1994シーズンは極端な変貌を遂げたシーズンでもあった。サントリーシリーズは12チーム中でワーストの54失点(22試合)と崩壊した守備が、NICOSシリーズでは最少タイの26失点と劇的に減少したことが躍進を導いた。迎えた1995シーズン。後に日本代表の大黒柱となる山梨・韮崎高校卒のMF中田英寿が加わったベルマーレは、カップ戦の覇者が集うアジア・カップウイナーズカップの頂点に立った。
小島 サントリーシリーズはそれこそ4点取られても、5点取って勝てばいいという感じだった。右サイドバックのナラも、左サイドバックの輝雄もどんどん上がっていって、センターバックの名塚(善寛)とタクが『どうしよう』といつも困っていたよね。
遠藤 たまに名塚も上がって行っちゃいましたからね。
小島 チームも選手も若かった。サントリーシリーズでは開幕から12試合連続ゴールを決めるなど、点を取ることはできていた。失点を減らせば勝てる、という考えはもちろんみんなの頭の中にあったけど、それを具現化する術を知らなかった。
名良橋 ポジションを変えましたよね。公文(裕明)さんを左サイドバックに入れて、輝雄を一列上げたのもよかったし、僕ももちろん前には行っていましたけど、守備のマイナスを考えながらNICOSシリーズではプレーするようにしていたので。
小島 NICOSシリーズ開幕前のプレシーズンマッチで、フリューゲルスに勝ったんだ。ずっと押されながら耐えて、ワンチャンスをものにして1-0で。それが守れば勝てるという自信になったというか、勝ち味を覚えたような気になって、俗に言えば勢いが生まれた。
名良橋 ノブさんとセンターバックの2人、そしてボランチのター坊とエジソンの5人が本当に頑張ってくれた。中央がしっかり機能したうえに、公文さんが左に入ったことでサイドバックも攻守で左右のバランスが取れたんですけど……最後の最後で、公文さんが2試合の出場停止になって。
遠藤 頭を打って倒れて、レフェリーが駆け寄った時に急に立ち上がったら、なぜかイエローカードを出されて累積になってしまった記憶があります。
名良橋 磐田戦は何とか勝ったけど、次の鹿島戦で1-3で負けてしまって。結果論になりますけど、公文さんがいたらどうなっていたのかなとは今でも思いますね。
©Tomoo Aoyama小島 そしてヒデ(中田英寿)が入団するわけだけど、1994シーズン当時の12チームのうち、10チームから欲しいと言われてなぜウチに来たのか、と思うくらいのすでに有名な選手だったよね。
名良橋 練習にも一日だけ参加して、ミニゲームなどをやったけど、みんなも来ないと思っていましたよ。
小島 練習参加の日はスカウトから『ロッカーをお前の隣にするから、常に話しかけてくれ』と言われていた。ただ、1年目は正直、それほどの選手とは思わなかった。レギュラーも取れていなかったし、体をぶつけられるとすぐ倒れていたからね。
名良橋 そういう経験もあって、ヒデの筋トレの量は本当にすごかった。目指しているところが違う、と思わずにはいられなかったですね。
遠藤 ホームの時はもちろんでしたけど、アウェイにいっても必ずジムに行って鍛えていた。あくまでも試合はトレーニングの一環みたいな感じを受けました。
小島 海外へ移籍するためのステップとして、ベルマーレがあったんだろうね。
遠藤 オファーが届けば開示する、という条項が契約の中に入っていたと思うんです。実際、ユースレベルでしたけど、2年目のオフにユベントスへ短期留学していますからね。
名良橋 とにかく、瞬く間に簡単には倒れなくなった。全体練習を終えた後も、居残りでパスがシュートを黙々と蹴っていましたからね。ただ、ヒデがプロ入り初ゴールを決めた5月3日の鹿島戦は、僕の中でレジェンド・オブ・レジェンド的な存在でもあった野口(幸司)さんが一人で5ゴールを決めた影響で、だいぶ影が薄くなってしまったけど。
小島 あの試合は鹿島も可哀想だった。ゴールデンウイーク中で首都高速がめちゃくちゃ渋滞して、ホテルへの到着が深夜零時くらいだった。翌日がデーゲームなのにね。
名良橋 大磯プリンスホテルで同宿でしたからね。まだ到着しないのかな、と不思議に思っていました。結局、その前まで8連勝するほど絶好調だったのに、僕らが7-0で勝ちましたからね。
小島 それはともかく、ヒデはベルマーレにいた最後の方は、えげつないファウルでもしない限りは止められなくなっていた。それくらい体が強くなっていた。あと、インサイドキックからのパスは日本で一番強烈だったかな。
名良橋 走りがいがありましたよ。僕のスピードに合わせてくれたので。走らないと怒られるし。逆に僕が『走ったのに何でパスを出さないの』とたまに聞くと、『出してもチャンスにならないでしょう』と上手く丸め込まれる。こっちの意見はほとんど通らないので、僕もさっさと自分のポジションに戻りましたけど。
小島 アジア・カップウイナーズカップに関しては、正直、あまり印象に残っていないんだよね。僕自身が決勝戦しか出ていないこともあるので。
名良橋 準々決勝までの相手は東南アジアのいわゆる格下ばかりで、しかも水曜日にアウェイで試合をすると、週末のリーグ戦までに帰って来られない場所もあった。なので、週末の試合に絡みそうな選手は連れていかなかったけど、準決勝からは日本で集中開催だったので。
遠藤 横浜フリューゲルスと平塚で対戦して、けっこう点の取り合いになった記憶があります。確か延長Vゴールの末に、4-3のスコアで勝ちましたよね。
小島 そこまでは古島がキーパーで先発していたけど、ホームで有終の美を飾ったからもう出ないとなって。平塚競技場でのラストゲームという位置づけだったみたいで、僕自身はオフに入ったつもりで過ごしていたから、イラクのアル・タラバとの決勝戦だけ出ることになって慌てたというか。
名良橋 年の瀬も押し迫った12月27日でしたよね。
小島 それもナイターだったから、会場の三ツ沢球技場のピッチはスパイクのポイントが刺さらないくらいに凍っていて。めちゃ寒かった中で、ヒデが点を取って2-1で勝った。
名良橋 決勝点ですね。ソリさん(反町康治)からパスを受けて、一人を股抜きでかわしてから左足で決めた。実は先制点を決めて、なぜかMVPまでもらったのは僕なんです。賞品がサンヨーのビデオデッキ。日本製だったから、すぐに使えた。ラッキーでしたね。
遠藤 サンヨーさんが大会スポンサーでしたからね。
名良橋 観客数は何百人の世界でしたけど、その中に輝雄は観客の一人として見に来ていましたよ。けがか何かでベンチから外れていたんですけど、チームとはまったく別でスタンドにいるところを、テレビにばっちりと映し出されていました(笑)。
■小島伸幸氏×名良橋晃氏×遠藤直敏氏(湘南ベルマーレ・スタッフ)座談会 第1回
■小島伸幸氏×名良橋晃氏×遠藤直敏氏(湘南ベルマーレ・スタッフ)座談会 第2回
■小島伸幸氏×名良橋晃氏×遠藤直敏氏(湘南ベルマーレ・スタッフ)座談会 第4回
■プロフィール
小島伸幸(こじま・のぶゆき)
生年月日/1966年1月17日 出身地/群馬県前橋市
新島学園高、同志社大を経て、1988年フジタに加入。チームのJリーグ昇格も経験するなど98年まで平塚(現湘南)で活躍した。その後、福岡、草津(現群馬)でプレーし、2005年に現役を引退。元日本代表GK。現在は解説者、指導者として活躍する。
名良橋晃(ならはし・あきら)
生年月日/1971年11月26日 出身地/千葉県千葉市
千葉英和高から1990年フジタに加入。攻守両面に優れたサイドバックとして96年まで平塚(現湘南)で活躍。97年、鹿島に移籍すると2006年までプレーし、2007年に湘南に復帰。その年に現役を引退した。元日本代表。現在は解説者として活躍。
遠藤直敏(えんどう・なおとし)
生年月日/1969年3月4日 出身地/大阪府大東市
1992年に株式会社フジタ入社後、本社スポーツ事業推進室の一員としてフジタサッカークラブ副務の職に就く。その後フジタの経営撤退後、00年より正式に湘南ベルマーレに入社。以降クラブでは主務や強化担当、運営担当等を歴任している。
●インタビュー・文=藤江直人(ノンフィクションライター)
▶Jリーグのライブを観るならDAZNで!1ヶ月間無料のトライアルを今すぐ始めよう