アクセル・ヴィツェルのキャリアは特殊だ。
地元のクラブであるスタンダール・リエージュでトップチームデビューを果たしたのは2006年のこと。そこで台頭すると、2008年にはベルギー代表としてもデビューを飾った。2011年にはベンフィカへとステップアップしたが、わずか1年で去ることになり、そこからはロシアのゼニト、中国の天津権健と、決してトップリーグとは言えない地へと旅立つことを決めている。
『Goal』のインタビューに応じたヴィツェルは、それぞれの決断に関して理由を説明する。また、世界各国を「あちこち回ってきた」ヴィツェルが2018年からプレーするドルトムントでついに「落ち着く」ことができたワケにも迫っていく。
■「生まれた時からフットボールと一緒だった」

――アクセル、あなたがフットボーラーとして成長する上でお父さんはどんな役割を果たしてくれましたか?
父も以前フットボールをやってたんだ。プロじゃなかったけど、それでも4部か5部のリーグでプレーしていたよ。とはいえ、フットサルではベルギーの1部リーグの選手だったんだ。その頃僕はいつも父の試合を見に行っていたし、自分でもフットサルをやっていた。もともと僕はフットサルをやりたかったんだよ。父のようになりたかったからね。だけど、父は言ったんだ。「いやいや、フットボールをやればお前にはもっと素敵な未来が手に入るぞ」って。そしてもちろん父の言う通りだったよ。
――では、フットボールはあなたにとって子供の頃から大きな意味を持っていたんですか?
そうだね、生まれた時からフットボールと一緒だったようなものだ。子供の頃はいつもナセル・シャドリ(ベルギー代表選手)と一緒に通りで遊んでいたよ。彼は僕の一番の親友だ。僕たちはいつも一緒で、大きくなってからはスタンダール・リエージュでも一緒にプレーしていた。僕の両親が僕と一緒にナセルを練習に連れていったりすると、次の日はナセルの両親が僕たちを迎えに来てくれたんだ。
――では逆にフットボールばかりで、少年時代はいろいろなことができずに寂しい思いをしましたか?
もちろん16~17歳の頃はそれほど簡単にはいかなかった。友達がやっていることなら何でも一緒にやれるわけじゃなかったからね。12歳の頃にはもう1日に何度もトレーニングをやっていたんだ。僕はある育成組織に所属してたんだけど、8時から10時まで学校の授業があって、それからバスでトレーニングセンターへ移動していた。10時半から12時まで練習して、その後13時から16時までまた学校へ戻り、17時から18時半まではまた練習だった。それからシャワーを浴びて家へ帰って、何か食べて、そうするともう20時になっていて、それなのにまだ何か学校のことを済ませなければならないんだ。それからやっとベッドに入っていた。ハードだったけれど、それでも楽しかったよ。
――両親は励ましてくれましたか?
父は僕に対してすごく厳しかった。父は僕が何か資格を取るのが大切だと考えていたから、僕は簿記の資格を取ったんだ。トレーニングセンターから家へ帰る車の中で、僕は何度も泣いたものだった。父があまりにも厳しかったからだ。母はまったく違っていて、食事を作ってくれたり、いつも僕の面倒を見てくれた。けれど今から振り返ると、父が僕に厳しくしたのは確かにいいことだったよ。今では父と僕の関係も変わって、お互いに大人同士として話し合えるようになっている。まずいプレーをした時には自分で気づくことができるしね。もう父に教えてもらう必要はないんだ。
――あなたのお父さんはマルティニーク(フランスの海外県の一つで、カリブ海に浮かぶ島)の出身で、お母さんはベルギー人ですね。そういったルーツはあなたにどんな影響を与えていますか?
父がマルティニークにいたのは長い間じゃなかった。父は9歳でベルギーへやって来たんだ。その前に、マルティニークにいた5歳か6歳の頃から父は働かなければならなかった。そのせいで父は学校へ行けなかったし、もちろん後になってベルギーへ来てからもなかなか時間がとれなかった。そのうち父は母に出会ったんだ。それに、僕の誕生は必ずしも計画通りというわけじゃなかった。母が20歳、父が21歳で、2人ともまだ学校に通っている時に母が突然妊娠したんだよ。その頃両親は働いてなくて、2人とも祖父の家で暮らしていた。だから、父は学校を途中でやめて仕事を見つけなければならなくなって、建設現場で働き始めたんだ。僕は2人のことをすごく誇りに思っているよ。特に、父がどこから出発して今いる場所までたどり着いたかを思うとね。今の父はベルギーの政治の世界で議員を務めているんだから。
――お父さんはフランス代表チームのファンだそうですが、それはなぜですか?
父はマルティニークで生まれたから、そこでずっとフランス代表チームの試合を熱心に見ていたんだ。僕が小さかった頃、ジネディーヌ・ジダンが中心になった1998年の代表チームの試合を家族で見ていたよ。ジダンは僕のアイドルだ。僕はフランス代表チームのユニフォームまで持っていたんだ。父は今でもフランスが好きだけど、この間のロシアW杯(準決勝でベルギーが0-1でフランスに敗れた)の後はもしかするとそれほどじゃなくなっているかもしれないね(笑)。
■ベルギーからポルトガル、そしてロシアへ

――あなたは17歳でベルギー1部リーグのスタンダール・リエージュでデビューしましたね。どんなことを覚えていますか?
あれは2-1で勝ったRWDMブリュッセルFC戦で、僕は最後の1分になって出場することになったんだ。けれど僕がもっとよく覚えているのはリールセSK戦の方で、あの時僕は初めてスターティングメンバ―に入って、いい働きをしたんだよ。前の晩はほとんど眠れなかった。家で両親のそばにいて、ただこう考えていたよ。「明日は試合に出なければならないんだぞ」って。
――ピッチに立った時はどんな感じでしたか?
本当にとんでもない気分だったよ。リエージュは僕の故郷で、僕の家族や友達もみんなそこにいる。僕はリエージュで生まれて、9歳の時からずっとスタンダールでプレーしてきたんだ。ファンがものすごい声で僕の名前を叫ぶのを初めて聞いたら、何とも言いようのない気分になるよ。
――その頃のことで特に記憶に残っていることが何かありますか?
10歳の頃、車で父の隣に座ってトレーニングに行く途中だった。バックミラーにスタンダールのスタジアムが映っているのが見えて、僕は父に言ったんだ。「僕はいつかあのスタジアムでプレーするようになる。それが僕の夢なんだ」って。そしたら父が言ったんだ。「夢を実現するためには、常に一生懸命努力を続けて自分を信じないといけない」って。とうとうその通りになって、僕はリエージュで素晴らしい6年間を送ったんだよ。
――それから経験を積み、あなたは2011年にリスボンのベンフィカへと移りましたね。
僕にとっては初めての移籍だったから、あれはそれまでに経験したことのない状況だったよ。僕はリエージュでもすでにアパートで一人暮らしをしていたんだ。しっかり自分の足で立って、独立した生活を送りたいと思ったからだ。父からはよく違った意見を聞かされていたけどね。それでもリエージュを去るのはつらかった。友達や家族に別れの言葉を告げた時には涙が出たよ。
――ベンフィカでのスタートはどうでしたか?
最初の2~3週間は慣れないことが多かったね。トレーニングで2回続けてボールに触ってからはもう大丈夫だったけど。ベンフィカのフットボールはリエージュよりずっとスピードがあったんだ。ボールを受け取る前から、次にボールをどこへ送るかわかってないといけなかった。まずそういうレベルに慣れる必要があったけど、3週間くらいですっかり馴染むことができたよ。
――初めの頃、自分の決断に疑いを感じたりしましたか?
いや、それはなかったけど、ホームシックは感じたね。十分にいい練習ができていない感じがして、それで居心地が悪かった。僕はたくさんのボールコンタクトを必要とするタイプで、ゲームメーカーみたいに振る舞いたいタイプなんだ。その頃僕は父に言ったんだ。「僕には理解できない。ほとんどボールをもらえなくて、ただあっちこっち走り回るだけだ。これではフットボールをやっているとは言えない」って。父は僕をなだめてこう言った。「リラックスしろ、きっとうまくいくようになる。3週間もすれば馴染めるだろう」って。また父の言った通りになったよ。
Getty Images――馴染めたはずなのに、なぜたったの1年でロシアのゼニトへ移ったのですか?
ジョゼ・モウリーニョが監督だった頃、レアル・マドリーへ移る可能性もあったんだ。けれどその後レアルはルカ・モドリッチを雇ったから、僕にとってはもうマドリーへの移籍はありえないことになった。そして、移籍期間が終わる直前にゼニトが連絡を取ってきた。責任者たちといい話し合いができたので、承諾の返事をしたんだ。僕は開けっ広げな性格だし、ロシアへ行くことには何の不安も感じなかった。サンクトペテルブルクは素晴らしい町だからね。それにもうひとつ、当時ベンフィカは僕の移籍で大金を稼いだってことを忘れないでほしい。ジョアン・フェリックスが退団するまで(今夏に約150億円でアトレティコ・マドリーへ移籍)は、僕の移籍金4000万ユーロ(約40億円)がクラブの歴史で最高の金額だったんだから。
――ロシアでの生活はどうでしたか?
ポルトガルとはまるで違ってたよ。リスボンではほとんどいつも天気が良くて、すぐに海辺へ出かけたものだった。ロシアはずっと寒いし、人々にしても知らない人間に対しては打ち解けない態度をとるんだ。全然メンタリティが違うんだよ。まずそれに慣れなければならなかった。
――あなたとフッキ(ヴィツェルと同時にゼニトへ加入)の2人は、ゼニトで初めての有色人種の選手でしたね。人種差別的なものを経験しなければなりませんでしたか?
いや、それはなかったね。いつでも街中を自由に動き回ることができたよ。黒人の父が何度も僕を訪ねてきたけれど、何の問題も起こらなかった。だけど、当時フッキが何度かいやな経験をしたことは知っている。たとえばスパルタク・モスクワのファンと何度か言い合いになったりとかね。フットボールの世界に人種差別が入り込む余地なんかあってはならないはずだ。ロシアに対して悪いイメージを持っている人が大勢いるけど、何カ月か前にイタリアでも人種差別的な事件があった。だから、そういうことはロシアだけじゃなくヨーロッパのどこでも起こることなんだ。
――ロシアで過ごした時間を簡単にまとめて言うとどんなふうになりますか?
1年目は簡単じゃなかった。チームにロシア代表メンバーだったイゴール・デニソフがいて、最初から僕たちと衝突していた。彼は新聞にこんなことを話したんだ。「ヴィツェルは(アンドレス)イニエスタじゃないのに、どうして4000万ユーロも払ったんだ?」とか「フッキは(リオネル)メッシじゃない」とか。あれはフェアな発言じゃなかった。それでも、ロッカールームの雰囲気は悪くなかったし、そういうことがあっても僕たちはすぐにリーグで2位につけることができた。最初にいろいろあったにしても、結局僕はロシアでの時間を本当に楽しむことができたよ。ロシア・カップを制してリーグ優勝も果たし、いくつかタイトルも取ったしね。
■批判もあった中国移籍
Getty Images――2017年には中国の天津権健FC(2019年からは天津天海FC)へ移籍し、そのせいで世間の怒りを買いましたね。
あれは断るわけにはいかないオファーだった。半年前にはまだ状況が違っていたんだ。その頃ゼニトとの契約が終わって、僕はユヴェントスへ移りたいと思っていた。すでにメディカルチェックもパスして、あとは契約書にサインさえすればいいところまで来ていた。それなのに一日中事務所で待っていた挙句に聞かされたのは、またゼニトに戻らなければならないという知らせだった。後になって思えば、あれは運命が合図を送っていたのかもしれないね。ただ単に、まだその時期じゃないという意味だったのかもしれない。その後で中国へ行くチャンスが生まれて、僕はそのチャンスを利用する決心をしたんだ。
――以前あなたは、天津権健への移籍を決めたのは特にお金のためだったと認めていました。あの移籍で引き起こされた反応にはどう対処しましたか?
最初は大変だったよ。あの問題はしばらくの間ずっとベルギーのニュースで取り上げられていた。特に僕の家族にとってはつらいことだったね。誰かが僕のことを悪く言っても、僕は平気だった。何が自分のためになるのか一番よく知っているのは僕自身なんだから。けれど両親や姉妹や、それに僕の子供たちはあのせいで悩んでいたよ。それでも、僕は何も禁じられていることをやったわけじゃない。ただ心を決めて中国へ渡っただけのことだ。
――あなたは年下の選手たちに中国への移籍を勧めたいと思いますか?
あれはあくまでも僕の個人的な決断だよ。中国には素晴らしい街が4つある。驚くほど美しい上海に、南部の広州、それから北京と天津だ。天津は巨大な町で1600万人が暮らしている。リエージュ(約20万人)やリスボン(約55万人)やドルトムント(約58万人)とは比べものにならない数だ。結局あれは僕にとっては正しい決断だったし、素晴らしい経験をすることができたと思っている。中国はヨーロッパとはまったくの別世界だ。僕はベルギー代表チームの中で中国へ行った最初の選手になったけど、今はムサ・デンベレとマルアン・フェライニも中国でプレーしている。
――中国での生活はどうでしたか?
僕たちはホテルを住居にして暮らしていた。僕が行った初めはファビオ・カンナヴァーロが監督だったんだけど、彼と彼の率いるトレーナーチームの全員、それに僕以外の外国人選手たちもみんなそのホテルに住んでいた。たった2分歩けば学校があって、そこでは主に英語で授業をやっていた。ほんの少し中国語も使われていたけどね。
――当時、あなたの娘さんのことで不快な経験をされたとか。
残念ながらそうなんだ。突然娘のマイ=リが腹痛を訴えたから、娘を連れて天津にある外国人のための病院へ行ったんだ。娘は神経ブロックをしてもらうことになったんだが、そこの病院には処置に必要な機器がなかった。僕は2つの選択肢のどちらかを選ばなければならなかった。天津の中国人のための病院に行くか、車で2時間かかる北京の外国人のための病院に行くか。けれど、非常に危険なことになる可能性があったから、北京へ行く時間はなかった。だから僕は小さな中国人のための病院へ行ったんだ。そこには想像もできないくらい大勢の患者が来ていた。まずチケットを取って順番待ちをしなければならなかった。まるで役所でやるようにね。僕にすればまったくとんでもないことだったよ。それから2~3時間、夜中の2時か3時になるまで待ち続けた。マイ=リは激しい痛みを訴えて泣いていた。その間中僕は下の娘のエヴィを腕に抱いていたんだ。3時に僕は小さなエヴィを連れて車で家へ帰った。妻はマイ=リと一緒に病院に残った。次の日にアウェー戦が控えていたから、本当なら僕はチームと一緒に飛行機で出発していなければならなかったんだ。
――それからどうなったんですか?
そのうちとうとう娘の番がやって来た。処置の間、妻は外で待っていなければならなかった。幸いついに病院側が必要な機器を手に入れて、次の日マイ=リはまた家へ帰って来たよ。僕はさらにその夜監督に宛てて事情を知らせる手紙を書いたんだけど、監督は理解してくれたよ。この経験の後、僕は妻に言ったんだ。「あとまだW杯があるけれど、それが終わったらヨーロッパへ戻ろう」って。確かにお金は大事だけど、それがすべてじゃない。お金は必ずしも幸福や喜びを運んでくれるわけじゃないんだ。
――娘さんはまた元気になりましたか?
すっかりね。W杯の前に代表チームがベルギーで合流したんだけど、その時に僕と妻はマイ=リの体をもう一度徹底的にチェックしてもらったんだ。そしたら、ありがたいことに何も問題はなかった。その後1年間は娘の体温を見張っていなければならなかったけど、それだけだった。家族のためだったら僕はどんなことでもするつもりだ。僕たちがベルギーにいる時には、いつも僕の両親と妻の両親と、家族の全員を家に呼ぶんだ。シーズン中にはあまり時間がないけれど、チャンスがあればみんなで僕たちの家に集まるんだよ。40~50人集まることになる。自分の家族と一緒に過ごすそういう時間を僕は心から大切に思っているんだ。
■「人には受け取る権利だけでなく与える義務もある」

――ドルトムントへ移籍したことで、また故郷の近くへ来ることができましたね。どんな経緯でBVBへ来ることになったんですか?
まずミヒャエル・ツォルク(BVBのゼネラルマネージャー)が僕のところへやって来て、その後でリュシアン・ファーヴル(監督)から電話があったんだ。他にもオファーがあったから、ひょっとしたらパリやマンチェスターへ行くことだってできたかもしれない。だけど、僕は待ちたくなかったんだよ。ドルトムントでは僕が第一候補だという感触があった。新しいクラブへ行く時には、いい印象を受けるというのが重要なことだ。ツォルク、ファーヴル、それからハンス=ヨアヒム・ヴァツケ(BVBの会長)と話し合って、僕は心を決めたんだ。ドルトムントはトップレベルのクラブで、とにかく僕はヨーロッパのトップクラブへ移ることを望んでいた。もう29歳になっていた僕には、もしかしたら最後のチャンスだったかもしれないからね。天津と話をつけるのは簡単じゃなかったけれど、最後にはすべてうまくいったよ。
――あなたはどの程度までキャリアの計画を練っていたのですか?
キャリアは計画できるものじゃないよ。ベンフィカに5年間留まることだって考えられただろうけど、あそこには1年しかいなかった。ドルトムントへ移った時、もちろんすでに僕にはあるプランがあった。4年間の契約書に署名して、その間ドルトムントで過ごしたいと思ったし、ひょっとしたらもっと長くいてもいいと思った。僕はさんざんあちこち回って来たから、そろそろここに落ち着くのは僕にとっても僕の家族にとってもいいことだ。ドルトムントは世界一美しい街というわけじゃないけれど、僕たちにとっては完璧な場所だ。ベルギーから車で2時間しか離れてないんだからね。中国からベルギーまでは、これにさらに飛行機で11時間かかったんだ。
――昨シーズンを振り返ってみて、あなたは今どう思いますか?
素晴らしいシーズンで、優勝まであと少しのところだった。もちろん優勝を逃したのは残念なことだけど、とにかく僕たちはあの経験からポジティブなものを引き出さなければならない。こんなにたくさん若くて才能豊かな選手たちがいるチームでプレーするのは初めてだよ。優勝レースの終盤では経験が非常に重要な意味を持っているから、ただバイエルンの方がその点で僕たちより有利だったんだ。今の僕たちは新しく入った選手たちのおかげでいっそう強いチームになっているよ。
――指導的役割が期待される選手の一人としてマッツ・フンメルスが加入しましたね。
彼が加わったことを喜んでいるし、僕たちにとって非常に重要な存在になってくれると確信しているよ。マッツは経験が豊富で、すでにたくさんのタイトルを取ったことがある。ドルトムントのようなクラブはタイトルを手に入れなければならない。マッツはすごい選手だし、ドルトムントにとって新しいリーダーになってくれるよ。彼のようなタイプを僕たちは必要としていたんだ。
――今シーズン、あなた自身はどういう点を改善したいと思っていますか?
僕はボールを奪われるのが大嫌いだ。試合中に2~3回ボールを奪われると、もう奪われすぎだと感じてしまう。そうなるとおまけに混乱してしまって、どうしてこんな目に遭うんだと考えこんでしまう。ずっと僕はそんなだった。けれど、試合中にクールで冷静なままでいられるよう努力している。もともと僕はそういうたちなんだ。
――フットボールをやっている時以外のあなたも友達からクールで冷静だと言われるんでしょうか?
たぶん友達は僕のことを“のんびり屋”だって言うだろうね。僕はすごく落ち着いていて、いろんなことをやるのに人よりちょっと余計に時間がかかるんだよ。いつもリラックスしてるし、家庭的な人間だ。神経質になったり緊張したりしないといけない理由が僕にはわからないんだろうね。
インタビュー・文=デイビッド・ビンダー/David Binder
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「※」は提携サイト『 Sporting News』の提供記事です



