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メッシがエスパニョール?ロナウジーニョがドルトムント?契約寸前までこぎつけた幻の移籍
Goalスター選手、幻の移籍先
リオネル・メッシ、ギャレス・ベイル、ロナウジーニョ、ジネディーヌ・ジダン…。彼らの功績は当然公に知られている。皆自ら道を切り開いたフットボーラーたちだが、そのキャリアのなかで、今は想像もつかないようなクラブと契約寸前までこぎつけていたことがあった。
今回は契約寸前までこぎつけた幻の移籍をまとめてみた。
Getty Imagesリオネル・メッシ
幻の移籍先:エスパニョール
リオネル・メッシはこれまでバルセロナ以外のクラブで活動したことはない。だが、後にわかったことだが、もう少しで他クラブに移籍しそうになったことがあった。
皮肉なことに、地元のライバルであるエスパニョールがこの類まれなフットボーラーを期限付きで獲得する寸前まで行っていたそうだ。
現PSG監督マウリシオ・ポチェッティーノが『El Larguero』に明かした情報だ。それによれば、エスパニョールは2004年、もう少しでメッシを期限付きで獲得するところだったそうだ。だが、当時17歳だったメッシはプレシーズンの練習試合で大活躍を見せたことでバルサに留まることとなった。
ポチェッティーノ自身は2004年から2006年までエスパニョールでプレーしており、2009年から2012年まで監督として指揮した。ポチェッティーノはもう少しでメッシの同僚になるところだったのだ。もしかすると早晩パリで再会することになるかもしれないが…。
Gettyロナウジーニョ
幻の移籍先:ドルトムント
このブラジル人は主にバルセロナでプレーした選手。バルサ加入前はPSGで2年間を過ごしたが、その後ドルトムントに移籍していたかもしれなかったのだ。
ロナウジーニョがグレミオを離れ、祖国を出る時、ドルトムントは500万ユーロ(約6億2500万円)を用意して獲得に当たっていた。「ドルトムントへのステップアップは当時の僕にとって大きすぎたんだ」と、ロナウジーニョはのちにこう語っている。
Getty Imagesアレクサンドル・フレブ
幻の移籍先:1860ミュンヘン
このベラルーシ人はロナウジーニョの代わりとして2008年バルサに加入した。フレブは2000年代前半にBATEボリソフからシュトゥットガルトに移籍した頃からヨーロッパでブレイクを果たした。結局キャリア通じて1860ミュンヘンに移籍することはなかった。
だが、後にCLで優勝することになるフレブはレーヴェンス(1860ミュンヘンの愛称)に練習参加していたそうだ。だが、当時の監督ヴェルナー・ローラントは移籍に反対。「こんな細い選手と一緒に何をやれというんだ」するとシュトゥットガルトが契約を掠め取り、その後アーセナルに1500万ユーロ(約18億7500万円)で売り渡したのだ。
Getty Imagesディエゴ・マラドーナ
幻の移籍先:シェフィールド・ユナイテッド
1978年、シェフィールドの監督ハリー・ハスラムはスカウトのためアルゼンチンに遠征していた。当時17歳のマラドーナは2部リーグのチーム、アルヘンティノス・ジュニアーズでプレーしていた。
ハスラムはマラドーナに20万ポンド(約2800万円)でオファーを出す計画をしていた。だが、シェフィールドのフロントはマラドーナの同僚アレックス・サベーラを獲得することに決定。マラドーナはのちにボカ・ジュニアーズに移籍し、さらに1982年、バルサに移籍することとなった。
Getty Imagesジネディーヌ・ジダン
幻の移籍先:ブラックバーン・ローヴァーズ
23歳の時、ジズーはまだボルドーでプレーしていた。スター街道を駆け巡ろうとしているところだった。しかしブラックバーンはすでに明るく輝いていた。ブラックバーンは1995年、イングランドの新チャンピオンになったところだったのだ。
レイ・ハーフォード監督はジダンと契約したがっていた。しかしクラブの幹部ジャック・ウォーカーは移籍に待ったをかけた。「ティム・シャーウッドがいるのになぜジダンとサインする必要があるんだ?」。結局一年後、ジダンはユヴェントスへ移籍した。
Gettyカカ
幻の移籍先:マンチェスター・シティ
2007年、カカはキャリアの絶頂を迎えていた。ミランでCLを制し、世界クラスのフットボーラーになったのだった。シティは降格争いをしていた。2年後、シャイク・マンスールがシティを保有することに。ロビーニョは彼のウェルカム・ギフトだった。
カカが次に続くはずだった。伝えられるところによると、シティは約1億1500万ユーロ(約144億円)を用意していたという。それ以前の移籍金の最高額はジダンの7800万ユーロ(約97億5000万円)だった。ミランは移籍を認めたが、カカ自身はこれを拒否、代わりにレアルにその身を移したのだった。
Goalエステバン・カンビアッソ
幻の移籍先:カイザースラウテルン
2003年、カンビアッソは23歳にしてレアル・マドリーでプレーしていた。ロス・ブランコスはこのアルゼンチン人をローンに出し経験を積ませたいと思っていた。それを望んだクラブがカイザースラウテルンだった。
しかし、カンビアッソはレアルに残る決断をし、自身にプレッシャーをかけた。だが、このディフェンスのオールラウンダーは成功することができず、2004年にインテル・ミランにフリーで移籍。ネラッズーリ(インテルの愛称)ではスクデットを5度も獲得し、2010年にはCL優勝も果たした。
Getty Imagesスティーブン・ジェラード
幻の移籍先:チェルシー
ミスター・リヴァプールがレッズを離れロンドンに行くなど想像することもできないほどだ。特にCLで栄えある頂点に君臨した後の2005年だというのだから、特に考えがたい。だが、ジェラードは自身の行く先を熟考していた。
チェルシーはちょうど国内王者になったところだった。ジョゼ・モウリーニョは真剣にジェラードの獲得を望んでいた。嫌っていたわけではなかった。チェルシーにいたほうがチャンピオンになれる可能性は高かった。リヴァプールファンのネガティブキャンペーンもさらにジェラードを悩ませる原因になった。結局彼はリヴァプールに留まることとなった。
Gettyロベルト・レヴァンドフスキ
幻の移籍先:ブラックバーン・ローヴァーズ
2010年、現在バイエルンで活躍するストライカーはドルトムントに475万ユーロ(約5億9000万円)で移籍したところだった。その時獲得を争ったのがブラックバーンで、同じくらい高額のオファーをレヴァンドフスキに提示していた。
レヴァンドフスキはブラックバーンに会談の誘いを受けていた。しかし、フライトができなくなってしまった。その理由は、3月にアイスランドの火山エイヤフィヤトラヨークトルが噴火したことだった。巨大な煙が立ち上り、フライトを妨げた。そして、移籍も妨げられたのだった。
Gettyリヴァウド
幻の移籍先:ボルトン・ワンダラーズ
2004-05シーズン、リヴァウドはすでに絶頂期を過ぎていた。それでも1999年頃からのヨーロッパでは、世界王者として、そして世界クラスのフットボーラーとしての彼の存在感はとてつもなく大きいものだった。ボルトンは当時人気上昇中のクラブだった。
サム・アラダイス監督の下で、ワンダラーズはUEFAカップ出場にこぎつけた。ボルトンとリバウドの会談も円滑に進んでいた。リヴァウドも「チャレンジをしてみたい」と行っていた。しかし移籍は実現しなかった。ピレウス(オリンピアコスのホームタウン)に行ってしまったのだ。
Gettyズヴェズダン・ミシモヴィッチ
幻の移籍先:ハンブルガーSV
ミュンヘンに生まれたミシモビッチは、バイエルンのタレントだった。2000年、ユースクラブからミュンヘンのセカンドチームに加入したが、2004年ボーフムに移籍した。
ニュルンベルクからヴォルフスブルクに加入したのは2008年。その1年後王者になった。その9年前、HSVがこのボスニア人と契約する可能性があったのだ。だが、当時彼の体重が重かったことから移籍には至らなかったと言われている。
Getty Imagesアンドリー・シェフチェンコ
幻の移籍先:ウェスト・ハム
現在43歳のシェフチェンコがユース時代に所属したディナモ・キエフを離れたのは23歳の頃。だが、その4年も前(1995年)に、プレミアリーグのウェスト・ハムに移籍する可能性があったというのだ。
ハマーズの当時の監督ハリー・レドナップがのちに明かした。シェフチェンコは数日間練習に参加するため島を訪れていたのだという。だが、100万ユーロ(約1億2500万円)付近の移籍金を要求していたことから交渉は破談に。一方、1999年にミランは2400万ユーロ(約30億円)の移籍金を支払っている。
Gettyズラタン・イブラヒモヴィッチ
幻の移籍先:アーセナル
16歳の時、イブラヒモヴィッチはアーセナルの練習場を訪れていた。アーセン・ヴェンゲルは彼に9番のユニフォームを用意しており、イブラヒモビッチの名前が背中に刻まれていた。スウェーデン人は袖を通すところまで行ったという。
しかし、ここで重大な動きがあった。ヴェンゲルはチーム練習に参加するようイブラヒモヴィッチに促した。だが、スウェーデン人は「ズラタンはいかなるテスト練習にも参加しない。俺を知っているか、そうでないか、それだけだ」と答えたのだとか。
Gettyギャレス・ベイル
幻の移籍先:バーミンガム・シティ、ハンブルガーSV
バーミンガムは2007年からカーソン・ユン(楊家誠)の手に渡っている。この香港人実業家は2009年、4000万ポンド(約56億円)を移籍金としてチームに支給した。獲得を要望した選手のうちのひとりが、ギャレス・ベイルであった。
このウェールズ人のトッテナムでの滑り出しは低調だった。サウサンプトンからスパーズに移籍してから2年が経ち、ベイルはすでに移籍を視野に入れていた。期限付き移籍も目前であった。しかしその瞬間は訪れなかった。ベイルはトッテナムで花を咲かせたのだ。
2009年にはバーミンガムへの移籍が目前であったが、ベイルのトッテナムでのキャリアが危機に瀕していたことはそれが初めてではなかった。スパーズの監督マルティン・ヨルは2008年に退任を余儀なくされたが、これがベイルにとって悪い方に働いた。
ヨルの後任であったファンデ・ラモスの下では、ベイルはシーズン終了までたった3試合にしか出場することができなかった。2008-09シーズンにHSVに雇われたヨルは後に、「スパーズはベイルを6〜700万ユーロで獲得するよう交渉してきた」と語った。しかしこの移籍も実現はしなかった。
「それほどの額を用意できなかったんだ」とヨルは語ったが、最善を尽くしたのだという。「ダニエル・レヴィに彼を借りることはできないか聞いてみたんだ。だがそれも上手く行かなかった」その後の2009-10シーズン、ベイルはラモスの後任となったレドナップの下で大活躍、トップパフォーマーとなった。
Getty Imagesリオネル・メッシ&アンドレス・イニエスタ
幻の移籍先:レンジャース
2004年、メッシとイニエスタは両者とも輝かしいキャリアのスタート地点にいた。ラ・マシアの2人の至宝がバルサでのプロ生活を自ら切り開いていったことは周知のとおりだ。
だが、当時の二人はファーストチームの一構成員にすぎなかった。レンジャースはローンで二人を獲得しようと計画していた。スコットランドでならメッシとイニエスタはたくさん試合経験を積むことができるはずだ。だが、バルサは二人のポテンシャルを見込んで、そのオファーを断ったのだった。
Gettyペップ・グアルディオラ
幻の移籍先:ウィガン・アスレティック
グアルディオラはバルサでCLタイトルを獲得し、選手として6度のリーグ優勝経験を誇る。彼がイングランドフットボール界へ好意を持っていたことは当時から知られていた。2005年にはウィガンに行きたがっていた。
すでにグアルディオラは34歳。カタールで2年間プレーしたところだった。しかしそれでもイングランドに行きたがったという。だが、ラティックス(ウィガンの愛称)はこれを拒否。「十分ではない。それだけのことだ」グアルディオラは後にこう語っている。「私は歳を取りすぎていた。実に歳を取りすぎていたんだよ!」
(C)Getty Imagesロベルト・カルロス
幻の移籍先:アストン・ヴィラ
このブラジル人は間違いなくレアル・マドリーと永遠に結ばれている。だが彼がブレイクしたのはインテルに所属していたときだ。それ以前にはブラジルでのプレー経験しかなかったロベルト・カルロスはもう少しでイングランドに移籍するところだったそうだ。
カルロスは『ザ・サン』にこう語っている。「アストン・ヴィラにもう少しのところで加入するところだった」バーミンガムも興味を示していたという。「だが上手く行かなくて、結局のちにインテルに移籍することになったんだ」
getty Imagesステヴァン・ヨヴェティッチ
幻の移籍先:ケルン
ヨヴェティッチはマンチェスター・シティ、セビージャ、インテル、モナコ、そしてケルンにも在籍しそうだった。ヨヴェティッチはすでに17歳のときケルンと契約しかかっていたが、その1年後イタリア1部のフィオレンティーナに移籍した。
ケルンへの移籍が失敗に終わったのは、EUのガイドラインが原因だった。モンテネグロは2010年以来EU加盟候補国に挙がっているが、まだ加盟していない。18歳以下のEU圏外選手はEU加盟国のクラブに加入できないという決まりがあるのだ。
Getty Imagesヨハン・クライフ
幻の移籍先:ダンバートン
聞いたことがないクラブだろうか?それも無理はない。ダンバートンは現在スコットランド3部のクラブチームなのだ。とはいえ、1980年当時はまだ2部リーグであった。クライフは当時キャリア晩年に差し掛かったところであった。33歳当時、彼はアメリカでプレーしていた。
ダンバートンがオファーしたが、このオファーはどちらかと言えば宣伝行為のようなものであったと監督のシーン・ファロンが後に打ち明けている。しかしクライフもそれを嫌ったわけではなかった。だが、スコットランドの寒冷な空気はベテランの筋肉にとってよい環境ではなかった。
Gettyクリスティアーノ・ロナウド
幻の移籍先:アーセナル
ロナウドがガナーズへと移籍しかかっていた話は、イブラヒモビッチの逸話に近いものがある。練習場を訪れ、名前の入った9番のシャツを渡された。では、なぜ交渉は破談になったのだろうか?
アーセン・ヴェンゲルによれば、スポルディング・リスボンが急に合意額よりもはるかに高い移籍金を要求したのだという。その後カルロス・ケイロスがユナイテッドにアシスタントコーチとして加入した。ロナウドはリスボン時代からケイロスのことを知っていた。そこでレッドデビルズを選んだのだ。
Getty Imagesアルフレッド・ディ・ステファノ
幻の移籍先:バルセロナ
おそらく、史上最もイカれた移籍話だろう。1953年、ディ・ステファノはバルサと契約を結んだ。それまでの特殊な状況が影響して、レアルもディ・ステファノと契約することができた。
このケースはスペイン協会の判断を待つことになった。興味深いことに、このストライカーはレアルとバルサを行ったり来たりできるということに決着した。ある時点でブラウグラーナは彼を諦め、ディ・ステファノは結局ロスブランコスに行くことになった。
(C)Getty Images欧州サッカー特集
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