ロベルト・レヴァンドフスキの母親は、レギア・ワルシャワの練習場の前に車を止めて息子を待っている。彼女は、たった1つの大きな夢、プロ・フットボーラーを目指す息子の迎えに来ていた。しかしこの日、その夢は永遠に打ち砕かれるかに思われたのだった。
AFP突然の契約拒否
レヴァンドフスキの後に、『BBC』のインタビューで当時のことを「レギア・ワルシャワから追い出されたことは、僕の人生でも最悪の瞬間の1つだった」と振り返っている。
ドルトムントやバイエルンで数々の記録を打ち立て、37歳となった現在もバルセロナで活躍するレヴァンドフスキ。しかし、キャリア初期に苦難を経験している。2005年にデルタ・ワルシャワから名門レギアに加わり、Bチームでプレーしていたが、クラブは彼を信じていなかった。チームドクターは「プロになるには身体が細すぎるし、フィジカル面が弱すぎる」と判断。責任者へ、新契約を結ばないように助言している。
「本当に辛かったよ。僕は17歳で、まだ運転免許を持っていなかった。だから母が車の中で練習が終わるのを待っていたんだ。僕の表情を見た母は、何が起きたのかを一瞬で理解していたよ」
「それまでは、誰も僕に自分の立場を教えてくれなかった。事務局に行き、選手パスを渡され、移籍金なしでフリーになることを告げられたんだ」
突然契約更新を拒否され、それを告げられる瞬間は、プロ・フットボーラーにとっては世界が崩壊するような出来事だ。しかし、レヴァンドフスキは諦めなかった。1年半前に父親を失うという悲劇を経験したにも関わらず……。
「母と妹の3人だけだったんだ。僕が男らしく立ち上がなければいけなかったんだよ」
ポーランド3部からの復活
「母に『これからどうするの?』と聞かれた。次のステップを考えなければいけなかった。フットボールを辞めるべきか? それは僕にとっては現実的じゃない。レギアが間違っている可能性もあったからね。母は『新しいクラブを探そう。ピッチに戻ればもう一度調子を取り戻せるはず』って言ってくれたんだ」
レヴァンドフスキは、レギアが解雇を決断する数カ月前に負傷し、長期離脱を余儀なくされていた。「ドクターは間違った判断を下した。僕はコンディションを取り戻すために2カ月ほどの時間が必要だと言ったが、彼は『準備は整わないだろう』とだけ言ったんだ」と語っている。そしてその言葉通り、2週間後には新しいクラブを見つけている。
レヴァンドフスキは、当時ポーランド3部リーグで戦っていたズニチュ・プルシュクフへと加入。レギアに対して「自分にはトップストライカーとしてのポテンシャルがある」と証明したい一心で、強い覚悟を持って仕事に取り組んでいた。
「『自分には何もできない』と誰にも言わせないよ。僕は人生で何度もそんなことを経験してきた。それはまったくのナンセンスなんだ」
「僕がトッププレイヤーになれるといったコーチは1人もいない。確かにゴールは決めていたけど、コーチから『こうすればトップレベルに到達できる』とアドバイスを貰ったことはない」
しかし、プルシュクフへの移籍はまさに正しい決断だった。移籍1年まで得点王となってクラブを2部昇格に導くと、2007-08シーズンも21ゴールを奪って再び得点王に輝いている。
その後、レギアが自分たちのミスを認め、レヴァンドフスキの復帰を希望したかは定かではない。いずれにせよ、彼は2008年の夏、20歳の誕生日目前にレフ・ポズナンへ加入し、その直後にはポーランド代表に選ばれた。そしてそれ以降のことは……誰の目にも明らかだろう。