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ルーニー、C・ロナウドら…21世紀のマンチェスター・ユナイテッド最高の選手ベスト25ランキング

マンチェスター・ユナイテッドの21世紀はブラジルのビーチから始まった。前年のインターコンチネンタルカップでパルメイラスを破り、正式に世界一のチームとして第1回のFIFAクラブワールドカップを戦っていたのだ。この大会に参加するため、ディフェンディング・チャンピオンだったFAカップに出場しないという衝撃の決断を下していた。

レッド・デビルズは新世紀の最初の14年でリーグ優勝を8回達成したが、2013年にサー・アレックス・ファーガソンが勇退して以降、下降線をたどっている。上位4チームに入らなかった年の方が多く、主要大会を5回しか優勝していない。新世紀に入ってからの25年の半分の間には13回も優勝していたのにかかわらずだ。

従って、21世紀になってからの25年間におけるマンチェスター・U所属選手のベスト・ランキングのリストに、ファーガソン時代の選手から多くが選ばれるのは当然のことである。2000年1月以降のプレーだけを考慮するため、2世紀にまたがって活躍したデニス・アーウィン、ヤープ・スタム、テディ・シェリンガムといった選手たちは選考から漏れている。誰がリストに載り、誰が載らなかったのか、見ていこう。

  • Antonio Valencia Manchester UnitedGetty Images

    25アントニオ・バレンシア

    マンチェスター・ユナイテッドが、当時の世界最高額である8,000万ポンドでクリスティアーノ・ロナウドをレアル・マドリーに渡した時、その代わりを求めた先がウィガン・アスレティックだと予想したファンは多くなかった。確かにアントニオ・バレンシアはC・ロナウドではなかったが、堅実かつ多才でクラブを愛していることを証明してみせた。

    このエクアドル代表はオールド・トラッフォードに10年在籍したが、最初は右ウイングとして、その後は右サイドバックにコンバートされた。最初の数年は英語がほとんどしゃべれなかったが、マンチェスター・Uでのキャリアの終盤にはチームで最もベテランの選手のひとりとなり、ヨーロッパリーグ決勝と最後のシーズンにチームのキャプテンを務めた。

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  • Darren FletcherGetty

    24ダレン・フレッチャー

    当時15歳のダレン・フレッチャーがユナイテッドを去ってニューカッスルに行こうとしていることを知ったファーガソンは、電話で激しくフレッチャーを問い詰め、エディンバラまで車を飛ばしてチームに残るよう説得した。その後フレッチャーは二度とファーガソンの怒りを買うようなことはせず、さらに13年間マンチェスター・Uに在籍した。

    フレッチャーは究極のチームプレーに徹する選手だったが、2008-09シーズンに押しも押されもせぬ先発メンバーに成長した・だがチャンピオンズリーグの決勝では、準決勝のアーセナル戦の終盤に早々と勝利は決まっていたにもかかわらず相手選手へのタックルでレッドカードをもらって出場停止となっており、残念ながらプレーできなかった。あの瞬間はフレッチャーの無私の姿勢を具現化したものだった。

    さらに悪いことに、2年にわたって体力を奪う胃の病気と闘うことになってしまった。元スコットランド代表のフレッチャーはサッカーと同じように病気と闘い続け、最終的にキャリアを続けることができた。引退までマンチェスター・Uに忠誠を尽くし、テクニカル・ディレクターやアシスタント・コーチとしても働き、双子の息子がクラブのU-18でプレーしている。

  • Louis SahaGetty

    23ルイ・サハ

    ケガさえなければルイ・サハはどれほどの栄光を得ただろうか。この元フランス代表は2004年1月にフラムから1,200万ポンドで加入した後、サウサンプトン戦で衝撃のマンチェスター・Uデビューを果たした。先発した最初の10試合で7得点を挙げている。

    翌シーズンはケガにたたられ、2得点しかできなかったが、復調した後は自身の真の価値を披露。2005-06シーズンと2006-07シーズンに合わせて28得点13アシストを記録した。

    2006年には5試合で6得点を挙げてマンチェスター・Uのリーグカップ制覇に貢献し、翌シーズンのプレミアリーグ優勝でも大いに活躍した。しかしながら、さらなるケガのためそのシーズン終盤にプレーすることができなくなり、翌シーズンはカルロス・テベスとの競争もあって、まったく成長できなかった。何度も挫折を味わいながら、平均して3試合に1得点を決めている。

  • Dimitar Berbatov Man Utd 2010-11Getty

    22ディミタール・ベルバトフ

    2008年、移籍の締切日にファーガソンは決してディミタール・ベルバトフをマンチェスター・シティと契約させないという決意をもって空港に迎えに行き、オールド・トラッフォードへ直行し、トッテナムからの移籍を完結させた。この元ブルガリア代表は、見るものを楽しませる選手であった。

    しばしば歩くようなスピードでプレーしていたが、時には同僚たちとはまったく別次元のプレーを見せた。たとえば、マンチェスター・Uに入ったばかりの頃、ベルバトフは、ウェストハムの不運なジェームズ・コリンズに対して人間業とは思えないスキルを見せつけ、オールド・トラッフォード全体を熱狂させた。

    ベルバトフはマンチェスター・Uでの最初の2シーズンでも活躍したが、本当に地に足がついたのは3シーズン目。20得点で赤い悪魔を2010-11シーズン優勝へ導きながらプレミアリーグの得点王を獲得した。しかしながら、チャンピオンズリーグ決勝のバルセロナ戦では不可解にもベンチ入りすらしなかった。

  • Juan Mata Man UtdGetty

    21フアン・マタ

    「クラブ史上最高の時期を経験することはかなわなかったが、それでもいくつかの素晴らしい思い出を得ることができた」

    これは、フアン・マタがマンチェスター・Uでの8年間を正直に表現した言葉である。この元スペイン代表は、ファーガソンが去った後の最初のシーズンの途中にマンチェスター・Uに加入した。チェルシーから当時のクラブ記録である3,700万ポンドで、デイヴィッド・モイーズの最初の惨憺たるシーズンを正常化させるべくやってきたのである。

    それは無理難題であったことが後に判明したが、それでもマタはルイ・ファン・ハールの下で居場所を見つけ、アンフィールドで2得点してリヴァプールを沈めたり、FAカップ決勝で同点ゴールを決めたりした。その後、彼をチェルシーで追いやったジョゼ・モウリーニョと再会することとなったが、チームへの貢献を続け、ヨーロッパリーグとリーグカップで優勝した。

    マンチェスター・Uを去るまでに5人の監督の下でプレーし、51得点43アシストを記録。だが、彼の最大のレガシーはその人間性で、コモン・ゴールという慈善活動を立ち上げ、障害のあるサポーターと特別な絆を結んだ。

  • Park Ji-Sung Manchester UnitedGetty Images

    20パク・チソン

    韓国のスター、パク・チソンはまったく利己的なところのない選手だった。自身が得点することと同じくくらいゴールをアシストすることを幸福に感じていたが、彼の最大の武器は、相手をマンマークする能力だった。

    ミランのアンドレア・ピルロへのマンマークは伝説だ。ピルロ自身が自叙伝の中で、パクのことを「核並みの力を持った韓国選手で、電子の速さでピッチを駆け回っていた」と述べている。後にはリオ・ファーディナンドが、「ピルロは真夜中に目を覚ますと、ジーがベッドの下でピルロを待っているのが見え、悪夢に襲われていた!」と語った。

    2011年のチャンピオンズリーグ決勝で、パクをリオネル・メッシのマークにつけなかったことは、ファーガソンの最大の後悔のひとつだと言われている。

    「あの男は十分に評価されていない。それは、私の親友のひとりだからというだけではなく、彼が兵士だったからだ」と、パトリス・エヴラは言っている。

  • Javier Hernandez Man UtdGetty

    19ハビエル・エルナンデス

    ハビエル・エルナンデスはメキシコ代表として2010年ワールドカップで大活躍した後マンチェスター・Uに加入し、デビュー戦となったコミュニティ・シールドでチェルシー相手に得点して、たちまち成功した。「チチャリート」は多くのトップ・ストライカーが有するような体格ではないが、体力のなさを聡明な動きと予測で補い、ボックス内で決定的な仕事をした。

    最初の3シーズンのプレミアリーグで33得点をあげ、特に途中出場から決勝点を挙げるなどの活躍をし、アストン・ヴィラ、ストーク、ウェスト・ブロムから最後の最後に勝利をもぎ取ったり、チェルシー戦で同点ゴールを決めたりしている。マンチェスター・Uの2010-11シーズンと2012-13シーズンの優勝に貢献する得点を決めた。

  • Van PersieGetty Images

    18ロビン・ファン・ペルシ

    2012年にマンチェスター・Uと契約した時、ロビン・ファン・ペルシは絶頂期にあり、アーセナルで最高のシーズンを送ったばかりだった。実際、この元オランダ代表FWは、その前のシーズンにマンチェスター・シティとの苦闘のあげく失ったタイトルをマンチェスター・Uが再び獲得できると確信させる、クラブからファーガソンへのお別れの贈り物だった。

    ファン・ペルシはすぐにマンチェスター・Uに適応し、4月には早くもアストン・ヴィラ戦でハットトリックを決めてオールド・トラッフォードで勝利をもたらし、チームをタイトル獲得へと駆り立てた。このシーズンは27得点で終えたが、これは今でもマンチェスター・U史上最多得点である。

    不運なことにファーガソンの最終年となる年に加入したファン・ペルシは、多くのチームメイト同様、デイヴィッド・モイーズ時代に苦労することとなったが、チャンピオンズリーグのオリンピアコス戦でハットトリックを決めて逆転勝ちをもたらし、2013-14シーズンの数少ない幸福なシーンを生みだしている。

  • Nani Manchester UnitedGetty Images

    17ナニ

    その4年前、C・ロナウドをスポルティングCPから移籍させるという大成功を収めたマンチェスター・Uは、同じクラブからもうひとり、ポルトガル出身の早熟で才能豊かなウイングを獲得した。当初ナニはマンチェスターでC・ロナウドと同居しており、最初の得点を記録した頃には同程度の自信を見せていた。トッテナム戦で27mほどの距離からカーブのかかったシュートをゴール上隅に決めると、宙返りして喜びを爆発させた。

    ナニは最初のシーズンで夢をかなえ、プレミアリーグとチャンピオンズリーグの優勝を経験し、チェルシーとの決勝のPK戦で成功した。C・ロナウドの退団後はオールド・トラッフォードでのバトンを受け取り、翌3シーズンで73得点に貢献した。最終的にはケガに泣いたが、110点ものゴールに貢献してマンチェスター・Uを去った。

  • Marcus RashfordGetty

    16マーカス・ラッシュフォード

    マーカスって誰? 当時18歳の選手が2016年のミッティラン戦の先発メンバーに名を連ねた時、マンチェスター・Uのファンの多くがそう思った。しかしながら、ラッシュフォードがサポーターに愛されるようになるのに時間はかからなかった。デンマークのチーム相手に2得点を決め、さらに3日後のアーセナル戦でも同じことをしたのである。

    ラッシュフォードは成長を続け、クラブにとって最も重要にして最も愛される選手のひとりとなったが、コロナ禍に無料給食制度の存続を訴えたことで、ライバルのサポーターたちからも一目置かれるようになった。

    2021-22シーズンは彼の将来について深刻な疑問が投げかけられるような困難なシーズンであったが、2022-23シーズンにはマンチェスター・Uでのキャリアを立て直し、30得点を決めて、非常に大きな新しい契約を交わすこととなった。だがその後は同じような活躍ができず、大きく自信を喪失し、その態度からサポーターの不興を買うようになった。何よりもベルファストでの夜の酒盛りがいけなかった。2025-26シーズンにはついに退団。それでも、彼はレンタル先のバルセロナで輝きを取り戻しつつある。

  • David de Gea Manchester United West Ham FA Cup 2022-23Getty

    15ダビド・デ・ヘア

    ピーター・シュマイケルが去った時とは違い、エトヴィン・ファン・デル・サールが去った時のマンチェスター・Uには、明確な後継計画があった。ファン・デル・サールがまだ在籍中に、ファーガソンはリーグカップのスカンソープ戦を休んでバレンシアに飛び、アトレティコ・マドリーでプレーする痩せた19歳を観ていたのだった。

    ダビド・デ・ヘアはイングランドのサッカーに適応するために精神面を強化しなければならなかったが、何度か遠吠えしたり髪の毛をかきむしったりする瞬間があった後、リーグで最高のGKに成長。ファーガソンが去った後の失われた10年間に、数え切れないほど何度もチームを支えた。在籍期間が歴代最長のGKとなり、190度のクリーンシートという記録を誇っている。

    2023年の退団のいきさつは厄介で醜いものだったが、時代の変化に対応できず、足元でのボール扱いが改善しなかったため、やむを得ないことであった。アンドレ・オナナが期待に応えられなかった後、2025-26シーズンはセンヌ・ラメンスにデ・ヘアの後継者となる期待が高まっている。

  • Bruno Fernandes Man UtdGetty

    14ブルーノ・フェルナンデス

    マンチェスター・Uは、ほぼ1年をかけてブルーノ・フェルナンデスを追い求め、2020年1月にスポルティングCPと2,000万ポンドのボーナスつきの4,700万ポンドで最終合意に至った。それから4年以上が経ち、あの契約が安いものであったことが判明した。MFフェルナンデスがファーガソン時代以後の最高の選手であることは間違いない。

    フェルナンデスは、考えうるほぼすべての面でマンチェスター・Uに貢献してきた。スポルティングから加入してから数週間でチームの財産となり、クラブをプレミアリーグ3位に導いた。彼との契約日以降のプレミアリーグで、マンチェスター・Uは他のどのチームよりも多くの勝ち点を稼いだ。

    2020-21シーズンのチーム得点王となった彼は、1シーズンに少なくとも15以上の得点に貢献している。テン・ハーグのもとでは重要性を増していき、たとえ体調が万全でなくとも事実上すべての試合に出場して、2023年にはチームの常任のキャプテンになった。同胞のルベン・アモリム監督が就任した体制でも主軸としての地位を確立している。

  • Gary Neville Man Utd 2010Getty

    13ギャリー・ネヴィル

    92年組の同期の何人かに比べれば才能に恵まれていないが、その差を献身的なプレーで埋め、新世紀が始まった時には誰よりもマンチェスター・Uの目標にコミットし続けていた。たとえば、2004年にファーディナンドへの処分に抗議してイングランドの選手たちの間でストライキを組織しようとしたり、リヴァプール戦でのファーディナンドの最終盤での決勝点を祝ってピッチを端から端まで走ったりしている。

    ネヴィルは単に熱い男であるだけではなく、非常に有能なサイドバックだった。だが、2007年3月のボルトン戦で足首に重傷を負い、1年以上試合に出らなかった。苦労して復帰した後、2008-09シーズンの優勝および2009-10シーズンには大いにチームに貢献した。その後、その謙虚さゆえに、2011年初め、もはや自身が求められるレベルにないことを自覚したのだった。

    引退し解説者となった後は、オールド・トラッフォードの近くに邸宅を建て、新スタジアム建設にも関わることになっている。徹頭徹尾、ユナイテッド命の男である。

  • Edwin van der Sar Man Utd 2008Getty

    12エトヴィン・ファン・デル・サール

    1999年にピーター・シュマイケルを失ったマンチェスター・Uはその後任に本当に苦労した。ワールドカップ優勝者であるファビアン・バルテズやプレミアリーグ経験者のマーク・ボスニッチ、実力未知数のGK(マッシモ・タイービ、ティム・ハワード、ロイ・キャロル)を起用したが、うまくいった場合でも満足な結果は得られず、最悪の場合は悲惨な結果となっていた。

    そんな中、2005年にフラムからわずか200万ポンドで加入した当時34歳のファン・デル・サールがようやくフィットした。偉大なデンマーク出身GKの穴を埋められるような、経験、体格、メンタルを持った選手だったのだ。198cmのファン・デル・サールは、必要な時には神がかかったセーブを見せたが、何よりも安全で信頼できるプレーをチームに提供した。

    6シーズンで4度に及ぶマンチェスター・Uのプレミアリーグ優勝に貢献し、モスクワではニコラ・アネルカのPKを掻きだしてチームをチャンピオンズリーグ制覇に導いた。40歳までチームに残り、マンチェスター・Uが19回目のリーグ優勝を果たした後、引退した。その素晴らしいキャリアを締めくくるにふさわしい最後だった。

  • Patrice Evra Man Utd 2003Getty

    11パトリス・エヴラ

    ファーガソンは優秀なサイドバックを探すことを「珍しい鳥を探す」ようなものだと言い、エヴラはまさにそういう選手だった。「彼の攻撃的な才能について、我々は多くを知っている」と、元監督は自伝に書いている。「彼はスピードがあり、素晴らしいテクニカルと強い個性の持ち主だった。とても強かった」。

    ファーガソンはエヴラのデビューとなったマンチェスター・シティ戦に3-1で負けたことを、率直に「大惨事」と呼び、こう言った。

    「彼が『なぜ自分はここにいるのか』と考えているのは明白だった。最終的に彼は安定し、成長した」

    エヴラはプレミアリーグ時代のマンチェスター・Uで、アーウィンに匹敵する最高の左サイドバックに成長し、7シーズンで5回優勝したチームの中心選手であった。とんでもない行動をすることもあるが、だからこそ余計にファンはエヴラが好きである。

  • Roy Keane Man UtdGetty

    10ロイ・キーン

    世紀の変わり目の頃、キーンはマンチェスター・Uの心臓であり魂であった。1999-2000シーズンにはPFAとサッカーライター協会の年間最優秀選手賞をダブル受賞し、これらの賞はマンチェスター・Uの選手が同年と2001年に連続受賞することとなる。

    2003年にマンチェスター・Uがアーセナルからタイトルを奪還した時はケガに苦しんでいたが、大事な時には最高のプレーを見せていた。最終的にケガは2005-06シーズンに最悪の状態となり、ファーガソンやアシスタント・コーチのカルロス・ケイロスとの関係も悪化した。マンチェスター・Uがミドルズブラに4-1で敗れた試合についての発言が知れわたるとファーガソンの逆鱗に触れ、2005年11月、キーンはクラブを去った。

    マンチェスター・Uの歴代最高選手のひとりとしては残念な最後であったが、この熱しやすい性格の2人が並び立たないことはわかっていた。苦い最後ではあったがサポーターの心の中にキーンは永遠に息づいている。

  • David Beckham Man Utd celebrateGetty Images

    9デイヴィッド・ベッカム

    21世紀が始まった頃、デイヴィッド・ベッカムはイギリスで最も有名な男だった。頭を坊主にし、レスター戦でFKを決めたわずか3カ月後のことだった。

    21世紀になってからの3シーズン半でベッカムは96得点に貢献し、ファーガソンとの関係は破綻寸前だったものの、2002-03シーズンの優勝にも重大な役割を果たした。

    しかしながら、ファーガソンはイングランドのカリスマに集中力が欠けていると感じ、多くの点でレアル・マドリーがベッカムに合っていると感じていた。だが、ベッカム本人もマンチェスター・Uも、4年後までタイトルを獲得できなかった。たぶん、ベッカムはもう少しだけ長くマンチェスター・Uにいるべきだったのだ。

  • Michael Carrick - croppedGetty Images

    8マイケル・キャリック

    マンチェスター・Uは2005-06シーズンに絶頂期を取り戻しつつあったが、ロイ・キーンを失った中盤はチームの最大の弱点となっていた。キーンの後任として加入したキャリックは、同じ背番号16のユニフォームを着ていたが、闘争心や情熱といった点では元キャプテンにまったく及ばなかった。

    それでも、キャリックはパスの精度に定評があり、マンチェスター・Uの中盤に長く欠けていた制御と安定をもたらした。キャリックは12年にわたりマンチェスター・Uの中盤のボスとは言えないまでもコントロールしていた。

    「それはキャリック。そうだ、スコールズじゃないなんて信じられない」と、チャントは歌う。それでもキャリックは彼なりに貢献し、マンチェスター・Uは、キーンが去った時よりもキャリックがいなくなった空いた穴を埋めるほうが困難であることを知ることになる。

  • vidic(C)Getty Images

    7ネマニャ・ヴィディッチ

    この元セルビア代表のチームメイトには、ヴィディッチは怖かったという者が少なくない。ベン・フォスターは「おっかない」とか「恐ろしい」と言い、スコールズは「変人」と呼び、ウェイン・ルーニーは「悪夢だった」と言う。だが、みな、彼が味方だったことを喜んでおり、ヴィディッチが決して簡単に戦うことをあきらめなかったことを知っている。

    ファーガソンはファーディナンド、スコールズ、ギグスを擁する中でも2010年にヴィディッチをキャプテンに任命し、この冷静沈着なセンターバックをどれほど高く評価しているかを示した。ヴィディッチは2008-09シーズンにマンチェスター・Uの14試合連続無失点に貢献した。8年にわたり赤い悪魔の守備を統率し、彼なしでは同じことは決してできなかったに違いない。

    「本当に守備が好きだったセンターバックの名前を何人あげられるだろう。ヴィディッチは本当に守備が好きだった」と、ファーガソンは自伝に書いている。

    「彼は守備でチャレンジすることが大好きだった。どちらのボールとも言えないボールを奪うスリルが彼を生き生きさせていたと言えるだろう」

  • Ruud van NistelrooyGetty

    6ルート・ファン・ニステルローイ

    ファーガソンはルート・ファン・ニステルローイを非常に高く評価しており、この元オランダ代表が2000年に膝に重傷を負ってマンチェスター・Uへの移籍が頓挫した後、回復したら契約すると約束したという。ファーガソンは約束を守り、2001年にPSVからやってきたストライカーは、その信頼に応えた。

    ファン・ニステルローイはオールド・トラッフォードにいた5年間で、1シーズン平均30得点を記録し、プレミアリーグ10試合連続得点という記録と、チャンピオンズリーグで1大会12得点という最多得点記録を作った。これらの記録はそれぞれジェイミー・ヴァーディとクリスティアーノ・ロナウドが更新している。

    彼のマンチェスター・Uでのキャリアは、2005-06シーズンの最終日に突然に終わった。ファーガソンにクビを言い渡され、最後の試合に出場することなくオールド・トラッフォードから車で家に帰れと言われたのだ。だが、彼はクラブ史上最も得点した選手のひとりであり続けた。

  • Rio Ferdinand Man UtdGetty

    5リオ・ファーディナンド

    ヤープ・スタムをラツィオに売ったことは、マンチェスター・Uの2001-02シーズンのタイトル争いを苦しくしたかもしれないが、リーグ最高の若手選手の獲得に全力を尽くすことで、その過ちを正した。憎きライバルリーズからファーディナンドをこっそりと獲得したのである。この元イングランド代表DFの獲得に当時の記録である3,000万ポンドを費やしたが、それだけの価値のある選手であった。

    ファーディナンドはバックから試合を展開していくパフォーマンスのパイオニアで、マンチェスター・Uに来た最初のシーズン、チームがアーセナルからタイトルを奪還するのに貢献した。翌シーズンはドーピング検査に出頭しなかったことで出場停止処分を受けて棒に振ったが、復帰後はセンターバックでネマニャ・ヴィディッチと理想的なコンビネーションを構築し続け、その後の8年間で5度のリーグ優勝とチャンピオンズリーグ制覇を果たした。

  • Ryan GiggsGetty Images

    4ライアン・ギグス

    ライアン・ギグスは、1990年代にマンチェスター・Uを圧倒的に強いチームに作りあげたため、その年代と深く結びついているが、最終的に2014年に41歳で引退するまで、新世紀でも長く素晴らしいパフォーマンスを見せ続けていた。

    元ウェールズ代表のギグスは、ウイングの魔術師としての最後の活躍のひとつとして、2003年にアウェイでユヴェントスを粉砕した後、サッカー界の中心選手として君臨するようになる。2008年にモスクワでチャンピオンズリーグ制覇を果たしたときは34歳で、そろそろ引退を考えるような年齢であったにもかかわらず、衰えの気配はまったくなくプレーし続け、2013年に13回目のプレミアリーグ優勝を果たした。

    ピッチの外で物議をかもすことがあり、やや評判に傷がつくこともあったが、30年にわたるマンチェスター・Uでの活躍が色あせることはない。1990年代から含めたとすれば、クラブ歴代1位のレジェンドといっても過言はない。

  • Paul Scholes v BarcelonaGetty

    3ポール・スコールズ

    スコールズも92年組の卒業生だが、その絶頂期は2000年が過ぎてからだ。ブラッドフォード戦での見事なボレー、ウェストハム戦でのハットトリック、ニューカッスル戦での3得点、ヴィラ・パークでのバーの上を行ったがキャノン砲のようなボレーシュート、チャンピオンズリーグ準決勝のバルセロナ戦での得点、エティハド・スタジアムでの最後の得点などが挙げられる。

    2012年の初め、引退を撤回して伝説的なキャリアを延長し、さらに18カ月プレーして、もうひとつタイトルを獲得した。ファーガソンが勇退するまさにその年、38歳で完全に引退した。キャリア全体を見るに、そのタイミングでの引退は完璧だった。

  • Cristiano Ronaldo Man UtdGetty

    2クリスティアーノ・ロナウド

    10代でマンチェスター・Uに加入した時のC・ロナウドは痩せたポニーのようだったが、ファーガソンの指導のもと、頭にくるウィングから完璧なストライカーへと成長した。C・ロナウドはマンチェスター・Uの黄金時代を先頭に立って引っ張った選手であり、チームを3シーズン連続のプレミアリーグ優勝と2008年のチャンピオンズリーグ制覇に導いた。

    完璧なゴール製造機で、そのシーズンには42得点をあげ、マンチェスター・Uの選手として40年ぶりにバロンドールを獲得した。レアル・マドリーではさらに多くの得点を決め、マンチェスター・Uのファンは彼がいつか戻ってきてくれることを夢みていた。その夢はついに2021年の夏にかない、多くの場合、昔と同じC・ロナウドであり続けた。

    だが、輝かしい復帰後、蜜月は続かず、彼は中東に新天地を求めた。だが、赤いユニフォームを着て、ゴールを決める恐るべき野獣に成長した彼を見る時の興奮を忘れられる者はいない。

  • Wayne Rooney Man UtdGetty

    1ウェイン・ルーニー

    2004年、マンチェスター・Uがエヴァートンからルーニーを獲得した時、トフィーズのチェアマンだったビル・ケンライトは、ファーガソンの事務室で泣き出し、母親を呼んでくれるよう頼んだ。ファーガソンは、ケンライトが涙ながらに「うちの子が盗まれた、うちの子が盗まれた」と言っているのを聞いたという。

    ケンライトの怒りは当然で、ルーニーはポール・ガスコイン以来の最高のイングランドのサッカー選手だった。だが、すぐ興奮する司令塔とは違い、ルーニーは実力を存分に発揮した。オールド・トラッフォードでのデビュー戦でハットトリックを記録し、13シーズンで253得点を挙げて、クラブの歴代最多得点者となったのである。

    プレミアリーグ時代の最も偉大なゴールのいくつかを決めたのがルーニーで、2005年のニューカッスル戦では目の覚めるようなボレーを決め、2011年のマンチェスター・シティでは大胆不敵なバイシクル・キックを披露した。ルーニーは「僕は青だったし、いつも青だ」と言っていたかもしれないが、全盛期の彼が着ていたのは赤だった。彼の絶頂期は21世紀におけるマンチェスター・Uの最高の時でもあり、過去25年におけるマンチェスター・Uの最も偉大な選手として、彼に匹敵する選手は誰もいない。