取材・文=江間慎一郎
GOAL
(C)Getty Images憎悪と愛情
「幸せだった場所に戻ろうとしてはいけない」
アトレティコ・デ・マドリーの創立100周年記念イムノも手掛けたスペインの人気歌手ホアキン・サビーナは、2002年に発表した「街の魚たち(Peces de Ciudad)」でそんなことを歌った。
その歌詞は、おそらく正しい。これ以上ない幸福を感じた場所に戻ってきても、かつての幸せを取り戻すことは難しい。恋愛でも、フットボールでも……心に傷を負う別れがあったならば、なおさらだ。
それでもアントワーヌ・グリーズマンは、アトレティコに戻ってきた。
彼は復帰当初こそサポーターから憎悪の感情を向けられ、かつて幸せだった場所の変貌ぶりを身をもって実感している。だが、その後に血と汗を流すことで一つの例外を生み出した。
メトロポリターノでは現在、グリーズマンのチャントが毎試合のように響き渡り、彼はしつこいくらいエンブレムにキスをしながら、その愛情に返答し続けている。
アトレティコは彼にとって、以前と同じくらい、いや、もしかしたらそれ以上に幸せな場所になったのだ。
Getty Images裏切り者
グリーズマンは2014年夏に下部組織から過ごしたレアル・ソシエダを離れ、アトレティコに移籍。加入当初こそディエゴ・シメオネのプレー哲学への適応に苦しんだが、エースとなるのに時間はかからなかった。フランス代表での活躍もあって2016年、2018年にバロンドール3位にも輝いた彼は、アトレティコサポーターにとっては愛しくてたまらない、まさに自慢の選手だった。
しかしフットボールヒエラルキーの掟通り、グリーズマンはアトレティコより大きなクラブからの興味の対象となり、2017-18シーズンにバルセロナ移籍が騒がれることになった。同シーズンの終わりにはアトレティコ残留を選択し、わざわざ動画を公開してその旨を大々的に発表したフランス人FWだったが、2019年夏には結局カタルーニャ行きを決断している。
「父親から、電車(チャンス)は一度だけやって来るものではないと教えられていた。僕は新しい挑戦に臨む。僕とバルサの道はここで交わるのさ」
グリーズマンがバルセロナ入団時に発したコメントは、2シーズンにわたって続いたエースの移籍劇に焦燥し切っていたアトレティコサポーターの神経を激しく逆撫でしている。赤白の信奉者たちは、彼に“裏切り者”のレッテルを貼ったのだった。
(C)Getty Imagesピッチ上の謝罪
「ここで新しいスタイルを学びたい。新しいプレー哲学を学んで成長したいんだ」。そう息巻いたグリーズマンだが、バルセロナでの挑戦は困難なものとなった。その戦術理解力に裏打ちされたオフ・ザ・ボールの動きなど、持ち味の一端は発揮したものの、リオネル・メッシ中心のプレーシステムでアトレティコ時代ほどの輝きを放てず。移籍金1億2000万ユーロの価値はないと、常に批判がつきまとった。
そしてバルセロナで2シーズンを過ごした後の2021年夏、グリーズマンはそのユニフォームの色を「青とえんじ」から「赤と白」に戻している。財政難のバルセロナが人件費削減に迫られ、彼らとアトレティコと選手本人の意向が一致。年俸を大きく引き下げて、2年レンタルでの古巣復帰が決まった。
とはいえ、いくらシメオネがチームに必要だと考えたとしても、いくらグリーズマンが幸せだった場所に戻りたいと願ったとしても、サポーターにも(傷つけられた)プライドがある。アトレティコこそが一番だと信じて止まない彼らにしてみれば、一度自分たちを裏切った選手の帰還に「一体どの面下げて帰ってきた?」としか思えなかった。
こうしてグリーズマンは、憎悪の感情を向けられる対象となった。メトロポリターノの場内アナウンスが試合前にアトレティコの面々を紹介する際、サポーターは誰かの名前が呼ばれる度に掛け声を発するが、グリーズマンの名には容赦無くブーイングを浴びせた。交代で出場してもベンチに下がっても同じことが起こり、元エースは指笛を吹くべき“敵”として捉えられたのだった。
だがグリーズマンは、かつてあった幸せを取り戻すことをあきらめなかった。
「僕はアトレティコのファンを傷つけた。彼らはすべてを与えてくれたが、それにもかかわらず僕はクラブを出て行ってしまった。そのときにはそうすべきだと感じていたが、自分もファンだったら同じように怒っていただろう。彼らの憤りはもっともだ」
「でも、僕は状況を変えるために努力すると決意した。彼らに謝るんだったら、ピッチ上のプレーでそうするって決めたんだよ」
かつての幸せを取り戻すためには、おそらく、その幸せをつかんだとき以上の努力が必要だ。彼がピッチ上でした謝罪は、まさにそれだった。
(C)Getty Images氷解
状況が好転し始めたのは、復帰2年目の2022-23シーズンのこと。シーズン序盤、アトレティコは出場時間での買い取り義務発生を防ぐため、彼の1試合での起用時間をわずか30分に制限。人件費削減のためにどうしてもグリーズマンを放出したいバルセロナとの駆け引きだったが、これにより本来の買い取り価格4000万ユーロではなく、半額の2000万ユーロで完全移籍を成立させた。
「出場時間の制限? 僕はここにいられることを感謝している。唯一望んでいること、それはアトレティコ、チョロ(シメオネ)、ファンのために全力を尽くすことにほかならない」
グリーズマンはこうした言動でサポーターの心を氷解させていき、カタール・ワールドカップ終了後ついにエースの座を取り戻している。アトレティコは同シーズンの前半戦、チャンピオンズリーグ(CL)のグループステージで敗退するなど深刻な不調に喘いでいたが、後半戦に入るとグリーズマンがフランス代表で見せたような、ピッチのあらゆるところに顔を出すプレースタイルでチームを先導。リーガ15得点16アシスト(その前のシーズンは3得点4アシスト)という驚異的な活躍で、一時期危ぶまれていたCL出場権獲得に貢献している。
そして今季のグリーズマンは、32歳(来年3月で33歳)にしてキャリアの最盛期を迎えた。ピッチのあらゆる場所でプレーする選手のことをスペイン語では“トドカンピスタ”と言うが、今の彼はまさしくそれを体現している。ピッチ上の彼はとにかく何でもする。裏切る以外の行動を、幸せを取り戻すための行動をすべて、言葉通りすべて行っているのだ。
あらゆるところでパスを受けてパスを出し、盟友コケと何度もパス交換してリズムをつくり、効果的なサイドチェンジをし、運ぶドリブルも突破するドリブルもし、クロスを送り、スルーパスを出し、自らもライン間でパスを受け、DFラインを抜け出し、ワン・ツーのどちらの役も務め、第3の動きをさせて自らもして、モラタのシュートのために囮となり、反対に自分がフィニッシャーとなって左足でも右足でもヘディングでもバイシクルでもオーバーヘッドでもシュートを打ち、ハイプレスを仕掛け、中盤でもプレスを仕掛け、オーバーラップしたサイドバックの穴を埋め、中央の守りが薄ければCBにもなり、走って、走って、走って、チームを勝たせて、勝たせて、また勝たせて、アトレティコのエンブレムにキスをしてキスをしてキスをしてキスをして、そして、キスをする……。
私たちが目にしている今のグリーズマンは、フットボーラーの一つの完成形である。
「プレーの良し悪しは年齢を重ねて分かってくるものなんだ。若いときにはチームが必要としていることや、どこから相手に打撃を与えられるかなんて考えられない。でも、歳を取ればそうしたディテールにもっと気を配ることになるんだよ。今の僕は試合展開と相手、味方の動きを読むことが何より好きだ。試合に勝つためにね」
今季好調を維持するアトレティコは、どこまでも献身的かつ効果的にプレーする背番号7に支えられている。そんな彼の姿が、サポーターの心を打たないわけがない。ブーイングが起こったのはもう遠い過去のこととなった。今、メトロポリターノで彼に送られるものは、全スタンドからのスタンディングオベーションと、「アントワーヌ・グリーズマン!」のチャントだけだ。
(C)Getty Images反逆の集団
「アトレティコで欧州でのキャリアを終えたい。僕はここで喜びを噛み締めているんだ。このまま、ずっとアトレティでプレーしていたいんだよ」
「自分の収めている結果には満足している。今、このときが楽しくて仕方がないのさ。僕はチームメートを、ファンを幸せにするためにできる限りのことをしている。僕も幸せだよ。ピッチに立つ自分を見ていれば、分かるだろう?」
「幸せだった場所に戻ろうとしてはいけない」。偉大なるサビーナが記した歌詞は、やはり正しい。
だがグリーズマンは間違いを犯し、真の幸せに気づき、たとえ逆境に陥ろうとも努力をして、かつてあった幸せ、もしくは、それ以上の幸せを手にした。それもまた、反逆の集団たるアトレティコらしい物語なのかもしれない。
今季18試合で13得点を決めるなど決定力も増しているグリーズマンは、ルイス・アラゴネスが保持するクラブ最多得点記録の173ゴールまで、あと3点に迫っている。アトレティコのサポーターは、“裏切り者”であることをプレーで裏切った彼が歴代最多得点者になることを歓迎するだろう。メトロポリターノ近くのバルやSNSでは、こんな声が聞こえてくるのだから。
「グリーズマンが幸せならば、私たちだって幸せなんだ」
取材・文=江間慎一郎



