2017-09-20-TAGHeuerBanner

金メダリスト、高橋尚子が自身の成長を振り返る。ヤングプレーヤーたちに贈る言葉とは? /AWARD SUPPORTERSインタビュー

サッカーというスポーツの存在感の大きさは、仕事を通じて肌で感じている。

「JICA(国際協力機構)のお仕事で世界各国に行かせていただく機会があるのですが、どこへ行っても、サッカーが一番人気のスポーツであることを実感します。サッカーが好きな子どもたちと夢や目標を語り合う、そんな機会も多いんですよ。決して生活が豊かではない国でも、子どもから大人までみんなが楽しんでいる。サッカーは、世界とつながれるスポーツだと思います」

今から17年前、当時28歳の高橋尚子は世界の頂点に立った。

シドニーオリンピック、女子マラソン。残り8キロで一気のスパートを仕掛けた高橋は、追いすがるライバルとの息詰まるデッドヒートに競り勝った。ゴールの瞬間に見せたのは、とびきりの笑顔。彼女はオリンピックの金メダルを獲得し、表彰台でまた笑った。

一躍スターダムに駆け上がった「Qちゃん」だが、シンデレラ・ストーリーの始まりは決して華やかではない。

「10代の頃は決して強くないランナーでした。高校2年の時、初めて都道府県対抗女子駅伝に出場したんです。私は2区を走った47選手のうち45番目。この大会には計8度出場して、最後にはエース区間で区間賞を取ることができました。でも、そこにたどり着くまでは試行錯誤の毎日でした」

区間45位からオリンピックの金メダルに到達するまで、高橋の成長過程は3つの段階に分かれていたという。

「自分の殻の中だけでもがいていたのが第1段階。小出義雄監督の下で自分の殻を完全に破り捨てたのが第2段階。そこに自分の考えを加えながら、小出監督とともに歩んだのが第3段階。第2段階では完全に“自分”を捨てました。そこで殻を破れたことで、飛躍的に成長できたんです」

国内外の大会をテレビで観戦していた第1段階の高橋は、「どんなに頑張っても、私にはあそこで走れるほどの力はないんだろうな」と考えていた。ただ、漠然とした不安を感じても自分を見限ることだけはしなかった。強さの秘密はそこにある。

「私、すぐに行動に移せるタイプなんですよ。悩んでも強くなれない。力が足りないなら練習するしかない。でも、人と同じ練習をしても差は永久に埋まらないから、とにかく練習しました。人よりたくさん練習して、それを毎日、少しずつ積み重ねて差を埋める。不安はすべて、練習にぶつけました。そういうスタイルが自分らしさであり、あの頃の私が作った“殻”になるんです」

小出監督に教わるために直談判で実業団の門をたたき、社会人としてのキャリアをスタートさせた。殻を破る第2段階がスタートしたのは、それから1年後のことである。

「チームには有森裕子さんや鈴木博美さんのような世界大会で活躍している選手がいるのに、自分だけ結果が出なかったんです。1年間もがいて、自分だけ堂々めぐりで前に進むことができなかった。自分を捨てなきゃいけないと思いました。だから監督の言うことを100パーセント聞き入れて、それを忠実に実践することに集中したんです。もし失敗しても、小出監督のせいにしちゃえばいいやと開き直って(笑)」

日本一の実業団に所属しながら「いつもオドオドしていた」という真面目で心配性な高橋には、しかし誰にも負けない気持ちの強さがあった。これと決めたら譲らない頑固さは融通の利かない不器用さと紙一重だが、悩んでも立ち止まらず、一直線に突き進もうとする思いの強さだけは絶対に弱らなかった。

「目標も漠然としていたし、実力もありませんでした。でも、思いだけは強かった。そこがブレなかったのが大きいと思うんです。小出監督に『お願いします』と頭を下げた以上、やらないわけにはいかない。絶対に結果を出すんだと強く思っていました」

小出監督の指導により、高橋の潜在能力は一気に引き出された。頭角を現し始めた彼女はトラックで世界大会に出場したのち、マラソンに転向しシドニー五輪の日本代表に選出される。

「私、意外とビビリなんですよ。97年に初めて出場した世界陸上では、5000メートルの決勝に進めたんですけど……スタートラインに立ったら、緊張で足が全く動かなくなっちゃって。観客席にいた監督から『Q! 動け!』『アイツ、固まっちゃってるよ』という笑い声が聞こえました(笑)」

しかし3年後、シドニー五輪のマラソンのスタートラインに立った彼女はまるで別人だった。金メダルを期待されるプレッシャーに打ち勝ち、笑顔でゴールテープを切れた理由はそこにある。

「シドニーのスタートラインでは躍っていたんです。私、自分自身に全く期待していなかったんですよ。毎日の練習を一生懸命にこなしてきて、その日の課題をすべてクリアしてきて、今日の課題である『オリンピックの金メダル』だけ『できません』と答えるのはヘンですよね。私にとっては、365日の中の普通の1日。特別ではなかったんです。だから実力以上の期待は全くなかった」

振り返れば、原点はある人から言われたひとことにある。

「高校時代に言われたんです。『お前には走る素質はない。でも頑張る素質はあるぞ』って。それがすごく嬉しかったんです。頑張る素質は自分次第でなくなってしまう。だから、努力するほど伸びるに違いないって。私はそれを強みにしたいと思いました。人の2倍で人並み。人の3倍で人以上。だから努力が苦じゃなかったし、楽しかった」

もちろん努力するための工夫もした。朝夕のチーム練習後は必ず1時間ほどの個別練習を実施し、「探検ランニング」と名付けた。花を見つけたら立ち止まり、キレイな景色を前に思わず見とれる。子どもの頃に感じた「走ることが楽しい」という感覚を最後まで持ち続けられたことが、“人の3倍”の努力を可能にし、彼女を“人以上”のランナーに育てた。その経験を踏まえて、「ヤング世代のサッカー選手へのアドバイスを」というリクエストにはこう答える。

「レベルや競技に関係なく、アスリートはみんな同じ時代を経験すると思うんです。大切なのは、瞬間を重ねること。1秒が勝負。私も常に時間との戦いでした。どんなにいい計画を立てても、目標を持っても、近道はないんですよね。1秒1秒を積み重ねることでしか前に進めないからこそ、その瞬間を大切にしてほしい。苦しい時こそ強くなるチャンス。私はずっと、そう思っていましたから」

思いを絶やさず、努力を楽しみ、前へ前へと突き進む。ゴールテープを切る瞬間の笑顔は、“かけがえのない1秒”の積み重ねによって生まれた。最後に聞いた。もし高橋尚子がサッカー選手だったら、どんなプレーヤーに?

「性格的には、攻撃より守備の選手かなあ。言われたことをやるほうが向いているんと思うんですけど、先に口が動いてしまうタイプでもあるので、知らぬ間にみんなに指示を出しているような気も……。ディフェンスリーダー? そうかも(笑)。団体競技に対する憧れは強いんです。試合に出る選手も、出ない選手も、みんながひとつになれる。もし私がサッカー選手だったら、そういうチームの一員でありたいなあって」。

文=細江克弥
写真=浦正弘

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【Profile】
高橋尚子
1972年5月6日生まれ。
中学から本格的に陸上競技を始め、県立岐阜商業高校、大阪学院大学を経て実業団へ。1998年の名古屋国際女子マラソンで初優勝、以来マラソンでは6連勝。
2000年のシドニーオリンピックで金メダルを獲得した。同年国民栄誉賞受賞。2008年10月現役引退を発表。現在はスポーツキャスター、JICAオフィシャルサポーターなどで活躍中。公益財団法人日本陸上競技連盟 理事、公益財団法人日本オリンピック委員会 理事、公益財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員会委員長。

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