GOAL 「サッカー界は吐き気を催す場所」苦悩したエンバペが信じる“美しい世界”…最速で駆け抜けるレアル・マドリーの王への道
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(C)Getty images木霊
「エンバペ! エンバペ! エンバペ!」
レアル・マドリーの本拠地サンティアゴ・ベルナベウでは、まるでクリスティアーノ・ロナウドがいた頃のように、毎試合一人の選手名が木霊している。キリアン・エンバペが、また今日もゴールを決めたのだ。
アルダ・ギュレルのスルーパスから相手チームのDFラインを破ってシュートを決める……そう表現すれば単純だが、エンバペが見せる一連のプレーは8万人収容のスタジアムのどこから見たって力強く、迫力満点だ。
エンバペの大臀筋は100メートル走のトップアスリートと同じ質と量を誇り、100メートルを最速10.9秒で駆け抜ける(ウサイン・ボルトが保持する世界記録は9.58秒)。そして彼はフットボーラーとしての天性とも言える、極めて柔軟な足首の持ち主でもあり、独自のバランス感覚とタイミングでもって“ぶち抜く”という表現がぴったりのゴールを決めてみせる。ミドルレンジの概念が変わりそうなほど簡単に、ズドンと決まるミドルシュート含めて、マドリディスタ(マドリーサポーター)たちは彼がボールを枠内に突き刺すのを今か今かと待っている。そして実際に決まればベルナベウ、マドリーの街、ひいてはスペイン中の家庭やバルで、こんな言葉が口にされるのだ。
「なんだあのスピード……怪物か」「完全にマドリーのエースだな」「個人技もすごいが団結心もリーダーシップも素晴らしい」「エンバペこそが世界最高だ」
だが、3年前を振り返ってみれば、彼らの言葉はそれこそ180度違っていた。2022年5月、マドリー加入間近とされていたエンバペだが、最終的にパリ・サンジェルマン(PSG)との契約を2024年まで延長。当時、マドリディスタたちは彼の行動を許さなかった。
「あいつはマドリーの敵」「もう絶対にいらない」「ヤツは金の奴隷だ」
同月、マドリーは通算14回目のチャンピオンズリーグ優勝を果たしたが、祝賀会場のシベーレス広場でも「エンバペはクソ野郎!」というチャントが何度となく歌われていた。
現金なものだが、フットボールはやはり“今、この時”しかないのだ。そしてエンバペも、今、憧れのレアル・マドリーでプレーする喜びを噛み締めている。彼は「フットボールの世界は吐き気を催す場所」と考えるまで苦悩し、ここまでたどり着いたのだった。
(C)Getty images交わらない道
パリ郊外のボンディで育ったエンバペは、ジネディーヌ・ジダン、クリスティアーノに憧れの眼差しを向け、彼らのようにレアル・マドリーでプレーすることを夢見ていた。10歳の頃、彼の叔父ピエール・エンバペからベルナベウの模型をプレゼントされた際には、家族に向かって「いつの日か、僕が皆をベルナベウに連れて行くんだ」と誓っている。
だが、エンバペとマドリーの道は簡単には重ならなかった。2012年、クレールフォンテーヌ国立養成所で存在感を放っていた当時14歳のエンバペは、マドリーの練習に招かれることになり、憧れのジダン、クリスティアーノとも対面を果たした。だが急激な環境の変化に不安があったたため、マドリーの下部組織には加わらずパリへと戻っている。
再び両者の距離が縮まったのは、エンバペがモナコでプレーしていた2017年のこと。マドリーは1億8000万ユーロを提示してモナコと合意したものの、エンバペは故郷のクラブであるPSG移籍を選択。当時のマドリーにガレス・ベイル、カリム・ベンゼマ、クリスティアーノの“BBC”トリオがいたため、出場機会が手にできないことを恐れたためだ。エンバペにとってマドリーは、キャリアの頂点に立ったときにプレーすべきクラブであり、だからこそ、すべての準備が整うのを待つことにしたのである。
そして2022年、エンバペとマドリーの意思はついに重なる。23歳で世界最高の選手の一人としての地位を確立したエンバペは、今がマドリーに入団するときと確信し、マドリーも契約内容を細部まで詰めていた。クリスティアーノがマンチェスター・ユナイテッドからマドリーに加入したのは24歳のときで、憧れの選手よりも1年早く憧れのクラブへ移籍を果たす瞬間は、すぐそこまで迫っていた。
だが先述の通り、彼はマドリディスタたちの期待に反して、PSGと契約延長を結んだ。背景にあったのは、代理人も務める母親ファイザ・ラマリの説得だ。
エンバペのマドリー移籍は、フランス大統領マクロンやカタール国家をも巻き込む形で阻止すべきオペレーションとなり、ファイザ・ラマリも息子の慰留に努めた。「テレビ放映権の問題が生じる」「PSGがクラブスタッフを解雇することになる」「今年はワールドカップがあるから移籍はその後で」などと説得して……。もちろん、そこには莫大な金銭的恩恵もあったろう。 ファイザ・ラマリは「クラブは高い金を支払った選手のことをもっと大切に扱う」を行動規範とする人物であり、だからこそマドリーですら比較にならない巨額を支払えるPSG残留が、息子のためには最善と考えたのかもしれない。
(C)Getty images後悔
だがエンバペ本人は、スポーツ面のみを考慮して下したわけではない、自身の心に背く決断に苦しんだ。アスリートとしての能力も非常に高い、現代フットボールの代表的選手たるエンバペだが、現代フットボールのもう一つの側面である“過剰なマネーゲーム化”にその心を蝕まれた。彼が最近のインタビューで語った内容が、傷の深さを物語っている。
「フットボールはこういうものだとしか言いようがない。スタジアムに赴く人たちは、スペクタクルなショーだけしか見なくて済む、幸運な人たちだと言いたくなる。その舞台裏で何が起こっているのかは知らなくていいんだからね」
「誠実に言わせてもらうが、このスポーツへの情熱がなければ、フットボール界は吐き気を催す場所でしかない。ずっと前から、そう感じているよ」(フランス『レキップ』より)
「PSGとの契約延長には、周囲の状況含めて色々なことがあった。大きな決断、本当に難しい決断だったけれど……僕は後悔を感じないようにしている」
「キャリアの中では困難な決断を下さなければいけないときがある。自分がしたのはまさにそれで、そのためにPSGの歴代最多得点選手になれたという側面もある……とにかく、僕は良いことしか思い出さないようにしている。でも同じような経験は、誰にもしてほしくないとも思っているよ」(スペイン『セクスタ』より)
(C)Getty images光
それでも、最後には白い光が差した。PSGとの契約延長から2年を経て、エンバペは子供の頃に憧れた景色を、ついに現実のものとしている。2024年7月14日、ベルナベウで行われたレアル・マドリーの入団セレモニー。彼はスタジアムに集まった8万人の観客に向けて、こう語りかけたのだった。
「信じられない気持ちで一杯だ。何年もレアル・マドリーでプレーすることを夢見てきたが、今日、僕は本当にここにいる。幸せだ。つらいこともあったけど、幸せだよ。僕はマドリーの選手なんだ。今、自分はまた違う夢を見ている。このクラブと同じ高みにまで、世界最高まで到達することだ。夢見たクラブで、新たな夢を叶えたいと思う」
エンバペはマドリー加入シーズンの前半戦こそ、うまく立ち回ろうとし過ぎて空回ったが、スランプ脱出後に突き抜けた。昨季は公式戦58試合でキャリア最高タイとなる44得点を記録し、またラ・リーガでは34試合で31得点を決めてゴールデンシュー(欧州得点王)を獲得。今年の10月31日にベルナベウで行われたゴールデンシュー授賞式では笑顔を絶やさず、「僕が子供の頃からマドリーを夢見ていたことは知っていたはずだ。ずっといられたらいいね」と話した。入団から1年以上を経てもなお、彼は「夢」という言葉を使い続ける。
(C)Getty images夢
フットボール界は、純粋や素直なだけの世界では決してない。エンバペはそのことを誰よりも痛感した選手だが、白いユニフォームを着てプレーする彼に、悪意や邪気に染まった様子はない。彼は苦悩と成熟の果てに、素直に、純粋に情熱を燃やしてマドリーの王になろうとしている。その活躍は、美しいフットボールの世界が、彼の中にあるからこそだ。
ベルナベウはそんな彼の世界にどっぷりと浸っている。マドリーがボールを奪われ、ハイプレスで即座にそれを奪い返して仕掛ける二次攻撃……スペースを得たエンバペは、もう止められない。短距離走者のようなスプリントから、柔らかな足首を生かしたシュートでネットを揺らし、地鳴りのような歓声を呼び起こす。その直後、記者席の前にいる観客の何人かは、こちらの方に顔を向けて「どうだ?“俺たちのエンバペ”の実力は?」とでも言わんばかりの表情を見せてくる。エンバペはすでに、マドリーの誇るべきエースだ。
エンバペより1歳早くマドリーに加入したクリスティアーノが、在籍9シーズンで残した記録は438試合451得点とまさに圧倒的だった。しかし加入後45試合の得点数では、クリスティアーノが43得点、エンバペが44得点とフランス人FWが上回っている。新たな伝説は、すでに始まっているのかもしれない。ゆえにマドリディスタたちは覚悟を固めつつある。エンバペが愛着あるクリスティアーノの記録に迫っていくとしても、喜んで受け入れる覚悟を。それが意味するところは、エンバペの凄みであり、マドリーの成功である。
今日もベルナベウでは「エンバペ! エンバペ! エンバペ!」という、極めてシンプルなチャントが木霊する。夢の延長線上を、クリスティアーノの延長線上を圧倒的なスピードで駆け抜ける少年は、マドリーの、マドリディスタの夢そのものだ。
