■奇跡
「監督はディエゴ・パブロ……シーーメーーオーーネー!」
アトレティコ・デ・マドリーのスタジアムで、キックオフ直前に流れるチーム紹介アナウンス。最後にディエゴ・シメオネの名が叫ばれると、決まって地鳴りのような歓声が巻き起こる。2011年12月、彼が監督として戻ってきたときから、その光景はもうずっと変わらない。もっと言えば、“チョロ(シメオネ監督の愛称)”は狡猾かつ粘り強く、闘争心にあふれた選手時代に、今現在までつながっていくサポーターからの愛情を勝ち取っていたのだった。
そうして試合が始まると、今度は右サイドを震源地として地鳴りのような歓声が上がっていく。地面にこすれそうなほど低く、大きなストライド走法は、時速35キロ以上を計測。ジュリアーノが相手の守備網を言葉通り“ぶっちぎり”、またもアトレティコの突破口となったのだ。人々は彼のエネルギッシュかつハートにあふれたプレーに心を打たれ、「ジュリアーノ! ジュリアーノ!」と叫んで、彼というフットボーラーへの愛情を表現するのだった。
ジュリアーノ・シメオネは、もちろんディエゴ・シメオネの息子。三男坊である。そのためにアトレティコでプレーしているのは必然のように思えるかもしれない。事実として、父親からアスリートのDNAを受け継ぎ、幼い頃からフットボール界が身近にあった恩恵を享受したことも間違いない。とはいえ、それだけで成功をつかめるほどプロスポーツの世界は甘くないし、むしろ“シメオネの息子”ゆえの壁にも何度となくぶち当たっただろう。
ジュリアーノの活躍は、本人の努力なしではあり得なかった。そして彼が紡ぎ出す物語は、アトレティコサポーターにとって、この上なくうれしい奇跡だったのだ。
■目の前の光景
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アトレティコサポーターのジュリアーノに関する一番古い記憶は、ディエゴが2回目に選手としてアトレティコに在籍した2003~04年のことだ。2004年12月、アトレティコ退団を決断したディエゴは、まもなく2歳になる三男を抱きかかえながら、旧本拠地ビセンテ・カルデロンに集まった4万人のサポーターに別れを告げた。
ディエゴは2011年12月、アトレティコに指揮官として帰還し、クラブ史上最大の黄金期を築くことになる。まだ幼かったジュリアーノは練習場やカルデロンで、練習や試合が終わった芝生の上でボールを蹴り、またカルデロンではボールボーイも務めた。誰よりもアトレティコのトップチームに慣れ親しんだ子供だったが、誰よりも近くで見ていたからこそ、果てしない距離を実感していたようだ。
「カルデロンに初めてやって来たのは8歳の頃だった。髪の長い子供だったね。彼らの練習を間近で見ているのは、何かとてつもないことだった」
「カルデロンではボールボーイを何度となく務めたよ。選手たちのプレーリズムはとんでもなかった。これがトップクラスの選手たちなんだって感じていたよ。自分がここでプレーしていることを想像してみたら……頭がおかしくなりそうだった。その当時は、絶対に無理だと感じていたんだ」
「アトレティコでプレーするなんて、あまりに遠すぎる夢だった」
それでもジュリアーノは、“目の前の光景”にたどり着くための遥かなる道程をスタートさせる。長男ジョバンニ、次男ジャンルカ(すでに現役を引退)に続いて、父親の古巣リーベル・プレートの下部組織に入団することで。もちろんリーベルでプレーするなど、それこそ“コネ”でしかない。大人の世界より実直で、だからこそ残酷な子供の世界で、ジュリアーノは直接的に言葉をぶつけられることになる。しかし、彼は負けなかった。
「子供の頃、8歳から12歳、14歳くらいまでは、試合でいつも『お前が出場できるのは父親のおかげだ』と言われた。ずっと、繰り返し言われ続けたよ」
「最初はそのことについて考え込んでしまった。だけど何度も繰り返しそう言われるから、次第に慣れてこう考えるようになったんだ。『あいつらがそう言うからって何なんだ? 何を嫌な気持ちになる必要がある? 僕がプレーしているのは、自分がフットボールを好きだから、最大限の力を尽くしているからにほかならない』って」
■快速
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己の研鑽とチームの勝利にだけ集中するジュリアーノは、自慢の快速でもって夢への階段を一気に駆け上がっていった。17歳となった2019年にリーベルからアトレティコの下部組織に移り、フベニールA(U-19)でプレー。1年半後の2021年1月にアトレティコのBチームでデビューすると、2021-22シーズンには同チームの主力として36試合25得点を記録し、プリメーラ・フェデラシオン(実質スペイン3部)昇格の立役者となっている。この頃にはもう、「ジュリアーノはすごい。こいつは親の七光では説明がつかない」という噂が、アトレティコの記者やサポーターの間で駆け巡っていた。
アトレティコのBチーム以上、トップチーム未満という評価になったジュリアーノは、2022-23シーズンにラ・リーガ2部に挑戦すべくレアル・サラゴサにレンタル移籍。チャンスメイクだけでなくチーム得点王となる9ゴールを記録し、2部のハードルも軽々と飛び越えた。そして翌シーズンにはアトレティコとの契約を2028年まで延長してから、当時ラ・リーガ1部に所属していたアラベスにレンタルで加入。プレシーズンには脛骨と腓骨を骨折し、今後のキャリアすら危ぶまれることなったが、厳しいリハビリを乗り越えて5カ月後に復帰を果たすと、16試合に出場して1得点を記録した。アラベスがレンタルの延長を希望したことが、重傷を物ともしなかった証左だった。
ジュリアーノはレンタル延長でアラベスでプレーし続けることが既定路線とされた。が、その路線を父親ディエゴが変えている。彼はパリ五輪を戦う三男の様子を見て、確信した。息子だから起用している、依怙贔屓していると思われても、ジュリアーノは絶対にチームに加えるべきだ、と。
「私は五輪を戦う彼を見ながら、自分にこう言い聞かせることになった。『私は彼の父親だ。しかし馬鹿ではない』とね」
「私にとってジュリアーノは、いつだって“一人のフットボーラー”だ。彼を私のチームに残すと決めたのは、ほかの選手とまったく同じ理由でしかない。つまりは、チームの力になれる――ただ、それだけの理由なんだ。誰も特別扱いはしない。だから自分の息子でも、私のチームに含めることにした」
■2人の“シメオネ”
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最初はディエゴが懸念した通り、ジュリアーノをただの“シメオネの息子”と見ている人たちも、少なからずいた。しかし父親が息子を自チームに入れて失敗するという、スポーツ界で過去無数にあったケースは、この親子にはまったく当てはまらなかった。「努力に交渉の余地はない」を信条とするチョロは当然、“親”馬鹿にはなり得なかったのである。
実際、ジュリアーノはアトレティコのトップチームで、ただ通用している、というレベルにはとどまらない。チームにとって彼の突破力は、かけがえのない武器となっている。
GKヤン・オブラクやDF陣がボールを奪った刹那から相手陣地に向かって加速を開始……パスを受けてもスピードを落とさず、グングンと加速しながら相手選手を抜き去り、アシストやゴールを決める。メトロポリターノの観客は、ジュリアーノがあの大きなストライドを見せる度に、「何かが起こるぞ」と腰を浮かせてプレーの成り行きを見守っている。また彼は、攻撃だけの選手ではない。チームのために後方に走ることを厭わず、基本は右サイドハーフでもウィングバックのように振る舞い、全力でアップダウンを繰り返すのだ。彼のプレーはアトレティコのイムノの一節、「勇気とハートを漲らせて」をまさに体現している。
アトレティコのトップチームで過ごす2シーズン目、ジュリアーノの実力と献身を疑うアトレティコサポーターは、もうどこにもいない。いや、むしろ、彼がディエゴの息子であったことに感謝さえしている。ジュリアーノはディエゴの血を引いているからこそ、アトレティコのボールボーイを務めたのだから。アトレティコでプレーすることを夢見たのだから。選手としての特徴は違えど、かつてのディエゴのように、自分たちの心を打つ“熱さ”を感じさせてくれるのだから。
ジュリアーノは今、目を覚ましたまま夢を見ている。
「アトレティコのトップチームは、本当に遠い場所だと思っていた。だからこそ、ここで練習するため、試合に出場するために目を覚ますことは……夢以外の何物でもない。本当に素晴らしい日々だ」
「僕はこの夢を叶えるために、小さい頃からずっと戦ってきた。それでも、アトレティコのユニフォームを着ていることが今も信じられない。このままずっと、夢から覚めなければいい。そのためには一歩一歩、一試合一試合、全力で戦わないといけない」
ディエゴは、そんな“選手ジュリアーノ”を認めて、夢の続きへと導く。
「絶対にもっとほしいはず。彼はもっと求めているはずだ。そのためには必要なのは努力と謙虚さにほかならない。今いる道を、どうか進み続けてほしい」
「ジュリアーノは私たちにとって、とても大切な存在だ」
今日もメトロポリターノでは、地鳴りのような歓声が上がる。テクニカルエリアの黒いスーツ姿の男を、右サイドの赤白のユニフォームの男を震源地として。そして背番号20がゴールを決めたとき、場内アナウンスは「ゴールを決めたのはジュリアーノ……?」と問いかける。観客の答えは、分かりきっている。
「シメオネ!」だ。
アトレティコのトップチームに、父と息子はいない。そこにいるのは2人の熱きフットボーラー。2人の“シメオネ”である。
文=江間慎一郎




