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マラドーナ「神の手」は路地裏で買った“偽ユニフォーム”で生まれた?1986年ワールドカップとアルゼンチンを象徴する物語【ICONS】

ワールドカップでは、フットボールの歴史を作る伝説的な瞬間がいくつも生まれてきた。しかしその偉大なストーリーの周辺には、その大会や時代を照らし出す小さなエピソードも数多く生まれている。

1986年のメキシコ大会は、そうした瞬間に溢れていた。全選手を苦しめた猛暑やカルロス・ビラルド監督が文句を言い続けた標高差、マラドーナのあの有名な記者会見もその1つ。しかし、最も忘れがたく理解しがたいエピソードは、準々決勝イングランド代表戦で着用した“偽物のユニフォーム”だろう……。

  • Argentina Manager Carlos Bilardo 1984Hulton Archive

    疑念の中で

    アルゼンチンは、この大会に優勝候補として挑んだわけでは決してない。それはスペインでの1982年大会の記憶が重くのしかかっていたからだ。1978年大会で優勝を成し遂げ、タイトル防衛に挑んだアルビセレステだったが、21歳のマラドーナがブラジル戦で退場するなど、チームは2次リーグで崩壊。「失敗」という言葉が完全に当てはまる大会だった。さらにその苦い記憶を払拭しようとビラルドが指揮官に就任したが、その守備の秩序と規律を最優先するアプローチに国民からは「守備的」「計算高い」「本質を殺した」とまで非難されている。大会前の結果も振るわず、ジャーナリストの中には「グループステージ突破で面目を保つのが目標」と書くものすらいた。

    さらに国自体も非常に混乱しており、ラウル・アルフォンシンの築く若き民主主義は軍事独裁政権後の政治的・経済的緊張の中で基盤固めに大苦戦。だからこそ国民はフットボールに強い思いを持っていたが、ビラルドを信じるものはほとんどおらず、敵意すら抱いているファンが大多数だったのだ。

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  • Maradona 1982 Argentina Brasil 24 10 2016

    希望と混乱

    そうした疑念の中で、唯一確固たる希望があった。ディエゴ・マラドーナである。当時25歳だった彼は最高のコンディションであり、さらにメンタル的にも最高の状態だった。82年大会の悪夢を振り払うため、国民に「僕らは戦うためにここにいる。今こそ僕らの時なんだ」と訴えかけている。そしてビラルドも彼中心のチームを作り、「軸はディエゴ。彼の最高のプレーを引き出すために戦う」と語っている。86年大会のアルゼンチンは、すべてがマラドーナ中心に回っていた。

    しかし、課題はピッチ内や自国のことだけではない。トルーカやメキシコシティといった高地都市、灼熱の太陽、当時の大会運営のずさんさも、大きな障害となっていたのだった。

    そんな希望と混乱が入り混じる中で、あの奇妙なユニフォーム騒動が発生したのである。

  • ユニフォーム事件

    1986年6月22日、アルゼンチンはアステカ・スタジアムでイングランドと準々決勝を戦うことになっていた。FIFAは「単なるフットボールの試合」と強調したが、アルゼンチン国民にとってはそうではない。わずか4年前のフォークランド紛争で両国は敵対し、アルゼンチンには決して癒えぬ傷と痛ましい記憶が刻み込まれている。

    そうした状況下で、FIFAはイングランドの白と区別するためアルゼンチンに暗い色のユニフォーム着用を指示した。これだけ聞くと些細なことかもしれないが、問題はアルゼンチンが暑さに対応できるような代替ユニフォームを持っていなかったこと。すぐに準備できるのは厚手の綿製で、重くメキシコの太陽の下では決して着ていられないものだった。過酷な試合では些細な出来事が勝敗を分けると感じていたビラルドも、選手に着せることはできないと判断している。オスカル・ルジェリは後年こう回想している。

    「エクトル・ゼラダがテピトの街を知っていたからスタッフがそこに向かったんだ。キットマンにリュック持たせて派遣すると、厚手のユニフォームを1枚持ち帰ってきた。でも、追い返すことになった。試合はやらなきゃいけないし……そして別のユニフォームを探しに行って、気に入ったものを持ち帰ってきたんだ」

    息苦しいユニフォームを着用して暑さに耐えながら試合をするか、街に出て新たなユニフォームを探すのか……テピトを舞台にした奇妙なエピソードの始まりである。

  • 可能性のマーケット

    テピトはメキシコシティを代表する地区であり、活気に満ち、危険で、そして同時に魅力的な街である。「タフな地区」として知られるこの場所は、非公式な商業活動、ストリートカルチャー、そして無限の模倣品で有名だ。1980年代には既に、映画からスポーツウェアに至るまで海賊版商品を販売することで悪名高かった。

    ワールドカップの熱狂の中、テピトの街には各国代表チームのユニフォームが溢れていた。多くは地元で公式もよりチープな素材で作られた、高品質な模造品だった。アルゼンチン代表のキットマンたちは、控えエクトル・ゼラダの案内で必死にこの地区を探し回った。マラドーナは後に、「軽いものを頼んだんだが……そしたら見つけてくれたんだ」と振り返っている。

    路地裏での交渉はスピーディーにまとまったが、売り手はまったく信じられなかった。本物のアルゼンチン代表チームが、偽物と知りながらユニフォームを買うなんて……だが、選手たちの希望が最優先された。問題を解決しなければならず、その手段がコピー品だったのだ。

    手に入れたユニフォームは、まさに理想的だった。軽量な青のポリエステル地にルコックスポルティフのロゴが刺繍され、公式品とほぼ同じだがずっと新鮮だった。文字通り、完璧な解決策である。

  • BRITAIN-FBL-WC 1986-ARG-ENG-MARADONA-SHIRT-AUCTIONAFP

    時間との戦い

    こうして手に入れたコピー品をキットマンが持ち帰った後、重要な工程が残っていた。「AFA」のエンブレムと背番号を入れることで公式キットに仕上げなければならない。それはほぼ手作業で行われた。アイロン、針、糸、生地の裁断まで――全てが時間との戦いだ。

    スタッフの1人であるルベン・モスケラは、AFA公式サイトで「全部覚えているよ。深夜まで働くキット担当、時に歪んでしまうエンブレムの縫い付け、ずれた背番号、選手ごとに目に見える違いのあるユニフォームをね」と回想している。一方でホルヘ・バルダーノは、その仕上がりに大満足だったようだ。「銀色の背番号が入った、輝くような青いユニフォームが現れた。マラドーナが『なんて美しいユニフォームだ』と言ったね。我々みんなが驚いたよ」と語っている。

    時間がない中で手作業で仕上げれば、当然のように個体差が生まれる。明らかに即興で作られたようなものがあったのも確かだ。しかし、それはチームにとっての問題ではなかった。灼熱に耐えられる薄手のユニフォーム、これが政治的にも非常に大きな意味を持つ一戦に間に合ったことが、なによりも重要だったのだ。

  • Diego Maradona Hand of God Goal Argentina v England 1986Hulton Archive

    「神の手」

    そして肝心の試合については、世界中のファンがご存知だろう。即席ユニフォームを身にまとったアルゼンチンは、アステカでフットボールの歴史に名を刻んだのである。

    もちろん代表されるシーンは、マラドーナの「神の手」だ。こっそりボールに触れながらネットに押し込むと、イングランド側は猛抗議したが、主審はゴールを認めている。

    今にして思えば、このプレーは偶然ではなかったのかもしれない。賢さ、ウィット、そして予想外の事態を引き起こし、それに対応する能力。テピトの街を走り回ってユニフォームを調達したあのメンタリティが、不滅のゴールという形でピッチに再び現れたのだ。

  • TOPSHOT-WORLD CUP-1986-ARG-ENGAFP

    「5人抜き:世紀のゴール」

    だが、この試合はそれで終わらない。「神の手」から4分後、マラドーナは自陣でボールを受け取ると、5人の相手をドリブルでかわし、、GKまで冷静に抜き去ってゴールを決めた。伝説の「5人抜き:世紀のゴール」である。現代でも研究機関で解析されるほどであり、映像では真の意味で理解できない瞬間だった。

    彼のタッチ1つ1つが自由への宣言であり、緩急は運命への挑戦のようだった。マラドーナが運んだのは、ただのボールではない。時代に苦しめられ、英雄を必要としていたアルゼンチン国民の希望を運んだのだ。そして、それをいたずらのような足技で次々と相手を騙して運んでいく……その対比こそ、ストリートと芸術性、即興性が共存するアルゼンチン・フットボールのDNAを体現している。

    こうしたすべての伝説的な瞬間は、路地裏のマーケットで購入した鮮やかな青いシャツの下で生まれている。試合開始直前に急いで準備したコピー品は、ワールドカップ史上最高の瞬間を永遠に纏うことになる。

  • Argentine soccer star Diego Maradona, weAFP

    調和

    1986年大会のアルゼンチンは、スタッフを含めたチーム全員の創意工夫で頂点に立った。ビラルドは練習スケジュールから選手の水分補給まであらゆる細部を執拗している。だが、彼ららしい即興性も忘れていない。あの「神の手」や「5人抜き:世紀のゴール」、そしてテピトのユニフォームがそれを表している。

    決勝のドイツ戦では、バルダーノとロマン・ブルチャガがアルビセレステの夢を現実のものとした。だが大会を通じてすべての試合で、彼らは戦術的規律とストリートを融合させたメンタリティで戦っている。この融合こそが鍵であり、ビラルドの秩序はチームの基盤を支え、マラドーナの閃きは相手のすべてを破壊する。両立不可能と思われた2つのビジョンが、メキシコで調和を見出したのだ。

  • Sotheby's Displays Maradona's Historic 1986 World Cup ShirtGetty Images Entertainment

    当然のことだが、あのテピトのユニフォームが着られることは二度となかった。だが、コレクションとしての価値は計り知れない。その価値は物というよりも、象徴的なものだ。今では、マラドーナのあのゴールに匹敵するほど伝説として語り継がれている。銀色の背番号が輝くあのユニフォームを見る現代のファンは、それがただのコピー品であるとは思わないはずだ。むしろ、不屈の精神と知恵の象徴として捉えている。栄光は往々にして即興から、決定的となる小さな決断から紡がれることを、このユニフォームは思い出させてくれる。

    アルゼンチン国民にとって、あのユニフォームはもはや「偽物」ではない。フットボール史上最も重要な試合の1つでピッチに立ったからこそ、本物の価値を持つのだ。海賊版が文化的宝となった瞬間である。

  • Argentina Team v England 1986 FIFA World Cup Quarter FinalHulton Archive

    レガシー

    マラドーナの伝説的なゴールが語られるたびに、ホテルでユニフォームを縫ったキットマンたちの姿も思い出されるべきだ。あの軽量なユニフォームがなければ、伝説的な瞬間は生まれなかったのだから。

    1986年メキシコ大会がワールドカップ史上最高の1つに数えられるのは、マラドーナという存在があったからだけではない。偉大なエピソードを生み出すために、人々の知恵が集まった小さなエピソードがあったからである。このエピソードは、フットボールが決してピッチ上だけのものではないことを象徴している。路地裏のマーケットにも、ホテルの廊下にも、キットマンの手の中にもフットボールは存在する。文字通りであれ比喩的であれ、一針一針が叙事詩を紡いだのだ。

    こうして、創意工夫と閃き、偽りと永遠の間で、アルゼンチンはフットボール史に最も輝かしい一章を刻んだ。メキシコシティの労働者階級地区とマラドーナの伝説が絡み合う物語を。