--この5年間のキャリアを振り返ってください。東福岡高校から19年にJFLのFC今治(当時)に加入。翌年に昇格してJリーグに参入します。今治での4年間はどのような日々でしたか?
地獄の苦しみ…でしょうか。全部が苦しかったです。僕は頑張り過ぎてしまう癖があって、4年間、「もっとやらないと」という思いで起きてから寝るまでサッカーのために全てを捧げていました。
それでも、試合にはあまり出られなくて、自分の調子が良くても出られなくて、逆に出られていた時も結果を残せなくて…本当にきつかったです。私生活でもサッカーのことしか考えていなかったので、3、4年目は辞めようと思っていました。ただ、その中でサポーターやファンの皆さんに「頑張れ」と言ってもらえて。そのことが唯一の立ち直る原動力になっていました。
--昨シーズンで今治を契約満了となり、YS横浜に加入します。
(契約満了を聞いたときは)それこそ地獄でした。そこでYSに声をかけてもらい、絶対に成長した姿を見せようとも思いました。その思いはYSに来てから1日も忘れたことはありません。
--加入前のYS横浜への印象を教えてください。
以前からYSのことは気になっていました。星川さん(前監督)がすごく魅力的なサッカーをしていて。知人や関係者からも星川さんの指導にはポジティブな話を聞いていたんです。星川さんの下なら成長できると思い、決断しました。
--福田選手にとって、星川監督の存在は大きかったと思います。
その通りです。入ったときに「見返してやろうぜ。俺が助けになる。分からないことはなんでも聞いてくれ」と言葉をかけてくださいました。その言葉で僕は星川さんのためにすべてを捧げよう、この人と一緒に成長したいと思いました。
--星川監督により、サイドアタッカーからストライカーにコンバートされます。
元々は左のウイングバックとして起用される予定でした。練習やプレシーズンマッチでもそのポジションに配置されていたのですが、開幕を迎えてコンバートされました。スピードがあって、相手と入れ替われる力があるとの評価から、提案してもらいました。
--コンバート以降、待望のキャリア初ゴールを皮切りに、飛ぶ鳥を落とす勢いで大ブレイク。最終的には21試合で11ゴールを決めています。活躍の要因はどこにあると感じていますか?
意識の殻を破れたことだと思っています。今まで、自分にはプレー中に止まる癖がありました。ボールを受けたくて、ずっとボールに寄ってしまっていることが多かったんです。YSに入って、星川さんからスペースに走る意識をつけるように指導してもらいました。「相手の嫌なところを考えて、怖いと感じるところ、ゴールに近いところで動け。それを続けていれば絶対上に行けるから」と。そこから点を取れるようになって、相手にとって嫌な選手になることができたと思っています。
--松井選手と中里選手からはどのようなアドバイスを?
ダイさんは「俺が1番だと思ってやれ。そうすれば絶対うまくいく」とずっと言ってくれていました。ザトくんには支えてもらっていましたし、サッカーをちゃんと教わりましたね。それまではフィーリングでしかやっていなかった自分でしたが、相手を見てプレーする大事さを学びました。
--移籍が決まり、YSの選手たちへ挨拶している時に涙を流していましたね。
挨拶の後にもすごく泣いたんですよ(笑)。半年だけの在籍でしたが、このクラブが大好きでした。選手もそうですし、スタッフ、そしてサポーターも記者さんもみんな優しくて。みんなの顔が浮かんで、耐え切れませんでした…。あとは、これまでが本当に苦しかったのでやっと報われたとも思いました。そう思うのは、まだ早いかもしれませんが、ひとまずは目標にまた一歩近づけました。この5年間があるからこそ、今はもう何をしても怖くないという思いがあります。
シーズン途中というタイミングで抜けてしまうことには、本当に申し訳なく思っています。ただ、ここから自分がもっと大きくなって、YSがあったから自分があったと誇りを持って言えるようになりたいです。日本を代表してこの言葉を言えるようになるには、このタイミングでの移籍しかないと感じました。成長している姿を見せて、YSに恩返しをさせてください。