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ヨハン・クライフの“引退試合”で8-0の圧勝劇!?バイエルンがレジェンドの花道を台無しにした理由とは…

「引退試合」というものは、公式には「試合」として行われる。しかし、その意義は引退する選手に花を持たせるものであり、ほとんどの場合は真剣にプレーすることがない。その主役が最後のゴールを決め、スタジアム全体で最後の花道をお祝いするものだ。

しかしあの偉大なレジェンド、ヨハン・クライフの引退試合は全く異なるものだった。

  • 忘れられない一夜

    1960年代から1970年代にかけて、アヤックスとバルセロナで通算7回の国内リーグ制覇、アヤックスでは3回のチャンピオンズカップ優勝(1971年、1972年、1973年)を達成。ヨハン・クライフは、世界最高の選手の1人だった。

    後世にまで名を残す偉大なクライフだが、1978年に31歳の若さで突如引退を決断している。そして最後の晴れ舞台は、1978年11月7日、生まれ故郷であるアムステルダムで行われた。引退試合にはゼップ・マイヤー、ゲルト・ミュラー、ポール・ブライトナーなどを擁するバイエルンが招待されている。

    長年に渡ってアヤックスのライバルだったドイツ屈指の名門は、クライフに忘れられない一夜を贈っている。それは悪い意味で……。

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  • Johan Cruyff AjaxGetty Images

    8-0の圧勝劇

    その夜、バイエルンはいわゆる“お約束”を全く守らなかった。非常に意欲的なプレーを見せ、ミュラー(3得点)、カール=ハインツ・ルンメニゲ(3得点)、ブライトナー(2得点)と躍動。クライフの最後の試合を見に集まった68,000人の観客の前で、8-0の圧勝を収めている。

    クライフは後に、キャリアでこれほどの大差で敗れたことはないと語っている。そしてもちろん、バイエルンの姿勢は批判の対象に。当時アヤックスに所属していたルード・カイザーは、「私たちは、ヨハンが観客に自分の実力を示すことができるよう、常に彼にボールを渡すことを決めていた。しかしバイエルンは、まるでヨーロッパカップ戦の決勝戦を戦うかのように、戦士のようにピッチに現れた。それは恥ずべき、無礼な行為だった」と後年語っている。

    一方、この試合で期待の若手選手としてプレーしたクルト・ニーダーマイヤーは、『11 Freunde』でこの「奇妙な一夜」について回想。なぜバイエルンがあれほど意欲的に試合に挑んだか、その理由を明かしている。

    「試合前の奇妙な状況は明らかだった。空港には迎えが来ておらず、ホテルもはっきり言って二流だ。 私たちが来なかったとしても、誰も気にかけなかっただろう。ポール・ブライトナーは、ウォームアップ中に観客から『ナチスの豚ども』と罵られたと言っていた。ピッチからロッカールームに向かう途中で、唾を吐かれたとさえ言ったよ。いずれにせよ、ある時点で我慢の限界に達したんだ」

    そしてブライトナー、マイヤー、ミュラー、ブランコ・オブラクといったベテラン選手たちは、若手選手を呼び寄せて「オランダ人に本物の試合を見せてやれ」と強く言い聞かせたという。「おそらくリーダーたちは、1973年にこの地で行われたヨーロッパカップ戦で0-4と大敗したことが頭の片隅にあったんだろう」とニーダーマイヤーは振り返っている。

  • Johan CruyffHulton Archive

    クライフの回想…

    試合終了後、観客は当然のように激怒。ホイッスルが吹かれた後、バイエルンの選手たちに次々とクッションを投げつけて抗議している。

    では、クライフ自身はなんと語ったのだろうか?「あまり良い試合ではなかったね。もしまたバイエルンと対戦したら、今度は打ち負かすつもりだ」と語った。こうした事情もあって2006年、カール=ハインツ・ルンメニゲはクライフに直接謝罪を行っている。

    ちなみに、この引退試合はクライフにとって最後の試合にはならなかった。1979年初頭、クライフは北米のプロリーグNASLのロサンゼルス・アステカズと契約を締結。突然フットボール界に復帰している。その後ワシントン・ディプロマッツ、UDレバンテ、アヤックス、フェイエノールトでもプレーした。

    そして1984年5月13日、偉大なクライフのキャリアはついに幕を閉じた。そしてあの記憶があったのか、「引退試合」が行われることは二度となかった。

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