名監督は名選手でもあった。
近年は、ボルシア・メンヒェングラートバッハやニース、ドルトムントなどで好成績を収めてきたルシアン・ファーヴルのことだ。62歳となった名伯楽も、かつてはピッチ上でボールを追いかけ、スイスのテクニシャンとして知られる選手だった。
そんなファーヴルが、9日に控えるバイエルン・ミュンヘンとの“デア・クラシカー”を前に『Goal』の独占インタビューに応じてくれた。ここでは、ファーヴルがプロのフットボール選手になった経緯、そして指導者の道へ進んだきっかけを語ってもらう。いかにして、現在の地位へと上り詰めたのだろうか。
(ドルトムント時代など渡独のことを中心に話した後編は9日に公開)
■フットボールに“ハマり”、プロへ

――ファーヴルさん、あなたは50年以上もサッカーに携わっています。最初の思い出を教えていただけますか?
私はサン・パルテルミーという名前の小さな村で育ったのだが、そこではフットボールが人気のスポーツだった。当時フットボールができるグラウンドはひとつだけあったが、家から遠かったんだ。だから私は友達と学校や通りでボールを蹴っていた。当時のあの辺りには車もほとんどなかったんだ。最初はあまり好きではなかったんだが、私の兄が突然やり始めて、ウィルスのように私に感染した。そしてハマってしまった。ボールを見たら触れずにはいられなくなったんだ。
――テレビで試合を見始めたのもこの頃ですか?
8、9歳の頃はテレビが家になかったんだ。見始めるようになるのは2、3年経ってからだね。1970年のメキシコW杯でブラジルが優勝したとき、テレビの前で目を見開いて見ていたよ。それは私にとって大きな衝撃だった。ペレ、ジャイルジーニョ、トスタン、ジェルソン…今でもチーム全員の名前を暗唱できるくらいだ。レベルが並外れていたから、永遠に記憶に残るようなチームだったね。
――最初にサッカークラブに入ったのはいつですか?
10歳の頃だ。ウラン(=ス=エシャラン)というサン・パルテルミーの隣町のクラブで、私より3、4歳年上の子どもたちとプレーしていたんだ。兄以外にも何人か上手な選手がいたね。私はそこで4年プレーしたんだ。たくさんトレーニングもしたよ。キャリアで初めての監督にはとてもいい思い出があるよ。いつでも選手を信頼してくれて、伸ばさないといけないところを教えてくれる。けれど、すべてがポジティブに聞こえるようにしてくれるんだ。選手の潜在能力を把握していて、私たちを鼓舞してくれたし、上手に褒めてくれたんだ。
――そして1972年、15歳の頃、FCローザンヌ・スポルトに移籍します。
ローザンヌは私にとって新たなステップだった。ローザンヌまではるばる行かなくてはならなくて、よく電車を使っていた。家に帰るのが夜の11時になることもよくあった。当時はあまり電車が多く走っていなかったからね。学校と両立するのは簡単なことではなかった。ローザンヌ・スポルトの知名度はスイス国内にとどまらず、ヨーロッパ中で有名だったんだ。私が住んでいた地方のある程度才能ある若者は、皆ローザンヌに行きたいと思っていたよ。
――当時プロに進みたい気持ちはどのくらいありましたか?
私の目標だった。ローザンヌに移籍したのは、レベルが高い中でどの程度やっていけるのか確認したかったからなんだ。そして、生き残っていける自信が持てたよ。
――それが結実したのが1976年、ローザンヌでプロとして最初の試合に出場し、才能に満ちたテクニシャンとしてキャリアを歩みます。ディフェンダーとしてプレーしてきましたから、この状況は想像できなかったのではないでしょうか?
キャリアの最後の方ではまたセンターバックだったけどね(笑)。それ以前は、中盤ならどこでもプレーできた。左でも、右でも、中央でもね。ストライカーとしても実績はある。左と右のウィンガーとしてプレーしたことがあるよ。どのポジションでも簡単だった。適したポジションをたくさん見つけるのが選手としての成長にとって大事なことだと今では思うね。
■指導者意識の芽生えは現役時代から?
Getty――あなたは監督にとって扱いやすい選手でしたか? それとも、コーチ陣と意見で対立することありましたか?
いや。ただ、監督には質問をよくしていたよ。どのように、何を、なぜ、どんなシステムでといった具合にね。戦術と練習内容にはいつだって興味があった。私にとって一番重要なことは練習でうまくやって、自分の実力を最大限出してポジションを手にし、チームをさらに強くすることだったからね。プロ精神を強く持つことにこだわっていたんだ。問題など何もなくて、いつでも試合と自身の成長に関心を高く持っていたよ。
――トゥールーズ在籍時には、監督が個人的な事情で2週間休養をとり、25歳にして練習の指揮を担ったときのことについて教えていただけますか?
あれは特別な経験だった。私だけではなく、どの選手にとってもね。2人か3人の選手がその期間中練習の準備をするように言われたんだ。監督から教わった練習を統率するように対応したんだ。とてもうまく行って、私としては1週間では短いくらいに感じたよ。5回か6回の練習に対応しただけだけれど、とても興味深い経験だった。
――現在はライバルクラブ、バイエルンの首脳であるカール=ハインツ・ルンメニゲとは同じクラブでプレーしました。ルームシェアしたこともありますよね。
そのとおり。カールとはずっといい関係を続けているよ。お互いをとてもよく理解していたし、人間として尊重しながらプレーしていた。当時から、彼がドイツサッカーに重要な役割を果たすだろうと確信していたよ。
――ルンメニゲの以前の発言によると、フットボールのことだけを話していたいあなたは、彼を苛立たせていたんだとか。
いやいや、それは言いすぎだよ。彼はもっとポジティブに説明したかったんじゃないかな(笑)。
■コーチングキャリアスタートの経緯
Imago Images――34歳を迎えた1991年には、ジュネーブで選手としてのキャリアを終えます。そして同年、FCエシャランのC-ユーゲント(12-14歳のユースカテゴリー)のアシスタントコーチとして指導者としてのキャリアをスタートさせました。どのような経緯で決まったのですか?
まず始めに、家族とサン・パルテルミーに戻ったんだが、そこから順を追って物事が進んでいったんだ。友人がエシャランでユースの監督をやっていたんだ。彼が私に電話をくれて、手伝う気はないかと尋ねてきたんだ。最初のうちは、連絡は1週間に1回だったが、それが2回、3回と増えていった。そのうちに私はその提案を気に入っていることに気がついて、仕事を続けることにしたんだ。そして、コーチングの教習を受けることにした。
その後、C-ユーゲントのチームの指導を完全に引き継いで、そしてA-ユーゲント(17-19歳のユースカテゴリー)も指導した。思春期が始まる14歳から、思春期が終わる17歳までの子供たちに携われたのは非常にいい経験だった。特にソーシャルな意味合いで、とても興味深いものだった。最後に、3部リーグで戦うトップチームの指導を引き受けた。すべてのステージをあのチームで経験したんだ。
――それでは、エシャラン時代に学んだことを教えてください。
いつでも選手を説得し、納得させるすることだね。指導していたのは14,15歳の少年だったし、長いキャリアを持つプロの話として聞いてくれるので、簡単なことではあった。やり方をまず選手に見せて、次に説明する。そしてそれがどう役に立つのか示す。やり方にはよるけれど、ときどき説得が必要になるんだ。
――選手として一線を退いたとき、次のキャリアを築くにあたっての基本的な方針は決めていましたか?
コーチになることはすでに考えていたが、その道が気に入るかどうかはわからなかった。だが、その疑念はフィールドに戻った途端にすぐに消えていった。自分にとって大切なことは、選手としてはチームと一緒に楽しくやること、監督としては練習を楽しんで選手の上達の手助けをすることだとわかったんだ。この決断をするにあたっては、そのことが決定的だったね。
――あなたの哲学はどの段階から確立されたのでしょうか?
私の哲学は、チャンスを作るためにプレーし、できるだけ長くボールを保持することというのは今も昔も変わらない。そのため、効果的にボールを保持することが非常に重要だが、逆の側面を見る必要もある。つまり守備やカウンターの方法も知っていないといけない。チームがあらゆる面で成長できるように、彼らに教えるためには時間が必要だ。守備やカウンターの方法を覚え、正々堂々と試合をしながらも、パスやドリブルで相手を撹乱することができて初めていいチームになれるんだ。
――そのレベルに達することができたとしても、それを実際に試合で行うのは難しいのではないでしょうか?
エシャランにはアシスタントコーチがおらず、イヴァドン・スポルトでもそうだった。イヴァドンのキーパーコーチは週に2度来ていたが、来ないときはコーチ陣は私一人だけだった。だから私はウォームアップや練習の準備やら何から何まで自分でやらなければならなかったんだ。好きでそういうことをやっていたけれど、完全に違うアプローチだった。イヴァドンの選手たちはほとんどプロだったが、完璧ではなかった。時々午前中の練習には10人しか参加せず、午後に全員が揃うようなこともあった。けれど、全部で15,6人くらいしかいなかったんだ。その中には本当に上手いブラジル人が3人いた。そのブラジル人たちには楽しませてもらったよ。彼らは練習でもいつもポジティブで、いい雰囲気を醸し出していた。どんな練習をやっていてもね。彼らとはまだ連絡を取っているよ。もちろん他の選手たちともだけどね。
――ヨハン・クライフ指揮下のFCバルセロナにインターンシップにいったことは、どれほどの衝撃をもたらしましたか?
これまでたくさんのインターンシップに行ってきた。コーチの資格認定を受けるために海外での経験が必要で、フランスにも行った。すでに私はエシャランのコーチだったが、その期間中にクライフのところにも足を運んだ。私は立ち止まっていたことがないんだ。なぜなら、コーチとしても選手としても成長し続けなければならず、そのためには動きを止めてはいけないんだ。可能なら、毎週何かを学んでどんどん突き進んでいくべきだ。他のコーチたちがどんな練習法やトレーニングをやっているのか調べて回ることは義務だと思っている。自分の仕事についてや、その発展についてたくさん知るべきだ。それはただのロジックだと思うけれど、多くのコーチがそれを実践していると信じているよ。
――以前おっしゃっていたように、ヌーシャテル・ザマックスで1994年から18か月間次の仕事に就きますが、そこではジュニア・マネージャーに就任しました。なぜでしょうか?
クラブがどのように運営されているのか、内幕を知りたくなったんだ。ベルンにあるスイスサッカー協会が据えた目標は、国内若手スタッフの教育レベルを上げることと、組織の再構成だった。私は18歳のユースチームを組織して、いいグラウンドとコーチを配備することができるか考えなければいけなかった。たくさんの選手たちだけではなく、親の面倒も見なければならなかったし、かと思えば救急箱の中身までチェックしなければならなかった。しかし、実のあるディスカッションをすることができた。そこでたくさんのことを学んだよ。私にとっては完全に新しい経験だった。
――では、なぜ18か月だけだったのでしょうか?1996年にはイヴァドン・スポルトに移り、再び監督に就任しました。
フットボールがなかったからだよ。だが、同時にヌーシャテルではU16とU18に特化したトレーニングセッションを並行してやっていたんだ。これはいいことだった。フロント業しかできないのであればそこには行かなかったよ。
――1999年にはイヴァドンをスイス1部リーグに昇格させました。監督歴8年で母国の頂点に登ることができましたが、監督としての成長はどのように感じましたか?
重要なレッスンを経験したように思っているよ。だが、それまでの経験は、私がすぐに家から離れたくなくて、出身地に留まっていたいと思っていたことに何か関係があるのかもしれない。エシャランも、イヴァドンも、それからのちに所属するジュネーブも地元からそう遠くないんだ。
■スイスで最大の成功を収めた瞬間…
Getty――2000年から2002年にはセルヴェットFCを指揮しました。そして、スイスで最も成功を収めた期間の始まりが2003年。FCチューリッヒの監督になったあなたは、カップ戦で優勝し、2回のリーグ優勝を果たしました。ヨアヒム・レーヴの就任も噂されていた当時ですが、FCチューリッヒとの面談のことを覚えていらっしゃいますか?
いい準備ができていたんだ。書類をドイツ語とフランス語の両方で用意していたし、ドイツ語のレッスンも受けていた。学校でドイツ語の授業を受けたことはあったけれど、たくさんのことを忘れていたからね。面談はとてもうまくいった。当時の関係者とも連絡を取り続けているし、当時の社長とも最近電話したよ。私を採用すべきか、レーヴにすべきか、彼らが面接後も迷っていたのを覚えているよ。
――当時、チューリッヒは崖っぷちに立たされていましたが、あなたが監督にふさわしいかどうかという疑問に対する答えは比較的すぐに判明しました。
私が監督に就くまでは、チューリッヒは何回も監督をすげ替えてきた。その結果選手たちはたくさんのシステムに適応しなければならなかった。私が見つけなければならなかったのは、それらのバランスと正しい融合の方法だ。簡単なことではなかった。最初はうまくプレーすることができたが、重要な点を見逃して6か月も最下位にいることになってしまった。だからなぜそうなったのか、常に問い続けていたよ。
――結局は、チームは成功に次ぐ成功を経験します。序盤の状況からそれが可能になったのはなぜでしょうか?
冬のマーケットで2人のいい選手を得ることができて、4位でリーグを終えたんだ。2年目のシーズンにはもう一人そこに加えることができ、チームが安定したことでトロフィーを獲得することができた。もちろん、その経験によってチームに自信がついた。3年目の序盤には素晴らしいキャリアを歩んだ選手たちを迎え入れることができ、明らかにチームを強化することができたんだ。
――たとえば、18歳のラファエウや当時21歳のギョクハン・インレルでしょうか。
まさにそうだ。彼らは若かったが、とても優れた選手だったね。そしてそれが一番重要なことだった。タイトル争いを演じるチームを作り上げたいのなら、移籍でチームを強化していかなければならない。そして2年ですべてのポジションが強化された強いチームを作ることができた。しかもとても若いチームでもあった。3年目にリーグ優勝を果たしたときの平均年齢は21.5歳だったのだからね。それが実現できたのは、クオリティが高かったからだ。それは技術的なクオリティではなく、チームへ貢献する意識の高さのことだ。チームの走力は高く、強度も高く、忍耐強く走ることができていた。4年目には再びチャンピオンになることができたし、CLでユヴェントスやリヴァプールを打ち負かしたFCバーゼルを振り切ることができたんだ。
――ジュネーブでは2001年にすでにカップ戦で優勝していましたが、チューリッヒでのタイトルは、例えばイヴァドンでの昇格よりも価値のあるものでしたか?
タイトルの記録は永遠に残り続ける、ということが違いと言える。昇格は美しい記憶だが、タイトルを取ればこうやって会話の話題として上がり続ける。より鮮明な記憶になるんだ。
インタビュー・文=ヨヘン・ティットマール/Jochen Tittmar
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「※」は提携サイト『 Sporting News 』の提供記事です



