イングランドのレジェンドであるギャリー・リネカー氏が『BBC』で日本とJリーグについて語った。
現役時代にレスターとエヴァートン、バルセロナ、トッテナムでプレーしたストライカーのリネカー氏は、1992年にJリーグ開幕を控えた名古屋グランパスに加入。イングランド代表などでの活躍もあり、Jリーグ発足時のスター選手として大きな注目を浴びた。
負傷などもあってJリーグでの成績は2シーズンで18試合4ゴールにとどまったリネカー氏は、そのまま日本で引退。その後、母国で『BBC』の人気番組『Match of the Day』の司会や解説者として活躍している。
そのリネカー氏はJリーグ30周年にあたり、『BBC』のロングインタビューで当時を回想。リネカー氏は「名古屋グランパスエイトでの私のJリーグデビューは0-5での敗戦だった。残念ながら、その後も私のプレーがうまくいったわけではないけど、30年が経った今でも日本にいた頃をとても懐かしく思うんだ」と開幕戦で鹿島アントラーズに0-5で敗れたことに触れ、移籍当初のことについて語った。
「日本に行くのは大きな冒険だった。日本にとってはプロスポーツとしてサッカーが生まれた時だった。そのような新しいことに関わるのは選手にとって珍しいことだ。もっとプレーできれば良かったけど、発足Jリーグに関わって、その発展を見るのはとても興奮した。望んでいた形ではなかったけど、私がキャリアを終えた場所でもある」
「31歳だった私はキャリアの終え方を考えていた。トップのままイングランドサッカー界を退きたかった。1993年にスパーズ(トッテナム)との契約を終えて引退する予定だった。チャンスが適切なタイミングで訪れたんだ。その時に日本の人たちからアプローチされた。私はバルサでもプレーしたし、異文化を体験することに興味を持っていた。日本は常に私を魅了する場所と思ったし、安全で安心できる。自分のキャリアを終わらせるのに良い場所だと思ったんだ」
加入前に当時幼かった息子のジョージ君が白血病との闘病を強いられるという障壁がありながらも日本での挑戦を決めたリネカー氏。イングランドのレジェンドは、開幕時のJリーグの様子を以下のように振り返った。
「最初は10チームという小規模のスタートだった。マーケティングやファンの関心を集めるために、野球やアメリカンフットボールなどの確立されていたモデルも参考にしているようだったね。試合前のイベントやフラッグ掲出、音楽やグッズ、マスコットなどで盛り上げていた。すべてが華やかでカラフルで、ファンの振る舞いも素晴らしかった。全員がリスペクトを持ってポジティブだった。イングランドのアウェーで受けるような罵声もなかったね。多くの若者と女性のファンもいて、みんなの声援はとても嬉しかったよ」
Jリーグは今年で30周年。リネカー氏は様々なことを回想したロングインタビューの中で、Jリーグの発展を喜び、日本への感謝を口にしている。
「Jリーグは大きくなり、ファンからの人気も保っている。私がいた頃も選手たちは一生懸命で技術的には優れていたけど、プロになったばかりだからメンタル面で少し弱い選手もいた。より発展した国でプレーしている選手と比べると戦術理解度やタフさに欠けていた。でも、今はそうではない。Jリーグのトップ選手は世界中から求められる。世界中のクラブでプレーし、代表チームへの影響も強い」
「目標の一つだった2002年のワールドカップ共催も果たした。日本代表は7度にわたってワールドカップに出場し続けている。女子の日本代表もアジアをリードしている。私はそれらの成功に貢献できていないが、今でも日本とその文化に心から親しみの思いをもっているんだ。それは私の家族も同様だ。日本の発展を見るのは本当に素晴らしい」
「(次男の)ハリーが生まれた場所でもある。今でも日本的な愛情表現として『ハリーちゃん』と呼んでいるくらいだ。彼は日本とのつながりをとても誇りに思っている。本当に大きな意味がある。2016年にレスターがプレミアリーグを制覇した時、彼が一番好きだったのは岡崎慎司選手だ。試合観戦の時、彼は常に岡崎選手のユニフォームを着ていたよ」
