ハンジ・フリックはタッチライン際で動けなくなってしまった。それはミュンヘンのアリアンツ・アレーナが寒かったからではない。RBライプツィヒを迎えたリーグ戦で、開始から25分間バイエルン・ミュンヘンが標榜とするエキサイティングなフットボールがなかなかできなかったからだ。
リーグ首位を走るバイエルンのメンバーはポゼッション時に敵陣に攻め込めず、ボールを保持していないときの動きも目的を欠いていた。普段なら過ちを犯すことのないマヌエル・ノイアーが小さなミスを犯すと、ザクセンからやってきたアウェーチームが隙を見逃さずリードを奪った。するとベテランMFのハビ・マルティネスは左腿を押さえて交代を要求する。すでに不利な立場に立たされたバイエルンにとって、これ以上に困難な状況を迎えると思われた。
「すぐ良くなりますように、ハビ」バイエルンのスタジアムアナウンサーであるシュテファン・レーマンの落ち込んだ声が観客のいないスタジアムに響き渡った。このとき、「42番」が第4審の掲げるボードに光った。ジャマル・ムシアラの背番号だ。マルティネスよりほぼ15歳も若く、4ストーン(約25.4kg)も軽い選手がピッチに足を踏み入れた。そして魔法のような出来事が起こったのだ。
「はは! 信じられない!!」レーマンはマイクに向かって笑った。交代投入されてからたった5分後、ムシアラは得点を決めたのだ。ライプツィヒDF4人とGKペーテル・グラーチが止められなかった、技術的に全くケチのつけようのないフィニッシュだった。だが、それ以上に印象的だったのは、ピッチで一番若い17歳の少年が、自身が課せられた中盤での役割を見事に理解していたことだ。
Getty Imagesさらに、ムシアラは難しいパスをいとも簡単にコントロールし、エレガントに敵のラインの間を縫い、クレバーにボールを操りチームメイトに預けたのだ。これは得点から4分後に見せたプレーだ。ムシアラはインテリジェンス溢れるパスをトーマス・ミュラーに供給し、バイエルンを2-1のリードに導いた。結局試合は3-3の引き分けに終わってしまったが、バイエルンが至宝を手にしていたということがこの試合ではっきり分かったのだった。
ムシアラの初出場の後、フリック監督は「状況はジャマルが入って変わったんだ」とパフォーマンスを称賛。ライプツィヒのユリアン・ナーゲルスマン監督にしても、「あの少年は自信を持ってボールを扱っているし、足が速いから防ぐのが難しいね。ビッグタレントだ」と虜になっていた。
このタレントは、生まれ故郷であるドイツからイングランドに渡り、またドイツに戻ってくるという、エキサイティングな旅をしてきた。先日にはドイツ代表を選んだことが大きく取り沙汰され、5日には2026年までのプロ契約を結んだ。
そんなムシアラは一体どんな軌跡を歩んできたのだろうか――。『Goal』と『SPOX』では彼に大きな影響を与えた人物に話を聞き、半生を辿った。
■フルダ:始まり
Goalドイツの小さな町、フルダのレーナーツにあるスポーツクラブのグラウンドに石が立っている。
U7チームに所属する11人の少年が、そこで一緒にポーズを取って写真に写っている。最高の結果が得られたシーズンを終えたときのことだ。この写真の中で、正面の右端の方に映っている小さな男の子はとびきりの笑顔を浮かべている。
それもそのはず。どの少年も金メダルや銀の像を自慢気に見せつけている中、一人だけ金と銀のシューズを持っているのだ。そこには「TSVレーナーツ G-ジュニア 2008-09 トップスコアラー」と書かれている。彼にとっては初めての勲章だ。
「あの子は1試合で5点から10点決めていたよ」と笑いながら振り返ったのは、当時監督を務めていたミカ・ホフマン。「ささやかな感謝の気持ちぐらいは示さなければ、私はダメな監督だと思ったんです」。
ジャマル・ムシアラにとって、このゴールデンブーツは感謝の気持ち以上のものだった。このトロフィーは今でも、ミュンヘンにある彼の自宅の最も目立つ場所に飾られている。彼のルーツとなった、気楽で忘れられないあのときの思い出だ。TSVレーナーツは今では「バロックシュタット・フルダ・レーナーツ」と名を変え活動しているが、そこは彼にとって初めてで、そして長らくドイツで所属した唯一のクラブだったのだ。
Goalムシアラが生まれたのは2003年2月26日。ポーランドにルーツを持つドイツ人の母と、ナイジェリア人の父の間にシュトゥットガルトで生を受けた。しかし2歳のとき、家族は150マイルも離れたフルダに移住することを決意。母カロリンが社会科学の大学に通い始めたからだ。
ホフマンは、この少年と初めて会ったときのことを、熱を帯びて話した。
「室内でトレーニングをしたんだ。ジャマルはまだ4歳だったが、怖がることなく自分で運動を始めた。最後の試合の間、私は言葉を失ってしまった。相手が彼を前にすると旗のポールのようになってしまうんだ。彼からボールを取れるチャンスは少しもなかった」
最初のシーズンだけで、この非凡な才能に恵まれた選手は100ゴール以上を奪ってみせた。TSVにとっては神の恵みのようであったが、それは同時にムシアラを高いレベルに送り出すべきサインだった。ホフマンはこう言う。「ジャマルにとっては簡単なレベルだったんだ。だから私たちは年上の選手たちとプレーさせることにした。彼の父親もその考えをとても喜んで受け入れてくれた」。
父ダニエル・リチャードは「リッチ」というニックネームで知られ、ドイツに移り住む前は母国ナイジェリアの高いレベルでプレーしていた。リッチはパーソナルトレーナーのように、息子の初めてのフットボールの旅に付き添った。当時を振り返って語ったのは、ブランコ・ミレンコフスキ。ホフマンの後で指揮を執った、少年にとって2人目の監督だ。
「リッチは完全にフットボール狂だったよ。ライン際で行ったり来たりしてジャマルを追いかけて応援するんだ。ほとんどの試合で、終わった後に息子より汗をかいていたね」
一方、母親のカロリンは、ピッチ際で静かに立っていた。ジャマル少年を見つめ、家族アルバムのために時々写真を撮っていた。始めの頃、ミレンコフスキ監督の主な仕事は、相手がゴールを決めたときに少年が声援を送るのをやめさせることだった。
「ジャマルはいつでも応援したがっていた。ゴールが決まったら声援を送る、というのが彼にとっては当たり前のことだった。ゴールを決めたのがどちらのチームでもね。ジャマルが相手を祝福したときに、リッチがよく取っていたリアクションを覚えているよ。恐ろしいとばかりに両手を上に挙げて、次に笑い飛ばしていたんだ」
この時期はまだ、楽しむことが第一という年齢だ。それでも、レーナーツのグラウンドで見ていた人なら誰でも、ジャマル・ムシアラが普通の子供ではないことを簡単に見抜くことができた。
Goalミレンコフスキは当時を思い出す。「彼はときに相手より2つ年下だったから、少しだけ体格が華奢だった。それでも、他の選手たちの周りを踊るように動き回った。精神面は他の要素よりも抜きん出て成長していたね」。
ミレンコフスキと前任者のホフマンは、特に少年の吸い付くようなボールコントロールが印象に残っているという。「彼のドリブルは驚くほど素早く、絶対にボールを失わなかった。当時彼を見ていると夢のようだったね」と回顧する。
7歳までムシアラはTSVレーナーツの一員だった。たくさんの試合や大会で勝っていった。そのすぐ後で、彼は人生2度目の引っ越しをするのだが、結果的にそれがムシアラのキャリアを決定づけることになる。母カロリンはフランクフルトのゲーテ大学に在籍していたが、修士課程の一部としてサウサンプトン大学の交換留学プログラムに4か月間参加する機会を得たのだ。ジャマルの妹ラティーシャも含め、家族全員がフルダを離れることになる。
■サウサンプトン:冒険
Goalサウサンプトン、ブリタニア・ロードにあるセント・メリーズ・スタジアム。
カロリン・ムシアラとダニエル・リチャードは状況にうんざりしてきていた。息子ジャマルのために新しいクラブを探そうとしていたが、かかってくる電話はすべて、成功を告げるものではなかったのだ。
イングランド南部の港町に引っ越してから数日しか経っていなかったが、ボールのない毎日はジャマルにとって損失でしかなかった。そんな2010年10月、両親が町で最も大きいクラブを訪れた。アポなしだったが、なんと交渉が成立。一家はセインツ・ファウンデーションの事務所前に直接車を停め、リッチは息子の手を取ってビルに入っていった。いざ行ってみると、幸運なことにムシアラ一家はジャズ・バッティに出会うことができた。
バッティはファウンデーションで働いており、同時に「シティ・セントラル・フットボールクラブ」というクラブを運営していた。街の中心部にあるこのクラブはレクリエーションを目的としており、恵まれない家庭の子供や移民の家族に、同好の仲間たちと週末を過ごす機会を提供していた。ジャマルはU7チームに受け入れられ、兄弟のロッシュ・バッティが指導に当たった。
「最初に会ったとき、ジャマルは一言も英語を話せなかった。だが、すぐに社交的なつながりを作ることができたんだ。フットボールが国や文化が違う人たちをいかに簡単に、いかに素早く結びつけるか、彼が見せてくれたんだ」
セントラル・シティでムシアラにとって最も重要だったのは、レヴィ・コルウィルとの出会いだろう。サウサンプトン出身のこの少年とムシアラは誕生日が同じで、今でも続く友人関係を築いた。
ジャマルがやってくるまで、コルウィルはセントラル・シティで最も才能のある選手だと言われていた。だが、ドイツからの新入りがやってきて数日でロッシュ・バッティは確信した。ジャマルは同年齢の子供の中で確実に人並み外れた才能を持っている、と。
「間違いなく、ジャマルは『特別な存在』だった。簡単にボールを扱い、バランス感覚がよく、ボールコントロールが素晴らしく、俊敏で、クリエイティブで、熱意にあふれている。すべてが別次元だったんだ」
ムシアラ少年のお気に入りの選手であったロナウジーニョやリオネル・メッシ、ジネディーヌ・ジダン、ティエリ・アンリたちのトリックを真似るのは、すでに簡単なことだった。U7で数試合に出てゴールを量産する中、ロッシュは彼を上の年齢のチームに加えることを決意し、ジャマルの父リッチに相談した。その後、ジャマルのさらなる昇格に全員が賛成した。ロッシュはリッチが息子に関して絶大な自信を持っていたことを思い出す。
「息子がどれだけ特別な才能を持っているか、リッチは言い続けていた。それから、ビッグクラブのジュニアセクションに入っていたらもっと上を目指せるだろう、ともね。それほど自信満々に言われたらほとんどの人が笑ってしまうだろうね。父親は、自分の息子をそんな風に言ったりしないだろう? だが、リッチは正しかったんだ」
そこで、バッティ兄弟は自身のコネクションを使ってセインツのスカウト部門に連絡することにした。ロッシュはディック・ヘイズと連絡を取った。バッティはその数年前から数人の有望な若手を推薦していたのだ。このスカウトはジャマルが出る次の試合を見に行くことを約束した。すべてが変わる運命にあった、その試合に。
Goal「これ以上ないくらい上手く行ったよ」とロッシュ。「ジャマルは10分間で6点も決めたんだ。でもそれだけではなく、あの試合で彼はチームプレーの精神も見せた。あの年齢の子供では見たこともないような振る舞いだった。彼の目標は、チームメイト一人ひとりにアシストすることだったんだ」。
計画はほぼ完璧に成功した。だが、セントラル・シティU8チームとペース・ピューマスとの一戦で、一人だけ得点できなかった子がいた。「それをとても気にしていたんだ」と当時を語る。だが、シュトゥットガルト生まれの少年のパフォーマンスは、最後のアシストができなかったとしてもセンセーショナルの一言に尽きるものだった。
試合終了の笛が鳴った直後、ヘイズはバッティ兄弟に駆け寄り、ドイツからやってきた少年をトライアルセッションに招待したいと伝えた。1週間後の2010年11月、ムシアラはステープルウッドキャンパスのピッチに立っていた。サウサンプトン東部の中心にあるクラブの練習場だ。ロッシュはムシアラが練習に初めて招待されたときのことは今でも覚えている。
「彼らはすぐに彼をテストマッチに起用したんだ。そして、ジャマルはなんと二桁得点を決めたんだ。驚いたよ」
その後、セインツ・アカデミーのテリー・ムーアとの会談が決定。ムーアは「ジャマルはこれまでに見たことがないほど才能のある子供だ。クラブは彼と契約するためなら何でもやらなければいけない」とロッシュに話していたという。
Goalセインツでのトライアルが終わり、ジャマルはステープルウッドキャンパスでプレーすることに。その後数週間が経った頃、国内の他チームのスカウトがジャマルの存在に気が付き、サウサンプトンに彼を一目見ようとやってきた。その中には、チェルシーやアーセナルのスカウトもいた。
そして、チェルシーのコブハム・トレーニング・センターや、アーセナルのヘイル・エンドでのトライアルに招待された。ロンドンにある2つのトップクラブから興味を示された事実は、セインツのオフィスにすぐに広まった。その結果2011年1月、ニコラ・コルテーゼ(当時の会長)が動き、自身のオフィスでムシアラと話す機会を設けた。
コルテーゼは当時、クラブの中で最も権力のある要職のエグゼクティブ・チェアマンに就いていた。彼はシニアの選手を獲得するため日頃から忙しくしていたが、今回ばかりは、セインツアカデミーで頭角を現した7歳の少年と契約するため、がむしゃらに動いていた。イタリア生まれのスイス人として、ムシアラにドイツ語で話しかけた。
「クレイジーな光景を見たよ」と振り返るのはロッシュ・バッティ。彼も会談に同席していたのだ。
「コルテーゼ氏はとても親切に、饒舌に話しかけていたんだ。ムシアラ少年にとても興味を持っていて、ユースの長期契約を結んで彼をクラブに引き止めるためにはどんな手段も厭わない、と言っていた」
家族はその会談に感激していたが、実は一家はすぐにフルダに戻らなければならなかった。サウサンプトンでのカロリンの交換留学プログラムが終わりを迎えたのだ。だが、すぐに彼女はイングランドに永住する計画を立てた。当時修士論文を書いていたカロリンは、たくさんの文化が混じり合う巨大都市ロンドンが好きだった。そこで仕事とアパートを見つけることを最優先にしたのだ。
■ロンドン:選手形成
Goalロンドン特別区のニューモールデン。チェスナッツ・グローブにあるコーパス・クリスティ・カトリック小学校。
9歳の子供として、ムシアラは英語を見違えるほど上達。教師たちは詩の年間コンペの優秀賞の一人に彼を推挙したほどだった。
「瞬間」これこそ彼が書いた短い詩のタイトルだ。ムシアラの詩は「Around the World in 80 Words: Surrey(80単語世界一周:サリー)」と題された児童書の冒頭にも印刷されている。
「僕は車の中で座っている。窓の外を見やった。外は寒い。冬だ。けれど、僕は汗をかいている。緊張している。どうなるか分からない。すると突然車が止まった。僕は目を閉じて、深呼吸をする。もう緊張はしていない。もう幸せな気分だ。やるべきことが分かったんだ。父さんがドアを開けて言った。『グッドラック!プレミアリーグ最高のクラブのひとつで、初めてのテストだ!』今僕はこれまでにないほどのプレーができている」
これは、ブルーズがサウサンプトンとアーセナルとの三つ巴の戦いを制したあとのこと。コブハムにあるチェルシーの練習場での初日の出来事だ。この決断の一因になったのは、カロリン・ムシアラがサリーの東になるファーナムで仕事にありつけたことだ。ファーナムはチェルシーの練習場からそれほど遠くなかった。彼女はアメリカの生命科学を扱う企業でマーケティング・エグゼクティブとして雇われていた。
Goalジャマルにとって、チェルシーを選んだ決断は結果的に正しいものだった。新しい環境ですぐに人間関係を築き、旧友のレヴィ・コルウィルもサウサンプトンからチェルシーに移籍していた。同年代の少年たちの多くは彼と同じように振る舞った。コブハムでフランク・ランパードやジョン・テリー、ディディエ・ドログバを見つけたり、スタンフォード・ブリッジでは選手のベンチのすぐ後ろに座ったりして、小さなスターのように振る舞っていた。
しかし、家では違った。青いユニフォームをワードローブに片付けると、質素で、ときに貧しい境遇にいることを自覚し、合言葉を守って生活していた。「痛みなくして、得るものなし」。
■謙虚に、ハングリーに、そして強く
Goalムシアラはピッチの外でも勤勉さを発揮していた。自発性が高く、新しい物事に積極的に挑戦する模範的な生徒だと見られていた。例えばコーパス・クリスティですごした小学生時代、ムシアラはチェスクラブに入っており、フットボールをやらない昼休みには韓国の武道であるハプキドーの教室にも参加していた。チェスの対局を経験することで戦略的なものの考え方を学び、ハプキドーの練習を通じて俊敏に動けるようになった。
ムシアラの恩恵に預かったのはチェルシーだけではなかった。熱心な体育教師であったトニー・メソローニの指導のもと、ムシアラはコーパス・クリスティ小学校のチームを、毎年のように権威あるプレミアリーグや小学校のフットボールリーグの決勝にまで導いたのだ。
「1000以上の学校が国中から参加していました」メソローニはそう説明する。
Goal2011年から2014年までで、プレミアリーグの大会だけで3回も優勝した。ムシアラ少年はそのうち2回得点王に輝いた。最も活躍した大会ではアンフィールドでプレーし、メソローニは当時を振り返る。
「ジャマルは大会の優秀選手と得点王に選ばれました。表彰したのは二人のリヴァプールの選手、ジョーダン・ヘンダーソンとディルク・カイトでした」
Goalさらに、コーパス・クリスティは2013年の全国大会で優勝。ウェンブリーで行われた最終日のプログラムの一部として、のちに代表監督になるガレス・サウスゲートとのトレーニングセッションが組まれた。メソローニは当時についてこう語る。
「チームがどういう練習をしているか、私はガレスに説明した。私のチームに感銘を受けたと言っていたよ。特にストライカーのジャマルに」
コーパス・クリスティでの最後の一年、ジャマルは人間的にも大きな成長を果たした。ウェンブリー・スタジアムに招かれたとき、ジャマルは体育の先生を質問攻めにした。
「ジャマルはいつものように学ぼうという気持ちが強く、どんな選手がウェンブリーでハットトリックを達成したのか知りたがっていた。試合前に、ハードワークすることと同時に、ウェンブリーでプレーできるチャンスを楽しむようにチームに対して言ったんだ。するとジャマルは私に、僕はハットトリックできるように頑張ります、と言っていたよ。すると彼は4ゴールも奪ってみせた」
Goalこの時点で、ムシアラがチェルシーでプレーする選手だということを知っている人はほとんどいなかった。学校はロンドン南東にあるので、メソローニのチームはその地区のクラブを代表していた。そのため、この小さなストライカーは学校の大会のときはいつもフラムのユニフォームを着ていた。ブレントフォードやAFCウィンブルドンのユニフォームにも袖を通したこともある。
一方、学校以外で所属したイングランドのクラブはチェルシーだけだった。それはほとんどのチームメイトと良好な関係が築けていたからだ。特に、プレーや戦術の面でシーズンごとにジャマルの成長を促した、ジェームス・シモンズをはじめとするコーチ陣との関係は素晴らしいものだった。
それ以上に、チェルシーでは成長につながる経験を積めたことも特に重要な点だ。例えば、ポーランドのポズナンで行われたU12の大会であるレフ・カップでは、ユース時代で最も素晴らしいゴールを決めた。ベルギーのイーペルで行われたプレミアリーグのクリスマス休戦100周年記念大会では、U13のチームで優勝を果たし、ダウニング街でデイヴィッド・キャメロン首相と会談する機会を得たりもした。
Goalその中でもとりわけ大きな功績は、11歳のときにサウス・クロイドンにあるエリート校であるウィットギフト・スクールの奨学生になれたことだ。この私立校は、ブルーズのアカデミーと密接に連携を取り、授業と練習や試合のスケジュールを調整してくれることとなった。
この計らいの主な責任者であるアンドリュー・マーティンは、ウィットギフトのフットボール部門のディレクターで、入学以来ムシアラにとって重要な支援者となった。クリスタル・パレスでプレーした元プロ選手のマーティンは、週5回の授業を超えて、他の生徒以上にムシアラの面倒を見た。
「ジャマルはずば抜けて素晴らしい生徒だった。常に謙虚で、丁寧で、礼儀正しかった。だからクラスメイトにもチームメイトにも愛されていて、友人がたくさんいた。ジャマルはいつでも正しく振る舞い、時間を守り、周囲に対して敬意を欠かさなかった」
さらにマーティン氏はこう付け加えた。「たくさんの時間を一緒に過ごしたことで、ジャマルと私はピッチ内外で特別な関係を作れた。私たちは互いを尊敬し合っていたし、一緒にいて居心地がよかったんだ」。
だからこそ、サッカー面と人格面の両方の成長を促すためにムシアラをサポートすることは、マーティンにとって重要だったのだ。ティーンエイジャーになった少年から疑念を取り払うことも重要な要素であった。
「少し向こう見ずのところはあったが、彼はいつでも粘り強く戦い、体格が大きく屈強な子どもたちとよく張り合っていた。ファウルを受けたり蹴られたりしても文句の一つも言わなかった」とマーティン。ムシアラ少年に関して印象深い出来事も明かす。
「私の心に強く残っている出来事が一つあるんだ。U13全国大会の準決勝のことだ。とても強く、フィジカルが売りのチームとアウェーで戦ったんだ。学校総出で応援に来てくれていた。ジャマルは繰り返しファウルを受け、なかなか試合に入ることができず、イライラしてしまった。だがハーフタイムに、私は彼が上手くプレーできていることや、集中を切らさないでいることを伝えた。すると彼はチャンスを活かし、ついに輝きを放った。後半に2得点を奪って、3-1で試合に勝ったんだ」
Goalこういった試合経験を経て、ムシアラは自分の能力に自信を深めていった。
■帰還:ドイツ
Goalバートン・アポン・トレント、ニューボロー・ロードにあるセント・ジョージズ・パーク。
2017年12月18日。まだクリスマスではなかったが、イングランドU15で11番を背負った少年は、すでにクリスマス気分だった。
若きスリーライオンズのオランダ代表との一戦は、22分が過ぎたところだったが、ムシアラはすでにこの試合3点目を決めていた。立ち膝でスライディングし、友人のジュード・ベリンガムと握手するパフォーマンスを見せた。非の打ち所のないハットトリックだった。
Goalその後は大きくスコアが動かず、ケビン・ベッツィー率いるイングランドは3-2で勝利。彼にとってこの試合は、最高の一年を締めくくる最高の幕切れだった。若いフットボーラーのキャリアの中で素晴らしい瞬間であったと同時に、もっと高みを目指したいという気持ちを刺激する経験でもあった。そして徐々にドイツサッカー協会(DFB)の注目を引きつけた時期でもあった。
それから10か月が過ぎ、ムシアラはピルマゼンスでドイツU16チームに招待され、チームに加わった。
Getty Images2018年10月12日、ムシアラはシュポルトパルク・フスターヘーエに立ち、頭を横に振っていた。クリスチャン・ヴックのチームで2回のテストマッチを終えたところだったが、ベルギー代表に1-4で負けた試合に25分の出場機会しか与えられず、イングランドに帰るフライトが待ち遠しくてたまらなかった。ムシアラとDFBは、まだフィットしていなかったのだ。協会の一部の人と接触したとき、彼は明らかに絶賛を受けていたのだが、監督のヴックのことも、チームメイトのこともムシアラはよく知らなかった。
それでもまだ彼は15歳だった。どの国でプレーすべきか考える時間はまだ十分あった。当時の彼は、生活のすべてをチェルシーの活動に投じており、プライベートをますますチェルシーに捧げていた。練習場の近くにあるチェルシーが選定したホストファミリーの家に泊まることや、海外へ遠征することは彼の日常の一部だった。3年後、ムシアラはブルーズの要請でウィットギフトスクールを離れ、クラブの学校法人で義務過程修了資格を見直すことになった。
これは、監督やブルーズアカデミーに携わる人々が、彼をプロのレベルにまで引き上げる自信があることを示す証拠だ。ムシアラはストライカーでもあり、同時にプレーメーカーでもあった。
「ジャマルは早くから試合の状況を読む力があった」と語るのはウィットギフト時代の恩師であるアンドリュー・マーティン。「加えて、堂々としたドリブル、タイトなスペースでの素晴らしい動き、相手ゴールを前にしたときの冷静さ。これがあるから彼を止められないんだ」。
だが、スタンフォード・ブリッジでプレーするという夢は実現することはなかった。その原因は、家族がブレグジットの影響を考慮してドイツに帰ろうと考えたという、プライベートな理由だった。
それよりも重要なことは、少年時代にお気に入りのクラブだったバイエルンが彼の動向をチェックしていたことだ。事実、バイエルンは2019年にもう一人チェルシーのタレントを勧誘していた。カラム・ハドソン=オドイだ。ハサン・サリハミジッチSD(スポーツディレクター)とオドイの代理人であり兄弟のブラッドリーとの会談の中で、ジャマル・ムシアラの名前が何度か言及されたという。しかし、バイエルンはムシアラの才能についてはずっと前から知っていた。
ヘッドスカウトのマルコ・ネッペは2017年からムシアラのことをよく観察していた。一方、U16監督のアレクサンダー・モイはその数年前から彼を見出していた。「彼のことを知ったのは2015年、ロンドンにアウクスブルクとともにフレンドリーマッチの遠征に行ったときのことだ」と語り、熱っぽく付け加えた。
「彼は驚くほどスペースの感覚に優れていて、当時すでに違いを生み出せる存在だった。あの年代ではこれまで見たことがないほどだった。チームの子たちが、彼はシュトゥットガルト出身のドイツ人だということに気が付いてね。試合が終わった後に少し話をしたんだ。とても礼儀正しく、オープンな少年だった」
1年後にワーウィックで行われた別の大会でも、モイはムシアラと出会い、家族とも知り合った。3人目の子供、ジャレルが家族に加わっていた。「楽しい会話」の後、モイはムシアラ一家にバイエルンからの小包を手渡した。「特にジャマルの妹弟に何か渡したいと思っていたんだ。一家はバイエルンのサポーターだったからね。それ以来、一家と交流を持つことができたんだ」とモイは語る。
3年後、ミュンヘンで一家と再び出会った。モイはそのとき家族から聞いたことを思い出す。
「ジャマルが移籍してから再会したときに聞いたんだけど、彼のお母さんが言うには、妹のラティーシャは2016年に私がワーウィックで渡したバイエルンのキャップをいつも身につけていたそうだ。お父さんはバイエルンのペンダントをずっと首から下げていたそうだよ。あれ以来、家族はバイエルンにずっと良い印象を抱いてくれていたんだね」
それは家族だけではなかった。「当時他からもいくつかオファーを受けていた」とムシアラは明かしつつ、「けれど」と続ける。
「バイエルンを選ぶのが正しいように感じたんだ。正直に言えば、バイエルンのようなクラブが自分を望んでいたら、断れないでしょ?」
■爆発:バイエルン・ミュンヘン
Getty Imagesミュンヘンのフライマン地区、インゴルシュテッター通りにあるバイエルン・ミュンヘン・キャンパス。
7月のある暑い日。ムシアラは少々痛々しい見た目をしていた。ミュンヘンへ生活基盤を移す最中のことだったが、義務過程修了試験で行われた体育の時間で顎を骨折してしまったのだ。その新加入選手がピッチを横切ったのを初めて見たとき、U19指揮官ダニー・シュヴァルツは訝しげな表情を見せた。
16歳の少年はこれからミロスラフ・クローゼ率いるU17のチームに加わることになっていたが、当時U19の監督をマルティン・デミチェリスとともに任されていたシュヴァルツにとっては「目立たない」存在に見えたのだという。
「初めて彼と会ったとき、思ったんだ。『おいおい、シャイで控えめなやつだな』とね。この印象は、U17での初めて練習でより強まったんだ。その練習ではただただ目立たない存在で、ちょっと引っ込み思案なタイプにさえ見えたね」
それはどうやらケガのせいだった。「はっきり分かったのだが、顎の骨が折れていて活動を始めるのが難しかったんだね」とシュヴァルツ。物事の進行があまり遅くなりすぎないように、ムシアラはキャンパスで行われる通常の練習以外にもトレーニングを加えた。その練習はパーソナルトレーナーのシュテフェン・テペルが監督していた。
Getty Imagesテペルの専門は運動神経におけるスポーツ心理学だ。今でもムシアラの指導にあたり、「反応の安定性」を向上する手助けをしている。反応の安定性についてテペルはこのように説明する。
「強いプレッシャーを受けたときのボールコントロールを向上することで、デュエルのときにどれだけの強度でカウンターに入れるか変わってくる。それはバランス感覚や目の動きを鍛えれば向上できる。このふたつのシステムは脳と棘筋や体幹筋の直接のやりとりに関係している。例えば体幹筋はデュエルの強度を出すのにとてつもなく重要だ。これは特に目の動きでオンオフを切り替えることができるんだ」
ほどなくしてムシアラはU19チームに加わった。そしてほんの数回の練習を経て、シュヴァルツは彼に抱いた第一印象を改めることになる。「彼は自分の武器を驚くほど早くピッチで表現したんだ」と。特にムシアラのファーストタッチにはあっけに取られたという。
「たった一回のターンでマーカーを置き去りにして有利な状況を作り出すことができるんだ。何人か相手がいたとしても問題なくドリブルできる。彼はストリート・フットボーラーだ。『これから2回ステップオーバーして、それからボールを足で左に動かす』とか内心唱えながらやるのではなく、直感でやってしまうんだ。そういうことができる選手は本当にごくわずかしか見たことがない。あれは才能だ。練習で身につけることはできない」
だが、シュヴァルツを含むキャンパスの監督陣には、このティーンエイジャーに教えるべきことがいくつかあった。
「ミロ(クローゼ)、ミチョ(デミチェリス)そして私は彼のディフェンス面に焦点を当てた。私たちはこう言った。『できるだけ前を向いて、自分の直感を信じろ。もしボールを100回失うことがあっても、ただそれだけのことだ。だが、ボールを失った後プレスバックせずに立っているだけだと問題が起こる』」
シュヴァルツはこう言うと、興味深い比較をし始めた。
「この点では、彼はちょっとトーマス・ミュラーを思い出させるところがある。ジャマルは腕や脚がムキムキのアニマルではないけれど、敵に回すととても厄介なプレイヤーだね」
2020年6月20日、ミュンヘンに到着してから1年も経っていなかった。ブンデスリーガのフライブルク戦、ジャマル・ムシアラは88分にミュラーと替わってピッチに姿を見せる。U19で8回出場し説得力のあるプレーをし、さらにセバスティアン・ヘーネス率いるU23でも10試合に出場。この結果をもってハンジ・フリックが17歳のヤングスターをバイエルン史上最年少リーグ出場に導いたのだ。著しい成長の結果であり、同時に全く新しい物語の始まりでもあった。
フリックは「飛び抜けた才能」に興味津々で、バイエルンアカデミーがムシアラと契約したことを称賛していた。その後、この至宝はリスボンで行われたチャンピオンズリーグの準々決勝にもメンバー入り。ポルトガルでプレーすることは叶わなかったが、ムシアラにとっては信じられないほどの経験だった。憧れの選手の一人であったネイマールと腕を組んで写真を撮ることもできたのだった。
Getty Images2020年夏の短いオフの後、ムシアラはブレイクを果たす。9月18日のシャルケ戦でブンデスリーガ初ゴールをマーク。12月初めには、アウェーで行われたアトレティコ・マドリー戦でついにチャンピオンズリーグでも初出場。そして、冒頭のRBライプツィヒ戦でチャンスを活かし、称賛を浴びることになったのだった。
フリックだけでなく、チームメイトまでも公の場でムシアラに言及。「ジャマルはあの年齢にしては驚くほどすばらしい」と言ったのはヨシュア・キミッヒ。マヌエル・ノイアーにしても「あの少年は私たちのチームにとって重要な存在だ」と褒めちぎだった。
キミッヒ、ノイアー、そしてセルジュ・ニャブリ、レロイ・サネ、レオン・ゴレツカ、そしてフランス人のキングスレイ・コマンも、日に日に売り出し中のスターと親交を深めていった。特にサネはこのティーンエイジャーを可愛がり「バンビ」とニックネームをつけた。そして「ワーカホリック」なキミッヒが、ゼーベナー通りにあるウェイトトレーニングルームでムシアラに練習以外のトレーニングを課すのは日常の光景となっている。
そうした日常の間にも、キミッヒはDFBでプレーするよう説得する機会を逃さなかった。他のドイツ人のチームメイトもそうしていた。ピルマゼンスで行われたU16の試合で残念な経験をして以来、ムシアラはドイツ代表のエンブレムを胸につけてプレーしたことはなかった。その間、スリーライオンズのユニフォームを着ていたのだ。
だが、変化のときが来る。18歳の誕生日を迎える少し前に、ムシアラはドイツ代表に加わる決断を下した。それはキミッヒたちの説得のおかげだけでなく、代表監督のヨアヒム・レーヴの努力の賜物かもしれない。レーヴは2021年1月末にムシアラとアリアンツ・アレーナで個人的に会っていた。
ムシアラはこの決断について「僕にとって簡単なものではなかった」と『Goal』に明かす。
「僕の心はドイツとイングランドの両方にある。どちらの心も生き続けているんだ。最終的には、自分が生まれた国であるドイツでプレーすることが正しい決断だ、というフィーリングに従うことにしたんだ」
だが、今も父が住むイングランドは「いつだって自分の故郷」だという。ムシアラはイングランドにも特別な思いを抱えている。
「イングランドに引っ越したのは僕がまだ7歳のときで、言葉もほとんどわからなかった。でもフットボールを介したやりとりやイングランドの人たちの優しさのおかげで僕は溶け込むことができた。周りと違っていたし、幼い子供だったし、ややこしいバックグラウンドを持っていたし、言葉も話せなかったのに、皆いつでも歓迎の気持ちを僕に見せてくれた。フットボールでは、情熱と、そして楽しい気持ちが人を繋げてくれるんだ。これはフットボールがくれる魔法だ。それがあったからこそ今の僕があるんだ」
特別な人間。特別なフットボーラー。成長を楽しみにしているのはドイツ代表だけではない。ムシアラはバイエルン・ミュンヘンで初めてプロ契約を結んだばかりだが、彼の素晴らしい物語はまだ幕を開けたばかりだ。
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