負傷者が続出し、調子を取り戻せない選手たちもいる中で臨むナポリとの第2ラウンドでは、何よりも図々しいほどの大胆さと純粋な才能を生かし切らなければならない。“私たちは中長期プランで物事を進めている”という言い訳と紙一重の主張は、今は意識する必要がない。クソ食らえ、である。
メッシに2007年5月に起こったことを聞いてみればいい。当時のバルサもまた目も当てられない状況だったが、あと1ゴールでCL決勝まで到達できるところまで行った。プレーのクオリティー的には、ベスト4進出にもまったく値しなかったにもかかわらず、である。あのオールド・トラフォードでの敗戦は、フランク・ライカールト監督解任の引き金を引いたと同時に、ジョゼップ・グアルディオラが築く新たなる黄金期への号砲となった。そして何よりも、まだ20歳だったメッシはその飢餓感をさらに募らせ(2006年のCL決勝は負傷で欠場していた)、ここから永久に不滅の存在となる道を駆け出していったのだ。
火曜のモンジュイックで、ヤマルたちは当時のメッシと同じような姿勢でプレーに臨まなくてはいけない。正常ではなくなっているチームを正常に機能させ、なおかつ、サポーターやほかの選手たちに期待する気持ちを伝染させる存在にならなければいけない。
もちろん、CLにはよりクオリティーの高い相手がいる。豊富な経験を積んでいる相手がいる。スポーツ面のプロジェクトをしっかりと成熟させた相手がいる。しかし、それでもヤマルはマークにつく選手に仕掛けていくことを、ゴールを目指すことを止めないだろう。フェルミンは球際の争いに果敢に臨んでいき、物怖じすることなくミドルシュートを放っていくだろう。クバルシはたとえオシムヘンが相手でも気後れせずタックルを仕掛け、凡百のセンターバックやボランチが出せない縦パスを見事に通していくだろう。
彼らバルサの若手たちは、3カ月後にはいなくなっているコーチングスタッフ、選手たちを超越したところで存在するクラブの未来であり、現在なのだ。当たり前だが、まだまだ無鉄砲で、生意気である。とはいえ、その怖いもの知らずの勢いゆえに、プレー哲学と理論に染まったバルサのサポーターは、頭脳でなく感情からタイトルを獲得する道を信じられるのではないだろうか。チャビが「チームのプレークオリティーに関係ないところで勝ってしまう」と評するレアル・マドリーのように、とまでは言わないが……。いずれにしろ、そうして得る成功(手応え)・失敗(悔しさ)体験は、未来のバルサの糧となるはずだ。
コパ・デル・レイで敗退し、リーガ優勝もほぼ不可能な状況で(統計的な可能性はもう0%だ)、CL優勝を狙うバルセロナはまさにクラブ史の中で前例のない礎を築こうとしている。無論、可能性は低い。しかし低ければ低いほど、物語は感動的になる。現在チャビの率いるチームは、バルセロナのプレー哲学で言えば壊滅的だ。が、たとえプレースタイルによる指針がなくとも、若手たちは今の過酷な現実にも立ち向かっていくだろう。そして、もしヤマルたちが感動を呼び起こすとしたら、その理由は若さだけにとどまらない。彼らは世界を食らえるほど、本当に素晴らしい選手たちなのだから。
バルサが最後にベスト8に進出したとき、人々はマスクを着用していた。あれから4年が経ち、着用は義務ではなくなったが、バルサの若手たちも読唇術を使われないように、手で口をおさえながらヒソヒソ話をしている。果たして、その掌は一体どんな野心的な言葉を、希望の言葉を包み隠しているのだろうか。
若い内は、悲観的になることなど選択肢に含まないのだ。