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ミシェル・プラティニ:ユヴェントス、フランス代表で世界の頂点に立った気品あふれる“将軍”【GOAL's Hall of Fame】

プラティニのキャリアは三段階に分けられる。サンテティエンヌでの台頭と勝利、ユヴェントスでのイタリアとヨーロッパの支配、そしてフランス代表での成功。これら全てを締めくくるように、彼は3年連続でバロンドールを受賞した。

あの時代にプラティニが作り上げた選手像は、今の時代にも引き継がれている。彼はストライカー以上にゴールを奪えるミッドフィルダー、あるいは最高のプレーメーカーのように試合を組み立て支配し、ゴールを決めるストライカーとも言えた。数々の名選手を生み出したフットボール大国フランスだが、彼以上の存在と言える選手はほとんどいない。

  • イタリアのルーツ、フランスの気質

    プラティニのルーツはイタリアにある。父方の家族はピエモンテ州アグラテ・コントゥルビアの出身であり、母方の家族はヴェネト州ベッルーノ県に由来する。しかし、プラティニ自身はフランス北東部ムルト=エ=モゼル県のジョセフで生まれた。

    そこで彼はキャリアの第一歩を踏み出した。最初はASジョエフ、次にナンシーでプレーした後、サンテティエンヌ、そして何よりもユヴェントスでトップリーグへの飛躍を果たした。キャリアの絶頂期、プラティニは地に足のついた出自にシャンパンのような輝きを加えた。攻撃的なプレーと技術的な美の追求、そして効果性と勝利への渇望に捧げられた独自のスタイルで。

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  • FOOT-AS SAINT ETIENNE-PLATINIAFP

    フランス時代

    プラティニは10代プロデビューを果たす。ナンシー1972年~79年にかけて215試合に出場、127ゴールを記録した。この間、2部リーグ優勝とクープ・ドゥ・フランス制覇を経験している。

    そして1979年、ナンシーから当時のフランス最強チームであったサンテティエンヌへ移籍。レ・ヴェール(緑軍)での3シーズンで145試合に出場して82ゴールを記録、1981年にはリーグ優勝も達成した。

  • Michel Platini JuventusGetty Images

    ユヴェントスでの輝き

    そんな彼の才能に、ユヴェントスとフィアットのオーナー、ジャンニ・アニェッリは惚れ込んでいた。当時のビアンコネリは国内では圧倒的な強さを見せていたが、1977年のUEFAカップを除けば欧州タイトルを一切獲得できていなかった。だからこそ、彼の力が必要だったのだ。

    アニェッリは、自らの悲願を叶える形で1982年にプラティニを獲得。さらに、伝説的なポーランド人FWジビ・ボニエクに加え、1982年スペインワールドカップ優勝メンバー6名(ディノ・ゾフ、クラウディオ・ジェンティーレ、アントニオ・カブリーニ、ガエターノ・シレア、マルコ・タルデッリ、パオロ・ロッシ)が揃うチームに最高の才能を加えている。

    トリノでの生活に慣れるまで数カ月かかったが、最高速度に達したプラティニは一度も振り返るこなく、まさに伝説的な旅路へと踏み出した。ユヴェントスでの5年間で、彼はスクデット2回、コッパ・イタリア1回、欧州チャンピオンズカップ1回、インターコンチネンタルカップ1回、カップウィナーズカップ1回、UEFAスーパーカップ1回を獲得した。ビアンコネリでの224試合で、フリーキックやPKからヘディング、両足での強烈なシュートまで、あらゆる方法で104ゴールを叩き出した。

    プラティニの卓越した技術は、ジョヴァンニ・トラパットーニ監督の現実主義と、当時のユヴェントスを支えたイタリア人中核選手の勝利への執念と見事に調和した。彼はチームの要となり、国内での連勝を続けながら欧州でも成功を収め、チームを新たな高みへと導いた。この活躍が「オールド・レディ」の国際的な地位確立に貢献したのである。

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    3度のバロンドール

    プラティニの活躍が際立っていた理由は、当時世界で最もエキサイティングかつ厳しいリーグでそれを成し遂げていた点にある。彼はディエゴ・マラドーナ、ジーコ、カール=ハインツ・ルンメニゲらを上回るゴール数を記録し、セリエA得点王を3度獲得した。

    そんな“将軍(ル・ロワ=本来は王の意)”は、1983年から3年連続でフットボール界最高の個人賞であるバロンドールを受賞。特に2度目の受賞年は、彼のキャリアにおける最高の年となった。1984年は、プラティニのキャリアの頂点だ。ユヴェントスでスクデットとカップウィナーズカップを制し、セリエA得点王に輝くと同時に、EUROではフランス代表を優勝に導いた。この大会では、通算9ゴールを記録。この数字は40年以上経った今も破られていない。

  • Michel Platini France 1984Getty Images

    フランスを変えた男

    もちろん、その輝きはクラブだけにとどまらない。プラティニは、フランス代表のフットボール界における地位を変える決定的な役割を果たした。レ・ブルーは脇役から主役へと変貌を遂げ、1982年と1986年のワールドカップでいずれも3位に入り、1984年にはEUROでトロフィーを掲げることになる。

    EURO1984は、まさにプラティニの大会だった。グループステージ初戦となるデンマーク戦は決勝ゴールを奪い、ベルギー戦(5-0)では2ゴールを記録し、ユーゴスラビア戦では地元サンテティエンヌの熱狂的なサポーターの前でハットトリックを達成した。

    フランスは準決勝でポルトガルに延長戦まで持ち込まれ、残り6分で2-1と追い込まれるという最大の試練に直面した。しかし絶体絶命の状況で、試合を掌握したのはプラティニだった。その6分間で2ゴールを叩き込んだのである。誰もが信じられなかった逆転劇を彼が起こしたのだ。

    その勢いは決勝でも止まらず、スペインとの第なるではFKを叩き込んで先制点をマーク。2-0の勝利に導いた。パルク・デ・プランスは熱狂に包まれる。そして大歓声が湧き起こる中、キャプテンであるプラティニがトロフィーを掲げ、フランス初の主要国際大会優勝を祝った。

  • Maradona PlatiniGetty Images

    史上最高のフットボーラー

    おそらく世界的なイメージでは、プラティニよりもマラドーナの方が上だろう。彼が成し遂げたことは二度と起こり得ない偉業であり、様々な意味でペレやリオネル・メッシと並び、史上最高のフットボーラーである。

    だが1982年~1985年までの3年間に限れば、間違いなくプラティニはマラドーナを上回っていた。最も強く、最も効果的で、最も偉大であり、ヨーロッパフットボール界の誰よりも優れた活躍を見せたのだ。だからこそ、彼もまた史上最高のフットボーラーの1人として記憶されるべきなのである。

  • Michel Platini JuventusGetty Images

    型破りな品格

    彼の魅力はもちろんピッチ上だけでなく、フットボール外で見せる型破りな品格によって象徴的な存在となっている。真の“将軍”にふさわしく、ユーモアと威厳を兼ね備えたものだった。

    彼は自身のキャリアについて、こう語ったことがある。「ロレーヌ最強のチームでプレーを始め、フランス最強のチームで続け、世界最強のチームで終えた」と。これはキャリアを通じてナンシー、サンテティエンヌ、ユヴェントスの成功に果たした自身の役割を最高の言い回しで表現したものだ。

    また、アニェッリから「ハーフタイムにタバコを吸っているという噂は本当か」と問われた際、彼は「会長、重要なのはマッシモ・ボニーニが吸わないことです。走る必要があるのは彼ですから」と答えたこともある。そんなプラティニに惚れ込んだアニェッリは、後年こう語っている。

    「我々はプラティニをピタンス(古フランス語:教会が信者に与える少量の食事やワイン)で獲得した。そして、彼はフォアグラで締めくくってくれた」

  • Michel PlatiniGetty Images

    早すぎる別れ

    そんなプラティニだが、その偉大なキャリアは早々に幕を閉じることになる。彼に最も影響を与えた出来事、それは1985年の「ヘイゼルの悲劇」だ。

    UEFAチャンピオンズカップ決勝戦の直前、スタジアム内でサポーター同士による暴動が発生。死者39名、重軽傷者600名を出す惨事となった。彼は予定から1時間遅れて開始されたファイナルでPKを沈め、ユヴェントスに優勝をもたらしている。しかし、この出来事が彼にスパイクを脱ぐことに繋がっている。

    「人生最悪の試合だった」、「この試合の後、罪悪感に悩まされるようになり人生は変わってしまった」

    その後トヨタカップのために来日し、大会史上最も美しいゴールも決めたプラティニ。だが、あの悲劇から2年後、わずか32歳という若さで現役を引退する。彼はその理由をこう語った。

    「大切なのは、常に自分自身に誠実であることだ。ピッチでそれを貫けなくなった。だから去った」

    最初から最後まで、彼はピッチ内外で気品を感じさせる男だった。そんな選手は、今までもこれからも、ほとんど現れないだろう。

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