Hatem Ben Arfa Getty/GOAL

「サッカー史に残る才能の無駄遣い」元フランス代表MFハテム・ベン・アルファは何を間違えたのか

ハテム・ベン・アルファは2016年、かつて将来有望とみられていたキャリアを再生すべくパリ・サンジェルマンに加入した。5年後、わずか30試合にしか出場できず、3得点しかできなかった。ワールドクラスの才能が安売りの対象になってしまったわけだが、彼が頂点から滑り落ちた理由ははっきりしている。

ベン・アルファの全盛期のプレーは今見ても印象的で、サッカーファンから「巷の人々は忘れない」という賛辞を与えられている。そうしたゴールは印象的ではあるが、この攻撃的ミッドフィルダーの美化しすぎた一面を描いている。ベン・アルファは忘れられてはいるが、とてつもない才能の持ち主であった。かつて彼の代理人はこう言った。「とんでもない才能の無駄遣いだ。21世紀のサッカー界で最大の無駄遣いかもしれない」

かつて自分で自分のことを繊細さと衝動性が同じくらい同居していると言っていたベン・アルファは、今や素晴らしい才能を授けられた選手がこんなにも簡単に没落してしまうことを思い起こさせる存在となっている。

もちろん、事はそう単純ではない。ベン・アルファは一直線に落ちぶれたわけではない。その程度の才能ではなかった。むしろ彼のキャリアにはいくつもの明るい兆しが見えていた。いずれ最高の選手になるだろうと予想されていた選手だったのだ。それなのに、この上なくドラマチックな環境の中で最高の選手になりそこなってしまったのである。

  • Hatem Ben Arfa LyonGetty

    「他の選手たちとはレベルが違った」

    ベン・アルファはリヨンのトップチームでデビューを飾ったが、才能あふれる選手が大勢いたリヨンのなかでも、当時18歳のカリム・ベンゼマと並んで将来性豊かな2人のうちのひとりとみなされていた。さらに言えば、ベン・アルファは長い間、のちにサンティアゴ・ベルナベウのスターとなったベンゼマよりも間違いなく才能ある選手だと言われていたのである。

    「彼は他の選手たちとはレベルが違った。みんなが彼に夢中になっていた」と、かつてニューカッスルで上級リクルーティング・アドバイザーをしていたポール・モンゴメリは『The Athleticに語っている。

    ベン・アルファの才能と技術の高さは当初から目立っており、10代の頃、相手DFを見事に交わしてボールが足に吸いついているかのようにスペースを疾走していた。ほどなく、ネットの世界にセンセーションを巻き起こすようなゴールを決めるようになった。最初の大きな衝撃は2007-08シーズンのチャンピオンズリーグのシュトゥットガルト戦で挙げたゴールで、サイドを駆けあがり、2人のディフェンダーを置き去りにし、ありえない角度からのシュートをゴールに叩きこんだのだった。リーグ・アンでもトゥールーズの守備の隙間をぬって進み、ゴール隅にボールを流しこんだ。2週間後のロリアン戦でも、30ヤード(約27メートル)のシュートをズバンと決めて脚光を浴びた。

    このシーズン、ベン・アルファは8得点6アシストを記録して時代の寵児となり、ヨーロッパのトップチームからの誘いもあった。そんな中、当時としては高額の1200万ユーロ(約18億円)でリーグ・アンのライバルチームであるマルセイユに移籍した。

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  • Hatem Ben Arfa Marseille PSG Ligue 1Getty

    「マルセイユには二度と戻らない」

    だが、そこからトラブルが始まった。ベン・アルファはリヨン時代にセンターバックのセバスティアン・スキラシと練習場で喧嘩をした時に見せたように、強烈な性格の持ち主であった。2人は練習場で取っ組み合いや激しい言葉のやり取りをした後、更衣室でも爆発した。その次の試合でベン・アルファはベンチを温めることとなった一方、スキラシは途中出場したのであった。

    これは一度きりのことではなかった。ベン・アルファはリヨンに大した恩恵を残さなかった。何度もリーグ優勝を果たしたことのあるリヨンは、ベン・アルファの移籍前に小クラブと呼ばれるようになっていた。ベン・アルファのほうもマルセイユに来て2週間後には苦境に陥った。リヴァプールからやってきたストライカーのジブリル・シセと練習中に喧嘩をしたのだ。フランス代表でもあったシセは、すぐさまサンダーランドにレンタル移籍に出されることとなる。

    だが、ピッチの上でのベン・アルファは観客を魅了した。最初の11試合で6ゴールを挙げ、たちまちマルセイユが支払ったカネに見合う選手であることを証明し、自身をめぐる論争を黙らせた。それでも、すぐに彼の性格がその才能に重くのしかかるようになる。再び、今度はチャンピオンズリーグのリヴァプール戦の前にモデスト・エムバミと喧嘩をしたのである。その後のPSG戦ではケガを理由にウォーミングアップを拒否した。練習試合でミスを連発し、メディアを通じて監督を批判し、ときには大っぴらにチームメイトへのパスを拒んだ。だが、その間でも魔法のような瞬間を生みだし、ゴールやアシストを量産。見事なドリブルとともにハイライト動画の常連となった。

    だが、ほどなく別の複数の事件が起こった。そして、マルセイユでプレーすることに意欲を失ったベン・アルファはストライキを起こした。

    「マルセイユには二度と戻らない」と、ベン・アルファはレキップ紙に語った。「もう終わりだ。今シーズンはプレーしない。俺にだってプライドがある。尊厳がある。俺はただの間に合わせじゃない」

  • HATEM BEN ARFA NEWCASTLEGetty Images

    「恐ろしいほど素晴らしかった」

    2005年初頭、ニューカッスルの中にベン・アルファを買いたがった人たちがいた。The Athleticによると、モンゴメリは当時15歳だったベン・アルファと契約するようクラブに頼んだという。その時、彼は50万ポンド(約9000万円)で買えたが、リヨンとプロ契約を結んでいなかった。だが、フランスで天才と呼ばれていたにも関わらず、ニューキャッスルの経営陣は彼の噂を聞いたことがなかった。

    8年後、ニューカッスルは5倍の金額を払い、性格に関して問題視されていた23歳のベン・アルファを買い取りオプションつきのレンタルで獲得。ベン・アルファは2年前のリヨンの時と同じように楽し気にマルセイユを去ったが、どうして出ていくのかについては曖昧に説明した。

    「クラブのスタッフは俺なんかどうでもいいんだ。ニューカッスルからのオファーを受けないなら、俺は自分のキャリアを保留にするつもりだった。俺はただの汚れた洗濯物じゃないし、ク○でもない」

    こうして、ベン・アルファには素晴らしい才能があるにせよ、カササギは巨大なリスクを負うことになる。その恐れはすぐに、完全なデビューの舞台での得点で消え去った。ベン・アルファはグディソン・パークでの1対0で勝った試合で、30ヤード(約27メートル)のシュートを決め、ホームで名乗りをあげたのだった。

    その後の有名な事件も、それがもし彼のデビューシーズンが10月に終わってしまうこととなった脚の複雑骨折だけが原因だったのなら二度と起こらなかっただろう。翌年はベン・アルファにとって、プロとしておそらく最高の年だった。彼のカリスマ的ヒーロー像を強固なものにするシーズンだったのだ。5得点6アシストを記録し、ニューカッスルをまさかのイングランドのトップリーグで5位に押しあげたのである。

    「彼は恐ろしいほど素晴らしかった。誰もが彼に魅了されるという噂は聞いていたが、それをすぐに目の当たりにしたんだ。彼には生まれつきの才能と嗅覚があった」と、元マグパイズのMFジェームズ・パーチは回想する。

    そのシーズンにはニューキャッスルのチームとしてのパフォーマンスやデンバ・バのリーグ戦16得点以上に記憶されることがある。それは、プレミアリーグの伝説に刻まれることとなる、ある「走り」である。それは、おそらくそれまで誰も見たことのないものであった。ベン・アルファがボルトンのディフェンダーの周りを半身の内側でクルリと回り、猛然と走りだしたのである。タックルを避け、別のディフェンダーが突っこんでくるのをボールをふわっと蹴りあげて交わすと、ゴールキーパーがどうしようもないフィニッシュを決めた。それは今でもプレミアリーグ史上最高のゴールのひとつであり、YouTubeでは派手なタイトルをつけて編集され、公開されている。

    そしてそれがベン・アルファのイングランドでの絶頂だった。まだ24歳だったが、イングランドでの最後の3年間はチームメイトとも監督ともうまくやることができなかった。ある時、クラブのキャプテンだったファブリシオ・コロッチーニが当時のアラン・パーデュー監督のもとに行き、ベン・アルファをベンチに座らせたままにするよう頼んだが、それは彼が先発するならプレーしたくないと残りのチームメイトたちが言う恐れがあったためだった。

    事態の収束に向け、ベン・アルファはハル・シティにレンタル移籍で出された。のちに彼はその時の自分はマイク・アシュリーがオーナーだったマグパイズが弱体化する中での「囚人」だったと言っている。2014年末、ニューキャッスルは契約満了の6週間前にベン・アルファとの契約を終了させた。

  • Valere Germain Hatem Ben Arfa Nice Nantes Ligue 1 03102015Gettyimages

    「10分で俺の心は決まった」

    だが、ベン・アルファほどの選手が、そう簡単に消え去ることはなかった。2015年1月、依然として全盛期にあったベン・アルファはフリーでニースと契約した。ベン・アルファは当時、順位表の中位にいたニースのために他のチームからのオファーをすべて断ったと言っていた。ニューカッスルで練習でのやる気のなさとひどいプレーのせいでチームメイトからたびたび批判されていたベン・アルファは、もう一度スポットライトを浴びたいと思っていた。新加入選手紹介の記者会見で、そうはっきりと言っている。

    「10分で俺の心は決まった。もしあの時レアル・マドリーが俺を呼んだとしても、俺の心は決まっていた」

    だが、彼はすぐにピッチに戻れたわけではなかった。同じシーズン中に3度クラブを変えてならないというUEFAの規則により、ベン・アルファはそのシーズンの残りをプレーすることができなかった。6カ月間サッカーができなかったことは、彼のキャリアに奇跡をもたらしたかに見える。翌シーズン、ベン・アルファはニースで17得点6アシストという大活躍をし、チームをヨーロッパ・リーグ出場に導いた。

    そして、ハイライト動画は予想どおり華々しかった。素早い股抜き、鋭いターン、造作もないシュート。ベン・アルファは夢だったポジションに立ち、動きまわって創造性を発揮できるように要求した。最終的に、彼はチームの紛れもない中心選手となった。自由に動きまわれさえすれば、どんなことができるのか、正確に示したのである。これにより、まさかのフランス代表復帰を果たし、4年間控え選手として名を連ねた。ただし、ユーロ2016の決勝に進出したフランス代表にはいなかった。

  • Hatem Ben Arfa PSG 28082016Getty

    「監督は君を必要としていない」

    おそらく、ベン・アルファにとってはニースに居つづけられるのが最高だったろう。発展途上のチームだし、ヨーロッパでサッカーができる。中国の企業から資金提供を受け、名監督と名高いリュシアン・ファーヴル監督に率いられ、将来性豊かな若手選手も大勢いた。ベン・アルファが残留していたら、いずれチャンピオンズリーグ出場の可能性もあったかもしれない。

    だが、ベン・アルファは出て行った。明らかにかなり早い段階からあった話だった。2016年2月の段階で早くもPSGが関心を示していると報道され、ベン・アルファはその誘いに乗ったのだ。

    「PSGへのドアはまだ開いている」と、フランスのサッカー雑誌Onze Mondialでベン・アルファは語っている。

    「それを言うなら、すべてのクラブに対してドアは開いている。俺は誰に対してもドアを閉めてはいない」

    その夏、PSGはズラタン・イブラヒモヴィッチが出ていくことになっており、攻撃陣にパンチ力を加える必要があった。ベン・アルファは移籍したがっており、誰にとっても好都合だった。こうして、フランスの首都での動乱の2年間が始まった。ベン・アルファはそもそも、当時のウナイ・エメリ監督とは合わないと思われた。エメリは練習でも試合でも規律に厳しかった。選手たちは監督の戦術に従い、ハードワークすることが求められた。ゴール前の嗅覚が阻害されることはなかったが、ベン・アルファの走りやフェイントといった特徴は概して反対されがちなものであった。

    PSGは問題が起こる前に対処しようとしていた。ベン・アルファとの契約には、「倫理的手当」なる報奨金が付け加えられていたのだ。レキップ紙によると、遅刻せず練習に来るなど規律に問題なくクラブで好印象を保てば、月に6万5000ポンド(約118万円)がもらえることになっていたという。

    だが、こうした手当もチームへの不適合をカバーする役には立たなかった。ベン・アルファはあっという間に追放された。プレシーズンに不調が露呈した後、PSGでの最初の数カ月はおとなしくしていたようだったが、練習中にボールを味方にパスしないことでエメリ監督に繰り返し叱られるようになっていた。1月になるまでに、フットボール・ディレクターのパトリック・クライファートからチームを去るように言われたのだった。

    「監督は君を必要としていない」とクライファートが言ったと、フランス・フットボール紙が報じている。「君のためにフェネルバフチェというチームを見つけておいた。トルコ・リーグは良いリーグだよ」

    だが、ベン・アルファは移籍を拒否し、個人的な反乱を起こしてPSGの更衣室を引っ掻き回した。チームメイトの前でエメリ監督のフランス語をバカにしたり、カタールの王族の前でクラブの会長であるナセル・アル=ケライフィについて、たちの悪い冗談を飛ばしたりした。そして、PSGではもう二度とプレーさせないと言われた後、ベン・アルファは新しく建てられたばかりの最先端の練習施設の外でケバブを食べているところを目撃される。まったくの嫌がらせだった。

  • Hatem Ben Arfa Lille OSC LOSCGetty Images

    一線から離れる…

    2018年に契約が満了するとPSGは更新を拒んだ。ただちにベン・アルファは不当な扱いをされたとクラブを訴えた。その直後、ベン・アルファはレンヌに移籍。PSG相手のフランス・カップの決勝に出場し、PK戦の末に勝利したのだった。

    タイムアップの瞬間、ベン・アルファは喝采を叫んだ。アル=ケライフィはベン・アルファとの握手を拒み、ベン・アルファはメディアの前で古巣のPSGにジャブを放って締めくくった。PSGがチャンピオンズリーグでバルセロナに負けた、あの有名な敗戦を引き合いに出して意地の悪いコメントをしたのだ。

    「我々レンヌはレモンターダ(逆転劇)を行なった。そういえばPSGは経験済みだったね」

    その後、ベン・アルファはヨーロッパを転々とする。レアル・バジャドリードに短期間いた後、ボルドーやリールに所属し、3シーズンで36試合に出場した。そして、ご存じのとおり最後の失態を起こす。リールがボルドーに0対0で引き分けた後、当時のリールの監督、ジョスリン・グヴェベネックを「ひねくれもの」と呼び、批判したのだ。2022年4月2日のことだった。それ以降、ベン・アルファはプロの試合でプレーしていない。

    今でもベン・アルファのことは、たびたび話題になる。直近では5月にリヨンの伝説的会長ジャン=ミシェル・オラスの引退にあたって、彼をののしった。フランスの新しいスターにしてチェルシーへの移籍が噂されるラヤン・チェルキと、どちらが優れていて恐ろしいか、比較されてもいる。

    さらにベン・アルファは、世間ばなれしたレジェンドでありつづけ、SNSにセンセーションを巻き起こしている。今でもツイッターをスクロールすれば、絶妙なプレーや滑らかなフェイントを見ることができる。ピッチ上での最高の瞬間が編集された動画の視聴回数は数百万回にも及ぶ。ニューカッスルのファンは、彼が去ってからもずっと彼のチャントを歌っていた。

    監督やチームメイトにとって、彼は二極化した痛みだった。だが、ファンにとっては純粋に喜びだった。決して最高潮の姿を見せることのなかった選手であり、それができなかった故に永遠のヒーローなのだ。