4年に一度の祭典がついに開幕した。
『Goal』では、ロシア・ワールドカップ開幕に際して選手や指揮官、各国のレジェンドなどに独占インタビューを実施。今回は、セルビア出身で旧ユーゴスラビア代表(ユーゴスラビア、セルビア・モンテネグロ)として活躍したMFドラガン・ストイコビッチ氏だ。
ストイコビッチ氏は、現役時代にレッドスター・ベオグラードやマルセイユでプレーし、1994年から2001年までは名古屋グランパスに在籍。“ピクシー”の愛称で日本のファンにも親しまれ、ファンタジー溢れるプレーでJリーグのスター選手となった。また、代表では計84キャップを誇り、1990年のイタリアW杯や1998年のフランスW杯でプレー。現役引退後は、2008年から2013年まで名古屋を指揮し、現在は中国スーパーリーグの広州富力を率いている。そんなストイコビッチ氏に、Jリーグ時代やW杯での思い出、ロシアW杯を戦うセルビア代表について、『Goal』だけに語ってもらった。
■広州富力での挑戦

――広州富力での様子はいかがですか?チームの目標を教えてください。
すべて順調だよ。チームの状態が良くて満足している。今はリーグ6位につけているし、良い成績だ。去年は5位だったけど、中国のリーグは強大かつリッチでパワフルなクラブが多いから、素晴らしい結果だったと思っている。今年も同じようにしたい。来年はアジア・チャンピオンズリーグに参加できるんじゃないかな。でも、とても難しいことではあるよ。とにかく、面白くてテクニカルな試合を見せることができていて、私はとてもハッピーだ。
――アジアで仕事をするのは好きですか?それとも、たまたまそういう機会があっただけなのですか?
私個人としては、とても幸せだ。ここ中国で仕事をするチャンスを得られたんだからね。ここのサッカーは、特にここ3年で急速に進歩している。多額の投資が行われているし、偉大な選手が契約するようになった。本当に大きなチャレンジをして、面白いことにトライしているんだ。私のチームは、CSL(中国のプロサッカーリーグ)で一番いいサッカーをしていると評判なので嬉しく思っている。中国に来る前は日本にいた。6年間、名古屋で監督をしていたんだ。アジアで働くことはとても好きだよ。
――いつか、ヨーロッパのクラブで監督をするチャンスはありそうですか?例えば、選手時代に所属していたマルセイユなどはどうですか?
もちろん可能性はある。この職業には、いつでもそのような可能性があるんだ。だけど、時期を明言するのは難しい。イングランド、フランス、ベルギーのクラブと話をする機会はあった。ただ、契約には至らなかった。広州富力からのオファーが来て、私は同意した。もちろん、たぶんいつかはヨーロッパに帰るだろうね。本当のサッカーがしたいというクラブがあれば、そこへ行くよ(笑)。
■マルセイユ時代の思い出
――マルセイユの選手だったときの思い出は何ですか?
私にとってマルセイユは、当時も今もフランスサッカーの首都だ。あのクラブには特別な歴史がある。それだけでなく、ファンもとても熱くて、いつもクラブを支えてくれている。マルセイユはサッカーの街だ。それは間違いない。当時はベルナール・タピが会長で、私をチームの司令塔として選んでくれた。私はオファーを受け入れ、当時世界最強だと思ったクラブに入ったんだ。おかげでイタリアW杯に出場できた。当時、私はユヴェントス、バルサ、レアルからのオファーを受けていた。だけど、チャンピオンズリーグで勝てるチームだと思ったマルセイユを選んだ。サッカーの街だから、マルセイユを選んだんだ。正直に言うと、当時は膝軟骨にとても大きなケガをしていて、100%の力を発揮することができなかった。だけど、マルセイユはまだ私の心の中にあるよ。今でも、あのクラブが大好きなファンのひとりだ。それに、チャンピオンズリーグでの2回の決勝戦を忘れることはできない。1991年にはバーリで、レッドスター・ベオグラードに負けた。残念ながらその時の私は控えで、延長の8分間しかプレーできなかった。2年後のミュンヘンでは、ミランに勝つことができた。だけど私はケガをしていて、あの栄光の試合中にチームにいることができなかった。
――1991年に欧州王者になれていれば、あなた個人の運命は変わっていたと思いませんか?そうなっていれば、おそらくヨーロッパで違う大きな冒険ができたでしょう。
ヨーロッパについて言えばそうかもしれない。だけど1993年の八百長スキャンダルで、マルセイユはUEFAから重く罰せられた。2年間、リーグ・ドゥで戦わなければならなかったからね。同じころ、私は名古屋からオファーを受けて、Jリーグでプレーすることになった。実質的に全選手がチームを離れてしまっていた。
――ヨーロッパを離れて日本に行ったとき、あなたはまだ29歳でした。当時の決断についてはどのように考えますか?
決心したのは自分だ。私はリーグ・ドゥでプレーしたくなかった。リーグ・アンの別のフランスのクラブでもプレーしたくなかった。そんなことに興味はなかった。それに私は重いケガをしていて、長い休息と回復のための時間が多く必要だったから、ヨーロッパの他の国に行くのも難しかった。私は日本を選んだが、決断は正しかった。日本で私は、あらゆる素晴らしいことを成し遂げることができた。ヨーロッパでも同じことができたかもしれない。だけど、膝軟骨に問題があった。でも、キャリアとはそういうものだよ。私は日本でレジェンドになれて、認められたんだ。ケガのせいで日本に行くことになったけれど、日本での選手としての7年間は、私に多くのものを与えてくれた。だから、私の選択は正しかったと言える。
■決勝Tに進出した2度のW杯

――W杯には2回出場しました。個人として、チームとして、どのように評価していますか?
1990年のイタリア大会はとても美しいW杯だった。あの時のユーゴスラビアはとても強いチームだったんだ。準決勝までは行けなかったけどね。ベテラン選手と若手選手が見事に融合していた。とても面白いサッカーをしていたんだ。残念ながら、準々決勝でアルゼンチンにPK戦で負けてしまったね。私にとってあのW杯は、今でもとても特別だ。ヴェローナでのスペイン戦(決勝T1回戦)では、素晴らしいゴールを2回も決められた。忘れられないよ。
――そのスペイン戦が、あなたのキャリアにおいてベストの試合ですか?
いや、ベストではない。とてもいい試合だったけどね。準々決勝のアルゼンチン戦のほうが、私はスペイン戦よりもずっといいプレーができた。ただ、運がなかった。
――1998年のW杯は?
フランス大会は、その3年前から日本に行っていたけれど、私にとってほとんどホームだった。ただ、あの大会は私にとって最後と言えるような国際大会だった。もう34歳だったからね。1次リーグは突破した。ベスト16での相手はオランダで、我々はまたしても絶好のチャンスを逃した。ペドラグ・ミヤトヴィッチがPKを失敗して、93分にエドガー・ダーヴィッツにゴールを決められたんだ。この試合、我々はよく戦った。それでも負けてしまった。だけど、今でも良い思い出だよ。
――1990年のW杯でユーゴスラビアは決勝に進出して、優勝できる力があったと思っていましたか?
アルゼンチンに勝っていたらどうなっていたかは分からない。ただ大会中、試合ごとに強くなっていったことは事実だ。自信に満ち溢れてプレーしていた。技術的なことだけでなく、すべての面においてね。アルゼンチンを倒す力はあった。大きなチャンスがあったんだ。ただ我々が、ひとり少ない状態でプレーしていたことを忘れてはいけない。前半30分に退場者を出したんだ。それにもかかわらず、0対0で終われて、多くのチャンスを作った。あれを突破できていれば、準決勝以降、どうなっていたかは分からない。W杯を制覇していたとは、そう簡単に言えないけど、もう少しで決勝に進出できそうなところにいた。決勝に行くには実力だけでなく運も必要だ。こういう大きな大会では、運がとても重要なんだ。我々には、それほど多くの運はなかった。
――アルゼンチン戦のPK戦で失敗したことをまだ覚えていますか?時には、「あれを決めていれば……」と思うことがありますか?
いや、そんなことは思わない。当時私は、PK戦ではいつも一番に蹴っていた。ボールをもっていって、蹴る瞬間に全身でフェイントをかけた。その瞬間、GKのゴイコチェアがどちらに動くかわかった。左に行くと思った。私は足の向きを変えたんだ。200%、決められると確信したね。だがなぜか、ボールはクロスバーを叩いた。どうしてなのか、説明するのは難しい。だけど、私のすぐ後にディエゴ・マラドーナも失敗した。あの瞬間、私はマラドーナも失敗したんだから、我々は勝てると思った。我々は不運にも3人がPKを失敗した。準決勝に進出するには多すぎる失敗だった。だから負けたんだ。結局のところ、準決勝に行ける大きなチャンスを逃したわけだから、とても悲しかった。あの大会では5位になった。それでも、素晴らしい結果だ。ユーゴスラビアのサッカーを十分に示した。結局のところ、偉大な背番号10はみな、PKを失敗するものなんだよ。ミシェル・プラティニ、ロベルト・バッジョ、ジーコ、マラドーナ、そして私だね(笑)。
■伝説の“革靴”シュート
――あなたのベストゴールについてです。あなたが選手として決めたゴールではなく、監督のときに決めたゴール(2009年の横浜F・マリノス対名古屋、ピッチサイドから革靴でのボレーでネットを揺らした)が取り上げられることを、どう思いますか?
そう、あれは確か…2009年の横浜でのことだ。とんでもないことだったよ。忘れられないね。監督でゴールをあげたなんて、私ぐらいなもんだろう。それも飛距離が70m以上あったんだ。何より印象深いのは、私はあれをボレーで決めたんだ。トラップして、コントロールすることなくね。どう説明していいか分からないよ。
■現在のセルビア代表、そして自身の将来

――現在のセルビア代表について教えてください。このW杯で輝けるチャンスがあるでしょうか?どこまで勝ち進めると思いますか?
この8年間はセルビアにとって苦難の年月だった。我々は2012年からW杯でもユーロでも本大会に出場できなかった。W杯予選を突破することが何よりも重要だった。セルビアのサッカーにとって、とても重要だった。連盟も国民も待ち望んでいた。今回、我々は優勝候補筆頭のブラジルと同じ組にいる。だけど、グループ2位を確保することはできると思う。セルビア人なら誰もが、最低でもベスト16に残れることを望んでいる。そうなければ素晴らしい結果だ。
――現在のセルビア代表を率いているムラデン・クルスタイッチ監督は44歳と若いです。昨年、スラヴォルユブ・ムスリンに代わって就任しましたが、後任にはあなたの名前も取りざたされました。当時、あなたが代表監督になる可能性があったというのは本当でしょうか?
本当だ。だけど私は広州富力と契約していた。2つのことを1度にやることはできない。私はここでの日々の仕事に集中している。あの時は2ヶ月だけ代表を率いてW杯予選を戦う可能性があった。だけど、それはとても大変なことだと思った。1つの場所で忙しいのなら、その仕事に全力を注ぐべきだと思う。私には広州富力との契約があり、代表監督は無理だった。
――つまり、セルビアのサッカー連盟は、あなたに2ヶ月だけのオファーをしたのですか?
違う、違う。私たちは多くのことを話し合い、連盟は私の契約を見て、私が他の場所で仕事をしなければならない事実を知った。彼らは何とか折衷案を見いだせないか探したんだ。だけど、それは私に合わなかった。クルスタイッチは私の友人で、代表で一緒にプレーしたことがある。元選手で、経験もある。だが監督というのは、少し難しい仕事であることは事実だ。とにかく、選んだのは連盟だ。彼はいい仕事をすると思うよ。
――あなたは選手時代、セルビアのキャプテンでした。代表監督になることは、あなたの夢ですか?
さしあたり、私は広州富力のことしか考えていない。このチームとは4年契約だ。私は、自分の力のすべてをこのクラブに注いでいる。もちろん、それから先の将来がどうなるかはわからない。なるようになるさ。
インタビュー・文=ナイーム・ベネドラ/Naim Beneddra

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