レアル・マドリー対バルセロナ――。
これほど注目を集める対戦は世界中を見渡してもほとんどない。アルゼンチンのサッカーファンがいくら「ボカ・ジュニアーズ対リーベル・プレートこそ、クラシコ(伝統の一戦)だ」と主張しようと、最高峰の戦いが繰り広げられるのはスペインのクラシコだ。
南米で最も熱狂的な試合にも敬意を払うが、それでもこの2つの対戦の違いに言葉を多く費やす必要はないだろう。地球上に同格のスペクタクルが存在しないことは、今までマドリーとバルセロナに名を連ねた選手たちを見るだけで十分だ。積み重ねられてきた歴史、最強のライバル意識、そしてピッチで繰り広げられる世界最高レベルのサッカー……。
これほど高みと情熱を併せ持ったスポーツイベントは、他にはない。
では、両者のライバル関係はいつから始まったのだろうか? 今回はクラシコの歴史を紐解いていくことにしよう。
■バルサとのライバル意識の始まり
レアル・マドリーとバルセロナの間に横たわるライバル意識は決して新しいものではない。かつて激烈な戦いを繰り広げたジョゼ・モウリーニョとジョゼップ・グアルディオラの時代からはるか昔……。物語は1950年代までさかのぼる。
事の発端はマドリーがアルフレッド・ディ・ステファノを獲得したことだった。以降、両者のライバル意識は計りがたい域にまで達していくことになる。
ディ・ステファノは1954年10月23日、バルサと契約を済ませた身でありながら、レアル・マドリーの選手となった。カタルーニャの州都からは今でも「フランコ総統の独裁政権が入団先を変えさせたのでは?」という声が聞こえてくる。だが、実際の真相はどうだったのだろう?
マドリーへの入団が決まる半年前、1954年の春のことだ。バルセロナの理事たちはディ・ステファノを口説き落としていた。バルサの伝説的選手、そして監督も務めたジョゼップ・サミティエールはこのアルゼンチン人プレーヤーを最も高く評価し、獲得を熱望していたのだ。やがてその熱は上層部に伝わり、同じように獲得を望むようになった。
当時、ラ・サエタ(ブロンドの矢、ディ・ステファノの愛称)はミジョナリオス(コロンビア)でプレーしていた。母国で起きた労働問題により、国外に働き先を求めた多くのアルゼンチン人と同じ道をたどっていたのだ。彼は当初、バルサのオファーを受けるかどうか悩んだものの、最終的には妻と二人の子どもを連れて大西洋を渡る道を選んだ。
チームの練習に参加し、いくつかの親善試合でプレーする間、クラブは契約の締結を進めていった。当初、バルサのエンリケ・マルティ会長はミジョナリオスではなく、ディ・ステファノが移籍する前に所属していたクラブ、リーベル・プレートと交渉していた。しかし、10月になってFIFAからある通達が届く。「コロンビアに移住した選手はアルゼンチンに戻らなければならない」というものだ。
かくしてディ・ステファノは母国のブエノスアイレスへ戻ることになった。ブラウグラナ(バルサの愛称)としても、当人とミジョナリオスの間で交渉が行われる方がより理論的だと考えていた。
バルサはリーベル・プレートと合意に達した後、ミジョナリオスとも話し合いの場を持った。ディ・ステファノがアルゼンチンのクラブに戻るまで、数カ月の間、レンタル移籍を希望する趣旨の交渉を持ちかけるためだ。
しかし、ここで問題が発生する。ミジョナリオスは高額の対価を求めてきたのだ。バルセロナは支払いを拒否し、移籍に関する一連の話に暗雲が立ち込めた。
レアル・マドリーが現れたのは、まさにその時だった。サンティアゴ・ベルナベウ会長とその最も信頼する理事であるライムンド・サポルタが動き、ミジョナリオスと接触したのだ。そして、マドリーはコロンビアのクラブが求める対価を支払うことを受け入れた。
その後、今度はリーベルと交渉の場を持つことに。この時点でリーベルはバルセロナに対し、ディ・ステファノの権利を50%、約200万ペタセほどで売却していた。
状況が複雑化してきたため、FIFAは元スペイン・サッカー協会会長のアルアンド・ムニョス・カレロを仲介人として指名し、事態の収拾を図った。カレロはディ・ステファノに対して1956年までの2年間をレアル・マドリーでプレーし、次の2年間はバルセロナに行くよう勧めた。しかし、バルセロナがこの提案を拒否する。
ただし、その夏に事態は急変する。サミティエールが免職となり、バルサの内部にディ・ステファノを評価する者がいなくなってしまったのだ。結果としてマドリーがバルサに対して440万ペセタを支払うことで決着し、ディ・ステファノは白いユニフォームをまとうことになった。
■クラシコが人々を引きつける理由
まさに、この事件からだ。ブランコス(レアル・マドリー関係者、ファンの愛称)とクレス(バルサ関係者、ファンの愛称)の間に、強烈なライバル意識が芽生えるようになったのは。
今は、この対抗心はスポーツの枠を超え、政治の分野まで広がっている。中央集権主義のマドリー、対するバルサはカタルーニャ州独立の錦の御旗となった。そして両者の対立は今日でも、クリスティアーノ・ロナウドとリオネル・メッシによって具現化されている。CR7の決定力とメッシのテクニック、どちらが優れたものなのか。その議論に終わりは見えない。
なぜマドリーとバルセロナが対象的なスタイルを掲げるようになったのかは、歴史的な背景を紐解けば完璧に説明がつく。
マドリーのモットーは何より「勝利を手にすること」だ。ドン・アルフレッドが加入してクラブに最初の栄光の時代が訪れて以来、彼らは勝つことしか知らないクラブになった。もちろん、クラシコでも同じことだ。
一方のバルセロナはヨハン・クライフが築き上げた“華麗でスペクタクルなサッカー”を常に求めている。
半世紀以上前の出来事を発端として積み重ねられてきた歴史、激しく熱いライバル意識、そして今なお世界最高水準のレベルを保ち続けること……。
様々な事件、経緯、背景があるからこそ、エル・クラシコは世界中のフットボールファンを興奮のるつぼへといざなっていくのだ。
文=フアン・イグナシオ・ガルシア=オチョア/Juan Ignacio G-Ochoa(マルカ紙レアル・マドリー番記者)
翻訳=原ゆみこ
協力=江間慎一郎
■放送日程
レアル・マドリー対バルセロナ
4月23日 深夜3時30分~(WOWOW)
■エル・クラシコ特集 現地記者特別コラム
・「バルセロナはここ8年で最も不安定」現地記者が分析する“異常事態”の現状/コラム
・レアル・マドリー番記者が紐解くクラシコの歴史〜ライバル意識が芽生えた事件〜
・4月21日公開予定
・4月22日公開予定


