フットボールにはびこる「先験主義」を始末するためには、これ以上ない決勝だった。アルゼンチン対フランスはこのフットボールというゲームの感情的、技術的な素晴らしさのすべてが詰まっていたし、お堅く退屈な戦術的思考を一蹴している。2022年カタール・ワールドカップで繰り広げられた戦いは、総じて2018年ロシア大会からあった傾向をより強めたものとなり、タレントと感情の発露がその他のコンセプトを上回っていた。
未来が楽しみになるW杯だった。優勝を果たしたアルゼンチンはサウジアラビアとの初戦の敗北から修正を施すことに成功。決勝ではリオネル・メッシをピッチの中心に据え、確固たる意思でヴァーティカル(縦、垂直)な攻撃を仕掛けてゴールを狙った。その一方でフランスは、あまりに守備的・保守的だったために罰せられている(キリアン・エンバペがそうした流れに反乱していたが)。アルゼンチンは下馬評を覆して優勝したわけだが、それはチームとして勇敢だったことへの褒賞にほかならない。
各チームがそれぞれの提案をしたW杯だった。アルゼンチンは大胆かつ、それでいて自分たちに必要だったポジショナルな攻撃を調整しながら大会を進めていった。リオネル・スカローニはシステムの変更をためらわなかったが、オランダ戦のような3バックも守備のためには使用せず。戦い方こそ変化させていったものの、自分たちの長所(攻撃)をいかに生かすかという考え方自体は変わっていなかったと言える。
その一方でモロッコのワリド・レグラギ、日本の森保一もそれぞれ、自分たちの印をW杯に刻んでいる。モロッコが守備的だったのは、そうなることを求められたからにほかならない。モロッコのようなチームに超強豪国と正面からぶつかり合うことを求めるのは筋違いであり、それに彼らはフランス戦のように、すべきときにはしっかりと攻撃に転じていた。
試合に臨む上で自分たちの背景、能力、特徴はしっかり把握していなければならない。モロッコや日本が、スペイン戦などでなぜあれだけ守備的だったのかと是非を問うことに意味はない。責めるべきチームがあるとすれば、それはモロッコや日本ではなく、フランスだろう。選手一人ひとりの能力を考えれば最強に近いチームだったにもかかわらず、うまく守れないばかりか、攻撃の仕掛けとその速度は選手個人のタレントに依存していた。ディディエ・デシャンは痛ましい形で大会を去ることになり、だがその一方、個人で輝いたキリアン・エンバペは王の器を確かに示していた。フランスが強いのは監督ではなく、選手たちが優れているためだ。
フランスは優勝まであと数mmのところまで近づいた。が、フットボール的にはどんな足跡も残していない。ほかの代表チームの方が良い意味で大胆さがあった。イングランドとブラジルはベスト8で姿を消したものの、そのパフォーマンスは結果以上に充実していたし、クロアチアも最高の世代は過ぎ去りつつあるが(ルカ・モドリッチがいて過ぎ去ったとは口が裂けても言えない)再び自分たちの力を誇示してる。