その晩、魔法がかかったような試合を終えてスターになったジャック・ウィルシャーは、まるで一人のファンに戻ったかのようだった。彼は父親とともに戦勝の記念品であるシャビ・エルナンデスとリオネル・メッシのユニフォームをかざしながら、戸惑ったかのような顔でスマートフォンのカメラを覗きこんでいた。それからまもなく、ウィルシャーはセスク・ファブレガスにからかわれた。ファブレガスは2011年2月18日のツイッターで、「信じられないね。俺はお前のためにメッシのユニフォームをもらいに行く羽目になったんだぞ。お前はおどおどしてたもんな。お前はマン・オブ・ザ・マッチだったんだから、次は自分で頼めよな!」とつぶやいていた。
Twitter/Jack Wilshereこれより2日前の2月16日、ウィルシャーはフットボール界全体を魅了した。ダビド・ビジャ、ペドロ・ロドリゲス、リオネル・メッシ、セルヒオ・ブスケツ、アンドレス・イニエスタ、シャビ・エルナンデス――並みいるスターたちが背番号19をつけたイングランドの若者からボールを奪い取ろうと奮闘しながら、その願いは90分間で果たされることはなかった。この晩のウィルシャーの勢いはほとんど誰にも止められなかった。正真正銘の大舞台。完璧に刈り込まれた芝生、スタジアムの照明に煌々と照らし出されたピッチの雰囲気、バルセロナをゲストに迎えてのチャンピオンズリーグ決勝トーナメント一回戦。この記憶に残るロンドンの一夜、アーセナルが2-1で勝利を収めた試合で、ウィルシャーは突如魔術師としての正体を知らしめたのだった。
ウィルシャーは自陣深くに構えてボールを受けては、慎重に見極めつつ仲間にパスを出した。細かいステップと少ないタッチ数で、カタルーニャのスターたちを絶望的な気分に追い込んだ。配球の妙を見せるかと思えば、ボールを奪うのも巧みだった。そのどちらの役割においても、他の追随を許さなかった。「あの晩我々と戦ったウィルシャーのプレーはファンタスティックだったよ」と、数年経ってもなおこの晩のことはシャビの記憶に残っていた。
いずれにせよ、この時スーパースターが誕生したという点では、ファンも専門家も意見が一致していた。ウィルシャーは突然、1試合のみで期待の星として認められたのだ。きらびやかな未来を約束された者として、イングランド代表でポール・スコールズ、フランク・ランパード、スティーブン・ジェラードといったMFのスター選手たちの後を追うべく選ばれているように思われた。が、そううまくはいかなかった。
■ケガ、レンタル放出、移籍への思い
素晴らしいシーズンを終えた後、ウィルシャーの運命は突如として下降線を辿った。度重なる深刻な負傷のために、数年に渡って彼のキャリアには何度もブレーキがかけられた。2015年10月、シャビは次のように語った。
「あんなに何度もケガに見舞われるなんてひどい話だ。彼がケガをせずにキャリアを積めていたら、今頃はもうヨーロッパ最高のMFの一人として認められていただろう」
だが、長年に渡りMFの指標のように見なされているバルセロナのレジェンドは、ウィルシャーには今もなおトップに立つ器があると公言している。「続けて試合に出られるようになれば、彼は、アーセナルにとってもイングランド代表にとっても違いを作ることができるプレーヤーなんだ」とピッチで凄みを体感している男はそう太鼓判を押した。
Getty Images2015年当時のウィルシャーは、またもやケガのせいで離脱していた。すでに2011-12シーズンを全試合欠場で過ごしていたが、腓骨にひびが入ったせいで2015-16シーズンも離脱を余儀なくされ、出場した公式戦は全部でたったの3試合。ロンドン北部(アーセナルのホームタウン)では忍耐が限界に達し、クラブの幹部たちは、ケガから回復したばかりのウィルシャーに役割を果たすだけの力があるとは信じられず、彼をAFCボーンマスへレンタルで放出した。ボーンマスで戦線に復帰したものの、2017年4月には再度ケガに見舞われた。2017-18シーズンにアーセナルへ復帰した後もアーセン・ヴェンゲル監督は他の選手たちに試合を預け、2017年11月までプレミアリーグではせいぜい短時間の起用に留まった。まともに出場できたのはヨーロッパリーグのBATEボリソフ戦、レッドスター・ベオグラード戦、ケルン戦のみである。野心に燃え、自身の才能に信を置くウィルシャーにとって、これで十分なはずがない。
2カ月足らず前、すでに26歳になったウィルシャーは、依然として真剣に移籍について思い巡らせていた。彼は11月の終わりに『エクスプレス』紙に次のように語っている。
「僕はプレミアリーグで試合に出たいんだ。だから、当然のことながらフラストレーションを抱えている。全力を尽くすつもりだけれど、場合によっては1月に退団の可能性について話し合わなければならないと思うんだ。もちろんそれまでにはまだひと月あるから、どうなるか見守ることになるだろう」
■突然の復活
そうこうするうちに事態に劇的な変化が起きた。かつて気心知れたパートナーだったアーロン・ラムジーが負傷して以来、ウィルシャーが試合に使われるようになったのだ。その上、彼は突然、再び中心となって試合をコントロールするようになった。年末年始からフル稼働し、以前から彼を際立たせていたあらゆる資質を発揮して、皆を納得させたのだ。3-2でアーセナルが勝利を収めた12月29日のクリスタル・パレス戦、2-2で引き分けた1月4日のチェルシー戦でも、ウィルシャーはピッチ上で最も活躍したプレーヤーだった。
最近になってヴェンゲル監督は、ウィルシャーの復活は皆にとって驚きでしかないだろうと話す。
「ウィルシャーがここまでやれると思っている者はそんなにいなかった。彼が最後に代表チームでプレーしたのはいつだったかな? 2016年6月の1-2で負けたアイスランド戦に途中交代で出場して以来、彼に出番はなかった。つまり、彼は見限られていたと言ってもいいだろう。だが今は、彼が再び代表に指名されても誰も驚かないだろう」
さらに指揮官は、ウィルシャーの素晴らしい活躍が決して偶然ではなく、大きな評価を得るべきだとメディアを通して主張した。このところのウィルシャーの好調はデータが証明している。たとえば、彼はプレミアリーグでファウルを受けた平均数が最も多く、『Opta』によれば1試合につき3.6回と記録されている。チェルシー戦までの6試合では、たっぷり21回もファウルによって阻止されている。比較のために数字を挙げるなら、これら6試合でメスト・エジル、アレクサンドル・ラカゼット、アレクシス・サンチェスが受けたファウル数は、3人合わせても17回に過ぎない。さらに、この6試合の期間中にアーセナルで最も多くパスを成功させたのも(88%)、デュエルでの勝利率が最も高かったのも(62%)、他ならぬウィルシャーである。要するにウィルシャーは再び重要な存在になっているのだが、これは彼の才能を思えば何も驚くようなことではない。
すでに2017年2月のAFCボーンマス戦の前に、ペップ・グアルディオラは熱く語っていた。
「私は今でもアーセナル戦のことを思い出すんだ。あの時のウィルシャーは強烈な印象を残したよ。まったく素晴らしいプレーだった。私にはよくわかっているが、彼の唯一の問題はケガだったんだ」
そして、マンチェスター・シティを率いる“預言者”は、約1年後に起こりつつあることを当ててみせた。
「ウィルシャーは再びイングランド最高のMFの一人になるだろう。彼は才能に恵まれており、頭が良くてボールキープ力もある。ドリブルの能力が抜きんでているし、センターバックにプレッシャーをかけることができる」
Getty Images■「昔のように最高の状態だ」
もちろんイングランドでは、ウィルシャーは長い間厳しい視線を浴びてきた。度重なる負傷のせいでかつて最高の才能と目されたことが大いに疑問とされただけでなく、彼のパフォーマンス力や生活態度にも疑いの目が向けられた。イングランドのナイトクラブでの喫煙や乱暴な振る舞いが目撃され、ウィルシャー自身が問題を難しくしていた時期もあった。だが、そういった時期は終わった。現在のウィルシャーはハードに働くプレーヤーとして知られており、それどころかプロ選手の模範とさえ思われている。
彼は変わったのだ。結婚して父親になり、何より成熟した。生活態度や栄養管理を改めたウィルシャーは、グルテンフリーでミルクフリーの生活を送っている。数グラムの減量にさえこだわって、肉体を可能な限り最高の状態に持って行こうとしている。
「そうやって頑張っていれば、自分の体を信じることができるんだ。どんなふうに栄養を摂れば一番いいのか、どうやれば一番うまく体が回復するのか、どれだけの睡眠が必要か、僕にはちゃんとわかってるんだ。もう何年もこれを続けているし、今の僕は昔のように最高の状態だと思うよ」と語られた言葉から感じるのは頼もしさのみだ。
今では再び、夏に期限切れになるアーセナルとの契約が延長される見込みも十分にあると考えられている。もちろん、報酬の額に関してはまだ意見の食い違いがあるにしても、プレー面での疑いは払拭されている。
Getty新しい年を迎えた現在、ウィルシャーはかつて彼の前に敷かれていたレールに戻って来たようだ。苦難もありながら、確かに彼は戻ってきた。
「僕は次々に襲ってくる逆境を何とかしなければならなかった。だけど、いつも信じていたんだ。いつかまた今のようなレベルまで達して、アーセナルでプレーできるようになるだろうってね。僕は一度だって信じることをやめはしなかった」
次なる目標は、スリーライオンズ(イングランド代表の愛称)への復帰とロシア・ワールドカップへの参戦だ。「僕はまだイングランド代表になれると信じている。僕にはそれだけの力があると信じているんだ」と語るウィルシャーに疑いの目を持つ者は、自分で「サッカーが理解できない」と言っているようなものだろう。
ペップと同様に未来を予言したシャビは、2011年2月16日の、あの魔法の夜のことを今頃思い起こしていることだろう。あの夜では例外ではなかった。そうつぶやきながら。


