Andy Van der Meyde Ajax Roma Champions League 2003Getty Images

「リヴァプールに殺される!」酒、ドラッグ、そして女性…イブラヒモヴィッチの親友の悲しい転落の物語

31歳の頃、アンディ・ファン・デル・メイデは、自分の生活に嫌気がさした。大金を稼ぐことはできるが、同時に孤独を感じるその生活に。ケガ、失敗した復活、孤独な夜、アルコールやドラッグ、そして美しい女性たちへの欲望に支配されたその生活に――。

ある朝目を覚ました後、彼はただただこの場所から逃げ出したいと思った。リヴァプールの街からアムステルダムへ帰りたいと考えたのだ。「私はアドバイザーに電話し、この場所から逃げ出さなければならないと伝えた。ここに留まれば、おそらく死んでしまうだろうと思ったからだ」。現役引退から数年後、本人は『BBC Radio 5 Live』のインタビューでこう語っている。

「アドバイザーは、私がアヤックスでトレーニングをして体調を維持できるように手配してくれた。翌日にはアムステルダムに帰っていたよ」

  • フィーゴの再来

    育成の名門アヤックスで頭角を現し、抜群のスピードに卓越した技術、鋭く正確なフルスプリントからのクロスなどを武器に17歳でトップチームデビューを飾ったファン・デル・メイデ。当時のウインガーの象徴的存在であり、偉大なルイス・フィーゴと比較されることも珍しくなかった。

    2001-02シーズンには主力としてリーグとカップ戦の二冠に大きく貢献すると、23歳で迎えた2002-03シーズンにはエールディヴィジで11ゴール14アシストをマーク。若くしてオランダ代表でも中心的な役割を担い、このまま歴代のスーパースターたちと肩を並べるようなレジェンドになると、誰もが確信していた。

    しかし悲しいことに、これが彼のキャリアにおける頂点となってしまった。

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  • Andy van der Meyde -  Zlatan Ibrahimovic

    決断

    2002-03シーズンのアヤックスは、魔法のようなチームだった。若きウェズレイ・スナイデルとラファエル・ファン・デル・ファールトがチャンスを作り、ナイジェル・デ・ヨングが相手の攻撃の芽を次々と摘み取ると、最前線ではミド、そして若きズラタン・イブラヒモヴィッチがいとも簡単にネットを揺らし続けた。

    ウインガーとしてチームの中心だったファン・デル・メイデは前線の2人、“バッドボーイズ”ととても気が合った。イブラヒモヴィッチは後に、ファン・デル・メイデについて「俺達は“クレイジーな男たち”といったところだったな。アンディは俺をよく理解してくれたし、仲が良くなるのは簡単だった。俺やミドのような人と常に接してきたんだろう。仲間の一員だ。他のオランダの男達のように傲慢ではなかったしね」と振り返っている。

    若き才能が躍動するチームは、2002年にリーグ制覇とカップ戦優勝を達成、2003年にはチャンピオンズリーグで準々決勝まで進出している。当然、各選手たちにはヨーロッパ中の注目が集まった。そして2003年夏、ファン・デル・メイデは1200万ユーロとされる移籍金でイタリアの強豪、インテルへと移籍を果たした。

    だが、この決断こそ彼のキャリアを終わらせてしまうものだった。後に本人は「私はかつて、ルイス・フィーゴに次ぐ世界第2位のウイングだったと思う。だからこそ、時々『自分の才能を無駄にしてしまった』と思うことがあるんだ」と語っている。

    インテルでのデビューシーズンでは、チャンピオンズリーグのアーセナル戦で見事なゴールを奪って3-0の快勝に貢献するなど、一瞬の輝きは放っていた。しかし、ほとんどはベンチで過ごすことになる。チームには彼にふさわしいポジション、ウインガーの居場所がなかったのだ。さらに彼との契約を望んだエクトル・クーペルがすぐに解任され、後任のアルベルト・ザッケローニの下で状況は悪化していった。

  • Andy van der Meyde EvertonGetty Images

    エヴァートンでの転落

    思うように出場機会を得られない日々にフラストレーションをため続けたファン・デル・メイデは、ミラノに親しい友人がいなかったことも災いし、やがてその苛立ちをナイトライフへとぶつけることになる。

    「イタリアでの2シーズン目を迎えるまでは、ほとんど外出することはなかった。しかし、ある時点で『もうプレーすることはないんだろう』と悟ったんだ。そこで夜に繰り出して酒を飲み、フットボールから逃げるように過ごしていた。定期的にギャンブルもやっていたね」

    そんな状況が続いた後、2005年夏にはインテルを退団。エヴァートンが週給37000ユーロを提示したからだ。当時ケガを抱えていたにも関わらず、高待遇を準備したのだ。ファン・デル・メイデはこのチャンスに飛びついた。だが、それはフットボール的な意味ではない。『The Times』でこう語っている。

    「ミラノでもらっていた金額の2倍だった。すぐにフェラーリを購入し、最初の目的地はリヴァプールのホットスポットであるニューズ・バーだったね。数時間か酒を飲んでから、最寄りのストリップクラブに向かったよ。確かに、リヴァプール中心部にあるストリップクラブで酔っ払うのはあまり賢明じゃないだろう。だが、裸の女性が好きだったんだ」

    プレミアリーグでの最初のシーズン、彼は開幕から10月末までケガで離脱し、12月から3月まで再び鮮烈を離れている。プレミアリーグでの出場はわずか10試合。つまり、彼には遊ぶ時間がたっぷりあった。

    ファン・デル・メイデのアルコール依存症はますます深刻になり、さらにストリッパーとの不倫によって結婚生活も崩壊。ピッチでもデイヴィッド・モイーズ監督と何度も口論になり、結局は酒に逃げ込むしかなくなっていった。彼は多額の収入を得た一方で、スポーツ面での挫折から立ち直ることができなかった。

    「好きなことを何でもできる。もう制限はまったくなかった。そうすると、すぐに道を踏み外して、現実を見失ってしまうんだ」

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  • 「リヴァプールに殺される」

    「私は誰にもそのことを話さず、仮面をかぶって歩き回り、何も問題がないかのように振舞っていた。他人に打ち明けて自分の問題について話すタイプの人間じゃない。今までもずっとそうだった」

    エヴァートンでの4年間、彼の公式戦の出場はわずか24試合。最後の2シーズンはたった3試合だ。当然彼の契約は更新されず、2009年の夏にフリーとなった。そんな彼を欲しがるクラブは現れるわけもなく、ファン・デル・メイデは絶望の淵に立たされた。そして何もすることがなくリヴァプールで1人暮らしを続けていた彼は、ついにドラッグに手を出してしまう。

    「コカインをやり、酒を飲み、週7日パーティーに明け暮れた。フットボールにも、他のことにも、何にも集中できなった。私の人生はパーティーだけだった。リヴァプールという街は、自分をコントロールできない人間にとっては危険な場所だ。『リヴァプールに殺される』と思った。だからこそ、そこから逃げる必要があったんだ」

    そうしてアムステルダムに戻ったファン・デル・メイデは、数年間の悪夢から目を覚ますようにアヤックスでのトレーニングに没頭すると、2010年春にはPSVと契約を結び、30歳にしてキャリアを取り戻そうとした。だが結局は出場機会を得ることもなく、そのまま退団。そして2011年春、輝かしい未来が期待されたはずだったそのキャリアを終えることになっている。

    そんなファン・デル・メイデは、若い選手たちへ自身と同じ失敗を繰り返さないようにアドバイスを行っている。2011年の夏、ロイストン・ドレンテがエヴァートンへ移籍する際にも「リヴァプールは俺達のようなタイプにとってはあまりにも魅力的すぎる。気がつくとナイトクラブに魅了され、コカインでハイになって失敗するんだ」とリークされた音声メッセージで伝えていたことが発覚している……その警告は無駄になってしまったが。

    今現在の彼は、もはやフットボールとはあまり関わっていない。一方で『Youtube』で大成功を収め、彼のインタビュー番組「Bij Andy in de auto」はオランダで人気を博し、37万人以上のフォロワーを獲得。ロメル・ルカクやハキム・ツィエク、ドゥシャン・タディッチといった選手たちも出演したが、旧友であるミドも登場した。そして、彼と一緒に車の中でこんなことを話している。

    「若い頃に多額の金を稼ぐことは非常に危険だ。まだ子供なのに、突然口座に何百万という金が入るんだ」

    ファン・デル・メイデはミドの話に深く同意する。おそらく、彼以上にその言葉の意味を理解しているフットボーラーはいないだろう。

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