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「女子サッカーがなくなる...」死闘の北朝鮮戦とアメリカ挑戦。42歳になった荒川恵理子が振り返る女子サッカーの25年/中編

WEリーグで最も長い選手キャリアを持つ、ちふれASエルフェンFW荒川恵理子。日本女子サッカーの歴史と歩みを、荒川の25年のキャリアとともに3回に分けて紐解いていくインタビュー。第2回となる中編は、バブル崩壊を受け多くの企業がL・リーグから撤退、支援縮小を表明した1997年。このどん底の時代から、アテネ五輪で見事な戦いを見せることで巻き起こった「なでしこ」ブームまでを辿る。

■死闘と復活のアテネ五輪、そして北京五輪で初のベスト4

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 1997年から2000年、この時代の女子サッカーは、リーグの存続が危ぶまれるほどの窮地に追い込まれていた。

「リーグ自体が危機的な状況でした。シドニー五輪も出場を逃していましたから『次のアテネ五輪を逃したら、本当に女子サッカーがなくなるかもしれない』という緊張した雰囲気がありました。だから、アテネ五輪代表メンバーは、『女子サッカー存続のために』という意識を常に持っていたと思います」

 アテネ行きを決めるアジア予選準決勝が近づくにつれて、そのムードはより強くなっていったという。相手は強敵・北朝鮮だった。

「十何年も勝ったことがない相手ということで、体力強化のために走りだけの事前合宿を3週間行ったりしました。五輪出場に向けて一致団結していたから『苦しい』なんて言いながらも、充実して乗り越えられたと思います。当時のメンバーは今でも非常に一体感が強いです」

 迎えた北朝鮮との準決勝。2004年4月24日、国立競技場には3万人以上の観客が集まった。試合前、女子サッカーを共に守ろうとする人々からの言葉もあった。

「当時、女子委員長だった大仁邦彌さんが、試合直前に激励に見えて、『結果なんてどうだっていい。精一杯やってくれればそれでいい』と言ってくださったんです。でも、当時の状況からするとそんなはずはなくて、絶対何としても(アテネ五輪に)行ってほしいと思っていたはずなんですよ。けれど、そんな言葉をかけてくださったのでさらに火がつきました」

「『90分後には結果が決まってるんだ』というプレッシャーなのか緊張なのか、どうしようもない気持ちを抱えながら、みんな一人ずつ、思いっきりハグして。そうしてピッチに出た。3万人が入っているんですよ、国立に。それがものすごく濃い青で、うん。青くて...今でもよく覚えていますね」

 そして、女子サッカーの今後を左右する一戦は、11分に荒川が先制ゴールを決めるとその後2点を加点し、3対0で見事な勝利を収めた。

「本当に勝ててよかった」

「だから勝った瞬間は、本当に何とも言えないというか…私は交代していたんですが、気づいたらダッシュでチームメイトに駆け寄っていました。ただの1勝以上の価値があった試合でした。決して綺麗なサッカーではなかったかもしれないけど、私たちの気持ちと思いが入ったサッカーだったと思う」

 8月のアテネ五輪では惜しくもベスト4には進めなかったものの、準々決勝で強豪・アメリカにあと一歩まで迫るなど、五輪出場の印象をしっかり示した女子日本代表。ここで女子サッカーを取り巻く状況は一転、多くの注目が集まる“ブーム”が起きた。

「女子サッカーが注目される流れは感じました。まさか西友のお正月の新春チラシに、自分が着物を着て登場するとは(笑)。どうしても女子リーグは存在感を示しづらいので、代表選手の五輪での成果は大きかったと思います」

 女子代表は、その後2008年の北京五輪で初のベスト4入りを果たす。女子サッカー。いや「なでしこジャパン」はまさに、世界にも知られるチームにまで成長したのだ。

■故障を経て、アメリカでの充実感あふれるチャレンジ

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 日本で女子サッカーの勢いが増す一方、荒川の身体には異変が起こっていた。

「北京五輪の合宿に入った時から腿裏がおかしくて。検査をしたら切れてはないもののすごい炎症が起きていると。もし切れてたら帰らされていたので、そこはよかったと思いつつ(苦笑)。でも、もちろんそのままでは本大会に出られないので、別メニューで練習していました」

 そんな中、男女合同の親善試合で復帰するが、その時にまたケガに襲われる。

「足首をやっちゃって。最初はそんなに酷くないと思っていたのですが、どんどん痛みが広がって、薬もあまり効かない状態でした。北京五輪はベスト4でしたが、私は不完全燃焼でしたね。だから4年後に向けて切り替えました。30歳を過ぎて代表入り、ましてやサッカーを続けている選手すらあまりいませんでしたが、自分だけは目指そうって」

 2008年北京五輪後の翌2009年、荒川は開幕を控えていたWPS(アメリカ女子プロサッカー)からドラフト指名を受ける。2月13日にFCゴールド・プライド(サンフランシスコ)への移籍を発表。「もともと『海外でサッカーをやってみたいな』とは思っていたので、ありがたいことにドラフト指名をいただいて、すぐにアメリカ行きを決意しました」と、迷うことなく新天地での新たなチャレンジを選んだ。

「向こうのチームで親しくしていたのは、アメリカ代表のブランディ・チャスティン選手と、ティファニー・ミルブレット選手。1999年W杯で大活躍していた選手です。二人とも30歳以上で、チームメイトとして自分を気にかけてくれましたし、プロ意識を感じました。特にブランディは松田さん(※)によく指摘されることを言ってくれました」

※松田岳夫元・日テレ・ベレーザ監督、現・マイナビ仙台レディース監督

 荒川はベレーザ時代を振り返りながら、話を続ける。

「ベレーザの頃は、頭を使ったサッカーができてなかったんです。松田さんから怒られることが多くて、正直サッカーが面白くなかった。自分ができないからしょうがないんですけど……。でもアメリカに行ったら、トラップ1個でもすごい褒めてくれて。もしかしてサッカーを難しく考えすぎてたのかなと感じました」

「松田さんに『足元。足元なかったら裏へ行けよ。裏なかったらもう一回動き直して足元だ』とよく言われていたんですよ。ある時ブランディも『フィートで、なかったら裏へ行け』と言ってくれて。松田さんも自分をよく見ていたから、彼女と同じようなことを言ってくれたんだ、と気づけました」

 アメリカでは女子サッカーをよく知る人からのアドバイスやコミュニケーションが、荒川の支えとなった。長い在籍期間はではなかったが、印象に残る経験となったようだ。

「ブラジル代表のフォルミガも同じチームで。彼女は言葉が通じなくても、前の動きに合わせて自分がはめ込むっていう動き方ができていて、すごいなと思いました。フォルミガも自分もあまり英語が上手ではなかったから『Eriko、Today here』『Yes』っていう簡単なコミュニケーションが取りやすかったです」

「海外にいると時間の流れがゆっくりに感じて、サッカーだけができている充実感がありました。だからすごく楽しくて。来年も所属するという話もあったんですよ」

 しかし充実したアメリカ生活は、予想しない形で幕を閉じることとなる。

「自分が加入予定だったロサンゼルスのチームとの契約の話が急に潰れてしまって。仮契約として一旦(日本に)帰ってきたんですね。口約束で『来週の何日に行きます』と話したはずなのに、蓋を開けたらロサンゼルスのチームに別の選手がいたんですよ。彼女を獲りたいからって、自分が出されちゃったんです。判は押してないけども、行くって話をしていたのに…」

 アメリカへ戻れるか不確定なまま急きょ帰国した荒川は、そのまま浦和レッズレディースにプレーの場を移す。幸いチームに合流できたものの、アメリカでのチャレンジはそのまま叶わぬ形に。「こんなことってあるの、っていう感じでしたね」と悔しさが残る経験となってしまった。

 しかし、荒川は、怪我や海外などの経験から30代のサッカーキャリアへ新たな扉を開いていくのだ。

後編「そして迎えるWEリーグ元年」に続く

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