一時期、アルゼンチン・サッカーの新世代の大きな希望であった男は、あっという間に有名になったと同じように、あっという間に消えた。カルロス・マリネッリは「マラドーナの再来」と呼ばれ、将来を嘱望されながら、大きすぎる期待にまったく応えられないキャリアとなった、典型的な例と言えるだろう。
1982年、ブエノスアイレス郊外のビージャ・デ・マヨで生まれたマリネッリは、アルゼンチンの有名なジュニアアカデミーに入り、最初に限って言えば、ディエゴ・マラドーナの輝かしい足跡とまったく同じ道を進んでいた。
実際わずか15歳で、マリネッリは、アルゼンチンの各年代のチームをボカ・ジュニアーズが面白いように席巻していた頃、大ブレイクを果たした。ボカは約2億円を費やして7人の若いスターと契約したが、その中にはファブリシオ・コロッチーニという名の若きディフェンダーや、フアン・ロマン・リケルメのような将来有望なゲームメイカーもいた。
しかしながら、ラ・ボンボネーラでのマリネッリのときは短かった。U-19のイギリス遠征でのプレーがミドルズブラの目に留まり、将来有望な17歳は150万ポンド(約2億2000万円)で加入することとなったのだ。
マリネッリは当時、プロデビューを目指しながら、ほんの一握りの試合にリザーブとして登録されていただけの存在。しかしプレミアリーグでの日々は「アルゼンチンの次世代のスーパースターは、スポーツ紙のセンセーショナルなコーナーで引っ張りだこだ」という状況で、口さがない噂の中で過ごすこととなる。
そしてついに1999年のボクシングデー(12月26日)、マリネッリはミドルズブラでのデビューを果たす。シェフィールドのホームで、途中出場したのだ。しかしそのシーズン、マリネッリが出場したのは、わずか2試合。2000-01シーズンはケガにたたられ、たった13試合しか出られなかった。
それでも、リバーサイドでファンたちは、アルゼンチンのウィングに依然として大きな期待を抱き続けていた。
当時の主将、ポール・インスは「カルロスは相手を怖がらせることができる」と語った。「技術的には、ファンタジスタだ。もう少し強くなる必要があるが、試合を重ねれば身についてくるだろう。彼はきっととても特別な選手になる」と、高く評価していたことも明らかとなっている。
3シーズン目、“ボロ”の期待は高まっていた。特に2001年11月、ダービー・カウンティ相手に5-1で大勝した試合で、マリネッリが初めて2得点を決めたときには。だが、夜明けは訪れなかった。クリスマスが過ぎると、マリネッリは再びトップチームから降ろされ、2003年1月、そのシーズンはたった7試合にプレーしただけで、トリノにレンタル移籍することとなる。
大一番のトリノ・ダービーでは審判を押し倒したとして、レッドカードで退場。また、マッチオフィシャルに対して、怒りの言葉を吐いている――「ユヴェントスのユニを脱げ!」と。悲しいかな、彼にとってセリエAで最も記憶に残る瞬間が、これだった。2003年11月、ミドルズブラとの契約は双方の合意をもって終了した。
マリネッリのキャリアは成功したとは言いがたかったが、彼の自尊心には何ら影響を与えなかった。
2004年が始まり、マリネッリはボカに戻って、伝説の監督カルロス・ビアンチの下でプレーすることになる。だが、2人の関係は、ほとんどピッチの外で崩壊し、マリネッリはたった3試合出場しただけで、今度はラシン・クラブへ移籍。興味深いことに、マリネッリは、ラ・ボンボネーラでの2度目の悲惨な不遇に関して、ビアンチ監督と、自分より年上のチームメイトたちの両方を非難していた。
「監督は僕に何も教えてくれなかった。話しかけてもくれなかった。何のアドバイスもくれなかったんだ」
「おそらく、チームのビックネームの誰かが、僕を追い出すために何かしたんだ。イングランドでは、いいプレーをすればポジションがもらえる。ファンと食事に出歩くのではなくね」
ラシン・クラブでの歳月が、予想どおり失望させる結果に終わった後、マリネッリは、さまよえるサッカー選手となる。トロントFCに短期間在籍した後、ポルトガル、アメリカ、コロンビア、アルゼンチン、ハンガリーと移籍を繰り返した。
スポルティング・カンザスシティでの2年は、腰を落ち着かせたと言えなくもない期間だったかもしれないが、ほとんどの時間は出場機会やゴールに恵まれることなく移籍してばかりで、移籍先のファンは、才能あるマリネッリが、それに匹敵するプロ意識をもっていないことに苛立ちを募らせていた。
そして、マリネッリのキャリアはペルーで終わった。2011年、ウニベルシダ・サン・マルティンと契約したときは、まだ28歳。ペルーの首都リマのファンは、アルゼンチン人のマリネッリに大いなる期待をかけ、背番号10のユニフォームを渡した。
しかし、在籍中のゴール数は5にとどまり、マリネッリが来る前、ペルーのリーグの4つのタイトルのうち3つを制していたウニベルシダは、彼が在籍した5年間では、1回優勝手にしただけだった。
「僕はパブロ・ビッティじゃない」と、加入時にマリネッリは言っていた。同国人のビッティは、かつて、ウニベルシダに1シーズンのみ在籍し、たちまち人気者になった選手である。2016年、マリネッリがチームを去ったとき、ファンは言うまでもなくマリネッリがビッティとは別人であることを完全に理解していた。
最終的にケガのせいでウニベルシダを去り、キャリアを終える決断をしたとき、マリネッリはまだ32歳だった。『Goal』は、この元選手の消息をたどろうとしたが、失敗した。引退してからのこの2年間、公式に発言することのほとんどなかったマリネッリは、おおよそ至福の隠居生活を送っていたのだろう。
ところが、驚くべきことに、我々は、マリネッリが代理人に転向したことを知ることとなる。ペルーのゴールキーパー、ペドロ・ガレセが、この“代理人”のクライアントとして明らかになったのだ。マリネッリは2016年、このシュートストッパーのベラクレスへの移籍交渉に関わっていたのである。
はてさて、これから先、マリネッリは自身が代理人を務める才能あるクライアントの誰かを「マラドーナの再来」と呼ぶことがあるのだろうか。一流とはほど遠く、栄冠を獲得することのなかった彼のキャリアでは、見事なまでにまっとうできなかった、この名前を。
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