い選手たちの心を掴み、彼らの成長を促す手腕の持ち主だ。

「エルゲルトの下でサネはどんどん成長したよ。エルゲルトはサネに規律を叩きこんだし、克己心を身につけたりモチベーションを手に入れる上でもサネの力になったんだ」と、イターは証言する。

「エルゲルトが望んだ通りにしないと、大目玉を喰らったんだ」

エルゲルトの下で、サネはついに力強い成長を見せ始めた。やっとその時が来たのだ。中盤が菱形の4-4-2の陣形を取る場合、たいていサネはゲームメーカーのポジションについた。ブンデスリーガAユースの最初のシーズンには10ゴール10アシストの成績を挙げ、チームのキープレーヤーへと成長した。同じ頃、体格にも成長が見られ、背が伸びて体重も重くなった。頻繁にウェイトトレーニングに通ったため、持久力も向上した。

「あっという間に “違い” が生まれた感じだった」と、当時のことをノイバウアーは思い出す。その甲斐あって18歳の時、サネはブンデスリーガ第31節にアウェーで行われたシュトゥットガルトとの対戦でシャルケのトップチームデビューを果たし、ドイツU代表にも初めて招集されてU-19代表に参加した。

■「馬鹿なことばかりやっていた」

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当時、シャルケの中盤にはロマン・ノイシュテッター(画像上)がいた。彼は、サネがプロスタートを切った時のことを非常に鮮明に記憶している。サネは、その明るい性格のおかげでうまくチームに溶けこんだ。この点については、以前のチームメイトの全員が口をそろえて強調する。

「サネはいつも笑っていて、愉快なことや馬鹿なことばかりやってたよ」と、ノイシュテッターは語る。イターの知っているサネも、「馬鹿げた質問に変てこな答えをするのが得意だった」という。イターはルール地方の外からやって来た他の選手たちと一緒にシャルケの寮で暮らしていたが、サネもよく寮にやって来た。練習前のこともあれば、練習の後に来ることもあった。

「暇があると、サネはしょっちゅう寮の僕らのところに入り浸っていた。僕らは寮の共有スペースで、よくプレイステーションで遊んだよ。サネはいつも自分が1番うまいんだってすごく自慢していて、負けたりすると全然納得しなかったよ」

サネは自由時間に音楽を聞くのも好きだった。「すごく夢中だったね」と、レヴァークーゼン時代のチームメイトであるシュトライトは語る。「彼はいつもヒップホップやR&Bを聞いていた」。

サネはU-19チームのメンバーからブンデスリーガのレギュラーへとキャリアを前進させた。2014-15シーズンにはすでにプロチームの主力メンバーとしての地位を確実なものにして、ブンデスリーガで初めてのゴールを決めた。

次のシーズン以降、サネはもっぱらプロチームでプレーするようになった。11月にはフランクフルトで行われた親善試合でドイツ代表デビューを果たし、次の夏には、フランスで開催されたヨーロッパ選手権の参加メンバーとして代表監督ヨアヒム・レーヴからの指名も手にした。この時にはすでに、5000万ユーロ(約56億円)でマンチェスター・シティへ移籍することが決定していた。これによってサネは、ドイツのフットボール史上最高額の選手となった。20歳にして、サネは頂上まで上りつめたのだ。

■グアルディオラとの出会い

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ほかの若手選手の場合とは違って、新しい環境に移ってもサネが適応の問題にぶつかることはなかった。かつてレヴァークーゼンでもそうだったように、彼の明るい性格とつき合いの広さが助けになった。

「サネは最初からマンチェスターで居心地よくやっていたよ。それに、彼のところにはいつもたくさんの友達が遊びに来ていたからね」と語るノイシュテッターは、今でも頻繁にサネと連絡を取っている。

サネがチームに馴染むにあたっては、ペップ・グアルディオラ監督も重要な役割を果たした。そもそも、監督がサネとの契約を推し進めたのだと言われている。

「レロイの選択は正しかった。彼は、選手の成長を助けてくれる監督、一人一人の選手と時間をかけて向き合ってくれる監督のところへ行ったんだ。その上グアルディオラは、レロイのボールコントロールを改善することまでやってのけた」と、ノイシュテッターは見ている。

主にBBCとESPNでマンチェスター・シティを担当しているジャーナリストのデヴィッド・ムーニーによれば、グアルディオラはサネにとって “父親のような役割” を果たしているのだという。最初が家庭での父親スレイマン、次がAユースの監督エルゲルト、そして今度はグアルディオラ。この3人が、サネのフットボーラーとしてのキャリアにおいて最も重要な役割を果たしたのだ。

高額の移籍料の回収を急ぐふうもなく、グアルディオラはサネをゆっくり見守った。最初はケガで試合に出られず、その後は途中出場の機会を与えられることもあれば、与えられないこともあった。

「初めのうち、サネは大人のフットボールに紛れこんできた子供、といった様子だったよ。ちょっぴりナイーブで、大いに手ほどきを必要としていた」と、ムーニーは語る

初めて注目を浴びたのは12月の半ばで、2-1で勝利を収めたアーセナル戦の際に、サネが1-1に持ちこむゴールを決めた時だった。

「このゴールがサネというプレーヤーのスタートを告げる合図になったんだ」と、ムーニーは振り返る。シーズン後半にはサネはレギュラーメンバーとして定着し、次のシーズンもそこに留まった。この2017-18シーズンにチームはリーグを制し、サネは年間最優秀若手選手に選ばれた。すべてが急速に、きわめて急速に進行していた。9月30日に行われたチェルシー戦では時速35,48kmを記録し、プレミアリーグの最速スピード記録を塗り変えた。

■ “いい気味だ”

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何年もの間、サネはひたすら上昇の一途をたどっていた。そこに、2018年の6月4日がやって来た。「ベルント・レノ、ヨナタン・ター、ニルス・ペーターゼン」と、代表監督レーヴは選に漏れた選手の名前を読み上げた。

「そして、レロイ・サネ」

レーヴがコーヒーを飲み干すやいなや、理解に苦しむという声が大波のように襲いかかった。レーヴはロシアW杯の最終メンバーからサネを外したのだ。ノイシュテッターは語る。

「僕はSNSでサネに伝えたよ、『気を落とすな、こんなの誰にも納得できないよ』って」

もちろんドイツにおいてもレーヴの決断に理解を示す者は極めてわずかだったが、サネの第二の故郷であるイングランドではその数はなおさら少なかった。

イングランドを襲った「ショックと激しい怒り」のことをムーニーは覚えている。

「ファンはびっくり仰天だったし、メディアはものすごく腹を立てていたよ。普通なら、イングランドで関心を呼ぶのはイングランド代表のことだけだ。けれど突然サネの落選の知らせが届くと、それ以外のことは全部霞んでしまったんだ」

この反応は、サネがそれまでの2年間にイングランドでどのような地位を築き上げていたかを示している。

「誰もが自分の胸に聞いていたよ。『プレミアリーグで最優秀若手選手になれるサネが、どうしてドイツのW杯代表メンバーに入れないんだ?』ってね」

前の年にサネが鼻の手術を優先させ、コンフェデレーションズカップへの招集を断ったことが落選の一因ではないか、との憶測が飛んだ。

最初にマンチェスターを襲ったショックは、W杯が始まって時間を経るにつれ、次第に “いい気味だ” とドイツの不調を喜ぶ気分に変わっていった。

「シティ・ファンの多くはW杯でのドイツの戦いぶりを喜んで見ていたよ。彼らは、サネが当然手に入れるべきものを奪われたんだと感じていたからね」と、ムーニーは語る。同時にシティ・ファンは、W杯中に休養を取って力を蓄えたサネがトップコンディションで新シーズンに臨むことを期待した。

■「サネを使わないわけにはいかない」

だが、そうはいかなかった。サネはプレーから離れていたからだ。プレミアリーグの最初の3戦では遅い時間になってやっと投入され、さらに第4戦ではメンバーから外された。

「サネはシーズン前の準備がうまくいってなかった。試合に出るのにふさわしい状態ではなかった」と、グアルディオラは説明した。W杯で代表から外れた時にも憶測が飛んだように、サネの生活態度やコンディションに問題があるのではないかと噂された。

「シティでは、試合中にあまり熱心に守備をやらないというので、サネは何度も批判されている」と、ムーニーは語る。

「だから、もしかしたら練習もあまり熱心にやらないのではないか、という方向へ考えが進むのは自然なことなんだ」

監督から、そして世間からも不調の原因を探られるような経験は、サネにとってキャリアが始まって以来初めてのことだった。数週間の間、サネはつらい時間を過ごした。

この時、娘の誕生がサネに力を与えてくれた。「子供が生まれたことで、サネは人間的に成長したんだ」と語るノイシュテッター自身も、最近父親になったばかりだ。

「一緒にSNSでやり取りしていると、子供と一緒に過ごす時間がどんなに素晴らしいかって、サネは夢中になって話すんだ。子供のことがよく話題になるし、写真を送り合ったりしてるんだけど、サネの娘は彼と瓜二つなんだよ。僕の息子はどっちかというと母親似だね」

前半戦が進むにつれ、サネはコンディションを取り戻した。その後に8ゴール10アシストを挙げ、タイトル争いのライバルであるリヴァプールとの一戦では決定的なゴールを決めて、2-1で重要な勝利を勝ち取った。

「とにかく彼のような選手を使わないわけにはいかないよ」と、ノイシュテッターは語る。

「サネがみんなと一緒に後ろへ走らないとしても、大目に見てやらなくちゃ。そういう時にはいつだって、彼は前線で何かをやってくれるんだから」

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