我が家に勝る場所などない。若くして家を飛び出した者にとってはなおさらだ。
Mr.バルセロナことジェラール・ピケは、世界で最も優秀なアカデミーとして名高い“ラ・マシア”を離れ、夢を叶えるために海外へ渡った。結果として海外で成功をつかむことはできなかったが、自分の選択を全く後悔していない。
「17歳の時にマンチェスター・ユナイテッドに移籍したんだ。ユナイテッドでは本当に沢山のことを学んだよ。確かに望んでいたほどピッチに立てたわけじゃなかったけど、選手として、そして人として成長できた。マスタークラスのレッスンを受けたようなものだったんだ」
一時的に優秀なアカデミー生を失ったバルサだったが、2008年に大きな恩恵を得ることになる。サー・アレックス・ファーガソンの手で磨かれて輝くダイヤモンドとなった男を500万ポンド(約7億5000万円)で買い戻す機会を得たのだ。そしてここから、ピケはカラタンのクラブ史に残るまばゆい光を放つことになる。
2009年のUEFAチャンピオンズリーグ(CL)決勝直前、ファーガソンはこう口にした。
「私は常に彼のことを良い選手だと思っていたよ。だから失うことになってガッカリした」
奇しくもユナイテッドはピケが“家”に戻ったこの年、そして2011年にもバルセロナに敗れている。
故郷に戻る選択をしたピケだったが、まさかここまで多くの勝利と歓喜の瞬間を手にできるとは考えていなかったかもしれない。
カルレス・プジョルとのコンビは、近年最高の組み合わせだったと言っていい。守備の要となるポジションに最高の2人を手に入れたバルサは、ラ・リーガのタイトルを6度、チャンピオンズリーグの栄冠を3度、カンプ・ノウに持ち帰った。
ピケはスペイン代表の一員としても輝き続けた。ヨーロッパチャンピオンとなり、ワールドカップ優勝を成し遂げた。黄金世代の一人として、ほとんど誰も成し遂げられないと考えられていた偉業を打ち立てたのだ。
彼ほど様々なところで多くのタイトルを手にし、多種多様な歓喜の瞬間を味わってきた男はいない。とりわけバルセロナの魂として肩を並べられる者はいない。
その偉大なフットボーラーはナイキのティエンポとともに歩み、輝かしい時代を築いてきた。今では30代に入り、偉大なアカデミー出身者の模範となっている。バルサの精神を学びながらトップのカテゴリーへ上がっていくことの重要性を、プレーで、言葉で、その背中で説いているのだ。

ピッチ上では優雅なプレーで試合を支配する。2016-17シーズン、チームを最終ラインから指揮し、クリア数(104)、ブロック(30)でチームトップ、またデュエルでの勝率は実に64.8%と、素晴らしい数字を叩き出した。
ピケが異彩を放つのはピッチ内だけではない。ピッチ外ではパートナーのポップスター、シャキーラとともにレッドカーペットの常連だ。若々しい魅力と優しさで国際的なアイコンとして人気を集めている。
ユニフォームを着てペナルティーエリア内に陣取る場面から、マイクを握って壇上に立つ瞬間まで、どんな場面でもバルサの代弁者として人々の関心を集める。カタルーニャの独立運動を公然と支持している点も、レジェンドとして揺るぎない地位を築いている要因だ。
そして何より、永遠のライバルであるレアル・マドリーとの戦いで、常に先頭になってチームを導いていく。例えば先日、クラブがコパ・デル・レイの優勝パレードをしなかった選択について問われると、ライバルをこう“口撃”してみせた。
「ここ何年かで僕たちが勝ち取ってきたものと、マドリーがこの2年間で勝ち取ったものを比べられるはずもないさ」
「僕たちがコパ・デル・レイの優勝だけでパレードをしたら、マドリーみたいじゃないか」
マドリー側の人間はもちろんのこと、フラットなファンがこの発言を聞いてどのような印象を持つか、定かではない。だが、一つ確かなことがあるとすれば、バルサを支持する者たちにとってピケは常に心強い存在であるということだ。
ジェラール・ピケはジェラール・ピケであり続ける限り、バルセロナを守り続ける。その姿勢こそ、多くのファンに支持される理由なのだ。
最後に同胞の言葉を引用し、締めくくるとしよう。同じくバルセロナにルーツを持つペップ・グアルディオラは、今年のはじめにこう話している。
「おそらく私はバルセロナの会長にならない。なぜなら、その席にはピケが座るだろうからね」


