「一回呼ばれてその後呼ばれない選手も少なくない中で、二度目を呼んでいただきました。すごくありがたかったですし、嬉しかった」。9月の欧州遠征で日本代表に初招集され、トルコ戦で先発出場。自らボールを奪って攻め上がり、中村敬斗(ランス)の得点をアシストするなど、確かな存在感を示したセレッソ大阪・毎熊晟矢。25歳で初の代表入りを果たした右サイドバックはJ2のV・ファーレン長崎でプロキャリアをスタートすると同時にFWからSBにコンバートされた異色の存在だ。そんな毎熊に自身のサッカーキャリアについて話を聞いた。【取材協力:ABEMA】
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©CEREZO OSAKA中学、高校時代の経験が今も生きている
サッカーを始めたのは4歳のころ。当時は大分県に住んでおり、「近所の公園でたまたまやっていた」大分トリニータのスクールに通うことになった。その後、小学校1年生で長崎県佐世保市、その後は長崎市と引っ越しのため所属クラブを代えながらもサッカーを続けてきた。選手としての礎を築いたこの時代、一番影響を受けた指導者として中学時代の恩師の名を挙げる。
「影響を受けたのは、中学校時代のクラブ(BRISTOLサッカークラブ)で監督をされていた大久保誠さんです。大久保監督は元プロ(サンフレッチェ広島に所属)で、一緒にプレーしていただくことで、プロの技術やサッカーの奥深さを学ぶことができました。小学校の時の自分はただ単純にサッカーを楽しんでいただけでしたが、異なる意味でのサッカーの楽しさを知ることができました」
9月に日本代表に初招集されたときは、大久保監督から「伝える前にLINEが来た」と笑顔を見せた。中学を経て進んだのは名門・東福岡高校。「もっと高いレベルでサッカーがしたい」という気持ちから長崎を出る決断をする。
「高校時代は今までの人生で一番キツイ3年間でした。でも、今のスタイル、攻守でハードワークする部分は、そこで築き上げられたと思います。東福岡で学んだことは今も生きていると感じます」
東福岡高では3年次にインターハイで優勝し、高校選手権でも全国を制しているが、C大阪の公式インタビューで「けがをしていたので全部ベンチで悔しかった」とも振り返っている。
Getty ImagesSBは人生でやったことがなかった
プロになる夢を抱いた時期は大分のスクール時代に遡る。「よく試合を見に行っていて本当にかっこよくて。こういう人たちになりたい」と感じた気持ちが最初だった。東福岡高から桃山学院大を経てV・ファーレン長崎に加入することで目標を達成することになるが、その道はそんなに簡単ではなかったという。
「大学3年で選抜にも選ばれていたので、オファーをいただけるかな? と思っていたんですが、なかなか来なくて。(長崎からの練習参加の打診は)3年の最後のほうでした。その後2回練習に参加して、オファーは4年の夏でした。結構焦っていた部分もありましたし、本当にホッとしました。すごく嬉しかったことを今でも覚えています」
2020年、晴れて故郷のJクラブに加入し、ここで転機を迎えることになる。手倉森誠監督(現・チョンブリFC監督)にFWからSBにコンバートされるのだ。
「SBは人生でやったことがなかったので、すごくビックリしましたし、イヤでした。ずっとFWでやってきて点を取るのもすごく好きでしたし、右SBがその時チームに一人しかいなくて1年目でもあり、穴埋めでやらされているのかな? っていう気持ちもあったので」
「(監督から)説得はされていないんです。試合の前日に『やってみて』って言われて。はい、しか言えなかったです」
「いや、もう本当に全く分からないに等しいぐらいでした。守備の仕方がとにかく分からない。当時、左SBを亀川諒史選手(現・アビスパ福岡)がやっていて、とにかく練習ごとに、ここはどうするんですか? と聞きに行っていました。僕は亀川選手をSBの師匠って呼んでいます」
“師匠”のおかげもあり、1年目はJ2リーグ戦36試合に出場し3得点。2年目には38試合に出場し3得点をあげるなど、試合に出続けることで「2年目にはいろんなクラブとお話する機会が多くなった」。その中から選んだのはC大阪。「最初に声をかけてもらい、一番評価してくれると感じた」ことで移籍を決めた。そして、新チームでもまたSBのスキルを磨く機会に恵まれる。
「長崎では攻撃でどんどん前に入って行く、進入していくことを自分の武器としてやっていました。でも、セレッソでの1年目は右SBに松田陸選手(現・ヴァンフォーレ甲府/期限付き移籍中)がいて、サイドハーフで出ることが多かったんです。松田選手の動きを一番近くで見られて多くを学びました。作りの部分でのポジショニングに本当に無駄がなくて。すごく学ぶことが多かったです」
GOALアピールしないと生き残っていけない
「SBをやり始めてから、SBで代表を目指したいと思っていた」と語るその目標を実現したのがプロになって4年目、9月の欧州遠征だ。招集選手26名のうち、Jリーグに所属するのは4選手。「海外でプレーする選手ばかりの中で、トレーニングからとにかく毎日が刺激でした」と語るが、課題もあった。出場したトルコ戦では相手を止め切れず、日本の失点につながるFKを与えている。
「トルコ戦で失点したシーンでは体負けしてファウルをしてしまったので。そこは国内でやっている中での一番の課題だと思いました」
「代表からチームに帰って、もちろん体のトレーニングはやっていますし、すぐに変わると思いませんけど、体の当て方や当てるタイミングも全然違うので、意識してやっています」
「寄せるスピードであったり、守備のときに当たる強さであったりは、やはり海外と比べて全然違うと感じました。帰って来てこちらのスピードに合わせるんじゃなくて、自分は向こうで経験したスピードを維持しようと取り組んでいます。体の部分も激しめに行って、ファウルになってしまうかもしれないですけど、気にせずに強く当てるように心がけています」
饒舌ではなくそれぞれの質問をよく考えて、丁寧に受け答えをするタイプの選手でもある。しかし、今後についてはハッキリした目標を口にする。
「すぐ代表があります。まだまだ自分は“下”…っていう言い方はおかしいかもしれないですけど、試されている部分は多いと思います。アピールしていかないと生き残っていけない。代表に定着できるように、日々の練習からアピールしてやっていきたいですし、代表で経験したことで自分が成長すれば、セレッソにも還元できると思っています。まずはそこでしっかりとやって、セレッソに帰って来てチームに還元することを目標にやっていきたいと思います」
日本代表合宿は9日にスタート。13日にはカナダ代表と新潟で、17日にはチュニジア代表と神戸で対戦する。今回の活動は11月に控える2026年ワールドカップ(W杯)アジア2次予選前の最後のテストの場でもあり、右SBのポジションは菅原由勢(AZ)、橋岡大樹(シント=トロイデン)との争いとなる。課題を克服し、自身が一番の特長とする「相手の深い位置まで入って行く攻撃参加」を見せる毎熊に期待したい。
■DF 16 毎熊 晟矢(まいくま・せいや)
1997年10月16日生まれ、25歳。179cm/69kg。長崎県出身。黒髪FCジュニア→JFCレインボー長崎→FC BRISTOL U-15→東福岡高→桃山学院大を経て、2020年V・ファーレン長崎(J2)に加入。初年度からコンスタントに出場を重ね、22年セレッソ大阪に完全移籍。23年9月、日本代表初招集。J1通算55試合出場4得点、J2通算74試合出場6得点、日本代表Aマッチ1試合出場(23年10月6日時点)。
ABEMA TV【槙野智章氏とABEMAの企画で対談!】
このインタビューの前に毎熊はABEMAスポーツタイムの番組企画で槙野智章氏と対談した。「今までで一番話しやすかったんじゃないかぐらいに喋れて、すごく自分を引き出していただいた」と語る。番組では、9月の代表活動の際に知り合いのいない毎熊に話しかけてくれた上田綺世とのコミュニケーションの話を始め、同い年・三笘薫をどう呼ぶか、また映像を見つつのアシスト、失点シーンの分析など多岐にわたっている。ぜひ、「ABEMA」にて無料配信しておりますので、ご覧ください。