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2002年ワールドカップ、アメリカの躍進:サッカー不毛の地が起こした“史上最高の番狂わせ”と「ドス・ア・セロ」【LEGACY】

もしあの日、判定がアメリカ代表に有利に働いていたならば……。今なおそう思う人は数多く存在する。2002年の夏は、アメリカサッカー界にとって決定的な瞬間として記憶されている。男子代表チームが真の意味で世界の舞台に登場し、その後の礎を築いた瞬間だったからだ。

2002年の夏、アメリカはワールドカップ準々決勝に進出した。日本と韓国で開催されたこの大会で、過去にも未来にもなし得なかった高みに到達した。強豪国に勝利し、宿敵との決定的な一戦を制し、ランドン・ドノバンやダマカス・ビーズリーといった世代を象徴するスターも誕生した。あれから23年が経過しても、アメリカにおけるあの大会の影響力を否定することはできない。ドイツ代表に敗れた後、ブルース・アリーナ監督はこう語った。

「我々は世界に戦えることを示した。頂点には達していない。だが、アメリカサッカーの未来は明るい」

  • USA goalscorer Brian McBride (2/L) celebrates hisAFP

    「サッカー不毛の地」

    2002年の快進撃がいかに奇跡的だったかを真に理解するには、その前史を知る必要がある。「サッカー不毛の地」であったアメリカは長らく最高の祭典から遠ざかっており、1990年大会の出場は40年ぶりの出来事だった。しかし、3戦全敗ですぐに姿を消している。その次の1994年大会、自国開催では立派な戦いを見せてノックアウトステージに進出し、高まりつつあったサッカー人気に火をつけることに成功した。だが続く1998年大会、再び3戦全敗で敗退。当然、こうした疑問が生まれている。

    「1994年大会はまぐれだったのか? アメリカ代表は世界の強豪国と戦えるチームなのか?」

    その後アメリカは、2002年大会へ向けてアリーナ監督が就任。予選期間中に37人の選手を起用する新時代を迎えた。だが、予選終盤にはメキシコ、ホンジュラス、コスタリカに3連敗を喫して猛批判を浴びるなど、決して順調ではなかった。出場権を獲得したのもかろうじてである。ブライアン・ミクブライドは「予選通過が決まった時はただただ有頂天だったね」と当時語っているが、アジアに到着した後も厳しい戦いが続いた。それでも、そんな彼らは“史上最高の番狂わせ”の1つを起こしたのである。

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  • US forward Landon Donovan (R) celebrates after scoAFP

    “史上最高の番狂わせ”

    アメリカの初戦の相手はポルトガル。ルイ・コスタにフィーゴ、パウレタなどレジェンドを擁する“黄金世代”だ。その実力、経験値の差は圧倒的だった。しかし開幕戦で笑ったのは、アメリカの方だった。

    4分にジョン・オブライエンのゴールで先制すると、ホルヘ・コスタのオウンゴールでリードを2点に広げ、36分にはこの試合のMVPとなったミクブライドが3点目を奪う。世界最高のチームの1つをどん底に陥れた。その後2点を返されたが、試合終了の笛が鳴った時のスコアボードは「アメリカ 3、ポルトガル 2」と表示されていた。ドノバン、ビーズリーという若き才能が躍動した結果生まれた“史上最高の番狂わせ”の1つである。

    アリーナ監督は「おそらく、現代サッカー史上最大の勝利だろう」と興奮気味に語っている。その後の韓国戦では引き分け、ポーランドには1-3で敗れたものの、グループステージを2位で通過。見事にノックアウトステージに進んだのだった。一方のポルトガルは、まさかの早期帰国を余儀なくされている。

    劇的な勝利でノックアウトステージに進んだアメリカ。しかし、すぐに次の試練が待ち受けていた。サッカー最高の祭典で待っていたのは、最も馴染み深い宿敵、メキシコである。

  • USA's Claudio Reyna (L#10), Carlos Llamosa (C#16)AFP

    「ドス・ア・セロ」

    アメリカを追っている人であれば、「ドス・ア・セロ」という言葉を一度は耳にしたことがあるはずだ。メキシコとの激しいライバル関係を象徴する言葉である。2002年6月17日、韓国・全州でスコアボードに刻まれた「ドス・ア・セロ」は伝説となった。

    ワールドカップの歴史上、アメリカがメキシコと対戦したのはこの一度だけ。2002年大会のノックアウトステージ1回戦のみだ。この試合は準々決勝進出以上に、誇りをかけた一戦だった。

    前述の通り、当時のアメリカは今ほどサッカー人気はなく、一方のメキシコは世界の舞台でも結果を残していた。両国の差は歴然で、1937年から1980年までの24試合で一度も勝てていなかった。

    しかし、アメリカは再び奇跡的な勝利を手にすることになる。ミクブライドが開始8分にネットを揺らすと、65分にドノバンが試合を決める追加点をマーク。スコアボードに刻まれたのは「ドス・ア・セロ」。アメリカが宿敵を下して、ベスト8に進出している。

    ドノバンは後に『ESPN』で「20歳だったけど、ワールドカップで再び彼らと対戦することは二度とないかもしれないと思っていた。これが彼らと対戦する唯一の機会だったとしたら……絶対に勝ちたかった。そしてこの試合結果がメキシコサポーターに『このライバル関係は本物だ』と刻み込んだと思う。予選や親善試合で何が起ころうと、絶対にこの勝利を奪うことはできない。初めてライバル関係が現実のものとなったと思う」と振り返っている。

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  • Michael Ballack Oliver Neuville Germany 2002 World CupGetty Images

    疑惑の判定

    宿敵を下した自信を手に準々決勝に進んだアメリカ。しかしこの大舞台で目にしたのは、ワールドカップ史上最も物議を醸した瞬間だった。

    オリバー・カーンやミヒャエル・バラックといった世界的スーパースターを擁するドイツと対戦したアメリカは、前半のうちにバラックのゴールで失点。夢をつなぐためにもゴールが必要は状況でハーフタイムを迎えていた。しかし、ドノバンがカーンに2度のセーブを強いるなど、後半に向けて流れを掴みかけていた。逆転の予感すらあったのだった。

    そして、その決定的な瞬間が訪れる。クラウディオ・レイナのクロスをグレッグ・バーハルターがボレーで合わせるが、再びカーンに阻まれる。しかし跳ね返ったボールは、ゴールライン上のトルステン・フリングスの腕に当たっていた。彼の腕に当たったことは、映像を見れば誰も否定できないはずだ。これでレッドカードとPKが与えられれば、試合の流れは大きく変わったはずである。だが、審判が笛を吹くことはなかった。そのままプレーを続行している。

    アリーナ監督は試合後、「100%PKだった。不正に奪われたと言いたくはないが……我々は試合の流れを握っていた。試合を支配していた。ドイツに勝利し、準決勝に進んでいたはずだ。この試合から得た結論の一つは、我々アメリカはまだ世界の尊敬を勝ち取っていなかったということだ」とコメント。判定に怒りを爆発させている。

    結局0-1で敗れたアメリカは、準々決勝で姿を消した。あのハンドは未だに語り継がれる重要な場面である。しかし、アリーナ監督が話した「世界の尊敬」は、この大会で確実に勝ち取っている。ドイツのレジェンドであるフランツ・ベッケンバウアーは、「アメリカが勝ち進むに値したよ」と明言もしているのだ。

    2002年のあの日、アメリカは世界のどのチームとも互角に戦えると示した。結果こそあれ、この試合は今なおアメリカサッカー史上における最大の出来事の一つとして語り継がれている。

  • Landon Donovan USMNT 2002 World CupGetty Images

    レガシー

    23年が経った今も、アメリカはあの夏を追いかけている。2002年大会以上の結果を残せたことはなく、正直に言えば世界を驚かせた瞬間もない。

    この2002年大会は、アメリカが真の意味で世界の舞台でデビューした大会であった。アメリカサッカー界はこの大会を機に大きく変貌を遂げ、ドノバンとビーズリーというスター選手が道標となり、ミクブライド、レイナ、ブラッド・フリーデルといった選手たちは伝説として歴史に刻まれている。アリーナ監督も同様だ。アメリカ、メキシコ、カナダで行われる2026年大会が迫っているが、依然として2002年大会はアメリカの基準となっている。

    ワールドカップという大会を勝ち抜くには、サッカー的な要素はもちろんだが、何よりも運が必要になる。それをアメリカは嫌と言うほど味わった。そして自国開催の2026年こそ、アメリカがガラスの天井を突き破って次の段階へ進む年になるかもしれない。マウリシオ・ポチェッティーノ監督は、目標を「準々決勝進出」と明確に定めている。彼らは来夏、2002年大会のチームを超えてサッカーの歴史に名を刻むことができるのだろうか。

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