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「ビューティフル・ゲーム」復権。モウリーニョとアンチ・フットボールの行方は?

昨シーズン終盤、セリエAのエラス・ヴェローナは、マルカントニオ・ベンテゴディ・スタジオでボローニャと対戦した。ホームのヴェローナは防戦一方の試合を2-1でかろうじて勝ち、降格圏への陥落を阻止した。この試合、ヴェローナは守備重視で、チャンスがあるときでも時間を使うプレーに終始したが、仕方のないことではあった。

だが、ボローニャのチアゴ・モッタ監督は激怒した。「今日の試合は、何年か前のイタリア・サッカーのようだ」と嘆いた。

「いつも選手以外の人間がピッチにいる。選手がひとり倒れればメディカルスタッフがやってきて、マッサージをして出ていく。それから、また別の選手が倒れて、また来る。そのせいで試合のテンポが崩れて、うちのチームの選手たちはよいプレーができなかった」

この発言に注目した人々は、モッタ監督を「バッド・ルーサー」だとみなした。明らかに格上で自由にプレーできる自分たちに対して大胆なほど深く守る敵に激怒し、負けた後に勝利に関するモラルを主張しようとするとは、サッカーの流行の先端を気取った監督だというのである。しかしながら、モッタ監督の主張にも一理ある。時間稼ぎやシミュレーションに関して、オフィシャルはもっと多く――あるいは、おそらくはもっと正確に――笛を吹くよう、上司たちからもっと指示されるべきだろう。

  • Tottenham's Greatest Danny BlanchflowerPathe

    「サッカーは栄光を求めるもの」

    もちろん、この主張は目新しいものではない。サッカーが生まれた当初から、勝利至上主義という言葉は「ビューティフル・ゲーム」の最大の提唱者に対抗して使用されてきた(1966年ワールドカップを文字どおり蹴りだしたブラジルのペレを見るがいい)。50年近く前、かの有名なダニー・ブランチフラワーはこう言った。「サッカーは後にも先にも勝利がすべてというのは大いなる間違いだ。サッカーはそんなものではない。サッカーは栄光を求めるものだ。退屈な死を待つのではなく、現代的で華麗なプレーをし、相手を上回ることだ」。この言葉は現在でも響き渡っている。

    まさにそのとおりで、現代は、サッカーをスペクタクルなものとして進化させるべく、多くのことが行われている。イタリアの90年代を思い出せないような不幸な人は、それ以降のサッカーがどうなったか考えてみればいい。大会が守備的でつまらなくなったため、FIFAは数年後、文字どおりルールを変更した。大きく「アウトボール」にして観客を退屈させるバックバスのルールを禁止したり、ゴールへの嗅覚が鋭い選手たちを守るために後ろからのチャージを厳しく取り締まったりするようになったのだ。

    だが、モッタ監督が指摘したとおり、時間稼ぎやシミュレーションを根絶するために同じような思いきった決定がされてもいいようなものなのに、これらは、アンチ・フットボールの最も無意味な実行者たちにとって、重要なツールであり続けている。

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  • 20230611 Simone Inzaghi(C)Getty Images

    「黒魔術」

    サッカーに正解はないとは、しばしば言われることであるが、決定的に間違ったやり方というものは、ある。昨シーズンのチャンピオンズリーグ決勝、『CBS』で解説をしていたジェイミー・キャラガーは、インテルがイスタンブールで「黒魔術」を使うとは思わないが、マンチェスター・シティを充分にイラつかせて試合を優位に進めるには、それしか方法がないと思うと言っていた。

    もちろん、実際には、インテルがそんなグレーな戦術を使う必要はなかった。シモーネ・インザーギ監督の統率のとれたゲームプランをほぼ完ぺきに実行し、アーリング・ハーランドと仲間たちが生みだす脅威を無意味なものにしたのだ。ただし、よりにもよってロドリが、偶然こぼれてきたボールを押しこんで均衡を破り、その後、インテルは試合を支配したものの、フォワード陣がシュートミスを連発し、延長戦にもちこめそうになった――そして多分、そうなれば勝っていたかもしれない――試合を落としたのであった。

    その後、インテルのプレーには多くの称賛が集まった。それは正当なものである。あれほど圧倒的な敵に対して、カウンターアタックを駆使するのはまったく恥でもなんでもないからだ。だが、忘れてはならないのは、エリート・クラブや有名な監督が初めから取っていい戦術ではないということだ。

  • Luciano Spalletti Napoli 2022-23Getty

    「マラドーナはサッカーがどれほど美しいか、見せてくれた」

    昨シーズン半ば、まだ33年ぶりのスクデット獲得が確定するはるか前にナポリがユヴェントスと対戦したとき、ルチアーノ・スパレッティ監督は、スタディオ・ディエゴ・アルマンド・マラドーナでのこの試合が、古典的なスタイルの対比、すなわち「全く違う2つの哲学」を示していたと指摘した。純粋主義と、「良いサッカー」という言葉をコントロールしようとする現実主義との戦いを具現化したというのだ。

    ユヴェントスのマッシミリアーノ・アッレグリ監督にとって、「良いサッカー」とは勝つサッカーのことだ。単純に言って、美学の追及は勝利と同等の意味をもたない。その意味において、彼は、イタリア・サッカーにおける偉大なる老貴婦人にとって完璧な監督である。スパレッティ監督が言ったとおり、「アッレグリ監督は、『大切なのは勝利のみ』というユヴェントスのモットーの信奉者」なのだ。

    「だが、ここ、ナポリでは、大切なのはハートと魂だ。ここにはかつて、マラドーナがいた。人々は彼がプレーするのを見た。彼が勝ったとき、彼はサッカーがどれほど美しいか、見せてくれた。我々は、その美しさの一部でもいいから受け継ぎ、そういうサッカーを記憶しなければならない。そういうサッカーが再びできることを望んでいる」

    そして彼らは、その目的、夢を、可能な限り最も輝かしい方法で実現した。ただセリエAのタイトルを獲得したのみならず、世界中で尊敬されるサッカーのブランドとともにそれを成しえたのだ。昨年夏、次々にクラブのレジェンドを失い、その代わりとなる選手たちを安値で加入させたにも関わらず、スパレッティ監督は、小さなクラブでも、経済力では最も不均衡なピッチで、勝つことと魅せることを両立できると、すべての人々に思い出させたのである。そして、これができるのは彼ひとりではなかった。

  • 20230521 Roberto De Zerbi(C)Getty Images

    批判を黙らせたデ・ゼルビ

    プレミアリーグでは、ロベルト・デ・ゼルビが、25年以上前のイングランドでアーセン・ンゲルが遭遇したのと同じ懐疑論に出くわしながら、ブライトンをクラブ史上初めてヨーロッパリーグへと導いた。それも、ペップ・グアルディオラでさえ喉を鳴らしたであろう、崇高なプレースタイルで。

    報道によると、デ・ゼルビ監督は、スパレッティ監督の後任の監督人事について、ナポリのアウレリオ・デ・ラウレンティス会長と話をするチャンスを辞退したという。その理由は、ブライトンをチャンピオンズリーグに導くことができると真剣に信じているからだ。

    この夏、シーガルズはすでにアレクシス・マクアリスターを失い、モイセス・カイセドも南米の仲間に続いてクラブを出ていきそうだが、素晴らしいチームと傑出した監督を誇るブライトンは、きっと、ジャンピエロ・ガスペリーニ監督のもとで3年連続チャンピオンズリーグに出場し、2020年には準々決勝にも進出したアタランタのイングランド版となれるだろう。

    思い起こせば、スーパーリーグ導入に向けて暴走したアンドレア・アニェッリの鼻を明かしたのはベルガマスキだった。アタランタは、丹念に優秀な選手を集め、サッカー哲学を明確に示せば、地方のクラブでもビッグクラブを倒せることを証明したのだ。

    スパレッティ監督とまったく同様に、デ・ゼルビ監督やフライブルクのクリスティアン・シュトライヒ監督、ウニオン・ベルリンのウルス・フィッシャー監督は、カネが物言う現代サッカーで戦っていく唯一の道は、守備的でカウンターアタックを主とするサッカーであるという考えを崩壊させている。

  • Pep Guardiola Manchester City 2022-23Getty

    「マンチェスター・Cの目的はカネではない」

    もちろん、持続的な成功には経済力が不可欠である。マンチェスター・Cの三冠達成はそのことを証明している。だが、希望は永遠だ。昨シーズンのアーセナルには、ミケル・アルテタ監督が若手を率いて、不可能と思われている多くのことを成し遂げるという楽観主義があふれていた。8カ月にわたって、プレミアリーグを競争の激しいリーグだと思わせたのだ。

    承知のとおり、最後には、予想どおりマンチェスター・Cが勝利した。結局のところ、あれは国が財政を支えているクラブなのだ。彼らの目的はカネではない。財政面でのフェアプレーは何の障害にもならない。それでも、多くの人が、リーグを窒息させたのはアーセナルだと糾弾し、その中にはアーセナルの名だたるサポーターたちもいた。そしてそれは、この問題の核心につながっていく。最も大きな問題は、「重要なのは勝利のみ」という精神なのである。

    それは今や、すべてを網羅する包括的な問題だ。サッカーのあらゆる面に浸透し、フェアプレーを絶滅させ、戦うとは何であるかという意味そのものを曲解している。トロフィーを勝ち取る以外のすべて、他のすべての結果、他のすべての成果が無意味なものとされている。かつては勝利までの道のりが重要だったが、今やそれは取るに足らないものとなった。勝利だけが成功を意味するなら、敗北は失敗となるからだ。

  • 「それでも我らは歌う、『ボルシア、BVB!』」

    だが、こんなことを、リース・ネルソンがボーンマス戦の97分に決勝点を挙げたときエミレーツ・スタジアムにいたアーセナルのファンや、癌から生還したセバスティアン・ハーラーがアウクスブルクで2得点し、エディン・テルジッチ監督率いるドルトムントをタイトルまであと1勝とするのを見たドルトムントのサポーターに言ったら、どうなるか。そうした時間はその後、意味を持たないことにはならないでいる。

    BVBが最終節でブンデスリーガ優勝を逃したことは事実だ。ホームでマインツ戦が行われた後、BVB自身がそれを認めた。それでも、このタイトル争いで最も記憶すべき瞬間は、バイエルン・ミュンヘンが11連覇を決めた週ン冠ではない。黄色い壁が涙ぐむテルジッチ監督をこう叫んで慰めた時だ。「勝ってトップに立っても、負けて最下位になっても、それでも我らは歌う、『ボルシア、BVB!』」。

    それは団結と尊厳、敗北に寛大な姿を示す、心を揺さぶられる光景であった。皮肉ではなく、非難の始まりでもなく、チャンピオンズリーグの決勝で、ローマのファンがアンソニー・テイラー主審を家族の前で侮辱し、台無しにしたような、人種差別の兆しはまったくなかった(それは、ジョゼ・モウリーニョがブダペストの試合の後、審判団を侮辱するために駐車場で待ち伏せしていた時から24時間も経たないうちのことであった)。

  • Mourinho Anthony Taylor Getty Images

    「さっさとナポリに行け!」

    ジョゼ・モウリーニョはこれまで監督をしてきたチームの多くでそうだったように、ローマでも特別な絆を築き、忠実で、ほとんど救世主のようなステータスにいた。サポーターたちは彼のどんな言葉も聞き漏らさず、彼を妄信して従った結果、非常に暗い場所に陥っていた。

    彼の陰謀のような理論は熱狂的に受け入れられ、彼の行動に対するどんな批判も声高に擁護された。過去2年にわたって、セリエAのみならずヨーロッパにおいても、最も悪口を言われるチームのひとつになった皮肉を体現するまでになっていた、コーチング・スタッフや選手たちに対しても同じだ。

    モウリーニョにとって、それはただ後ろ向きで守備的なサッカーについてだけではなかった。彼の、サッカーのすべての面において「結果がすべて」という姿勢は、トラブルとなる毒どころではないものも、もたらすことがある。

    今シーズンのヨーロッパリーグでローマがフェイエノールトと対戦したとき、アルネ・スロット監督は、モウリーニョ監督のやり方が「結果をもたらす」なら、自分はナポリを見るほうが好きだと言った。セカンドレグが終わった後、スロット監督が握手を拒否すると――今シーズン、審判から嫌がらせのようにひっきりなしにシミュレーションや時間稼ぎを指摘され、心が折れていたローマが関係する何度目の試合であったろう――、モウリーニョ監督はスロット監督を走って追いかけ、皮肉をこめて叫んだのだった――「さっさとナポリに行け!」。

  • 20230601 Jose Mourinho(C)Getty Images

    嘘によってゆがめられる危険のある真実

    モウリーニョは、リスペクトについても大言壮語したことがあるが、それは皮肉であると同時に驚くべきことではない。というのも、彼は、自身の業績に関して、当然受けられるべき称賛が広まっていないと感じているのだから。だが、モウリーニョがトロフィーを獲得してきたことに多くのリスペクトがあるのも事実だ――彼のサッカーを愛する人は非常に少ないとしても。だから彼は怒り、ずっと怒ってきたのである。「負け続ける敗者」や「ゼロ・タイトル」といったケチな中傷を全部見ただけでわかることだ。

    おそらくは、「通訳」以上の存在であることを証明するために必死に戦わなければならなかったがために、モウリーニョは勝つことのみに専心している。彼の唯一の関心事は、結果だ。サッカーそのものではない。彼の頭にある完璧な試合とは、スコアレスで終わるものだという事実によって、強調されているとおりである。彼やアッレグリ監督、彼と同じ考えを持つ他の多くの人々にとって、サッカーとは、勝つためのものなのだ。実際には楽しむべきものであっても。

    そして、サッカーをプレーする方法に間違った方法というものはないという嘘によって、サッカーの中心にある根本的な真実がゆがめられる恐れがある。その恐れは確実に存在する。サッカーから楽しみを奪い、それに代わるのが皮肉以外のないような方法は、まさにアンチ・フットボールと呼ぶべきものだ。

  • Napoli ScudettoGetty

    サッカーを脅かすアンチ・フットボール

    なぜなら、それは、サッカーの成長と人気の継続を今まさに、明らかに危険にさらしているものだからだ。古き良き背番号10の役割はすでに消え去り、ロナウジーニョのような選手の居場所はどんどん減っている。子どもたちはみな、ボールを持ってのプレーの方が、ボールのないところでのプレーよりも好きだというだろう。それでも、走行距離や献身的な守備の重要性がけなされることはない。それらは、勝利――もしくは自身のパフォーマンスにおけるプライド――が不可能ではない場合、サッカーの中心的な価値として残る。

    だが、かつてアニェッリやフロレンティーノ・ペレスが、不運なヨーロッパ・スーパーリーグの立ち上げ期間中およびその後に犯した過ちのすべてを見ると、かれらは、あるひとつのことについては正しかった。つまり、サッカーは、あらゆる面で人間の注意持続時間をすでにかなり短くしまったSNSを使って、観客の関心を維持させることは難しくなっていることを、目の当たりにするばかりだろうということだ。

    Tik-Tok世代のためにバカげたルール変更を導入する必要はない。いずれにせよ、サッカーは常に瞬間が勝負で、魔法のような瞬間はそれまでの苦しみをすべて価値のあるものに変えてくれる。すでにそうなっている以上に守備の技術をさらに苦しいものにしようとする必要はない。それは今もうすでに消えそうな技術なのだ。

    だが、スペクタクルなサッカーを滅ぼしつつある勝利至上主義に対し、何かはしなければならない。なぜなら、おおざっぱに言えば、90分のうち、ボールが動いている時間は半分しかなく、残りの半分はシミュレーションや時間稼ぎ、タッチラインでの言い争いであるような試合を見たい観客など、いるはずがないからだ。

    勝つためには何でもするという勝利に栄光はない。あるいは、絶対にカネが必要となる勝利には。まさにそれだからこそ、我々はナポリやブライトン、ドルトムントの他、今シーズン、ブランチフラワーの信条を実行してきた人々に、大いに感謝すべきである。

    しかしながら、モッタ監督が、今この時、当局は相変わらず、サッカーをただプレーしたいだけの人々よりも、サッカーを破壊したいと思う人々が容易にそれをできるようにしていると感じられると言うとき、彼は絶対的に正しい。