ジュビロ磐田中村俊輔。39歳の今もその左足は輝き続ける【それぞれのW杯】

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日本サッカーにおいて「レジェンド」と言われる選手たちがいる。 ユース年代から頭角を表し、Jリーグ、日本代表、そして海外のクラブで活躍した。彼らは20年以上のプロ生活をつねに最前線でプレーするとともに、今はその経験をそれぞれの場で還元している。

■W杯とはなぜか縁遠かった天才レフティー

横浜マリノス(現横浜F・マリノス)のルーキーイヤー終了直後。1998年2月に岡田武史監督(現FC今治代表)率いる日本代表のオーストラリア合宿に招集されて以降、中村俊輔には、4度のワールドカップのチャンスがあった。

この年の98年フランス大会は小野伸二(当時浦和、現札幌)との競争に敗れてメンバー入りを逃す。2002年日韓大会は、フィリップ・トルシエ監督の構想から最後の最後で外れた。同年夏にはプレーの場をイタリア・セリエAレッジーナに移すと3シーズンをイタリアで過ごし、05年夏にはスコットランドの名門・セルティックに移籍。「海外組」として順調に経験を重ねた。

そして06年、ジーコ監督の下、10番をつけて臨んだドイツ大会。中村は卓越した国際経験を武器に日本を勝利へと導く「はず」だった。

カイザースラウテルンでの初戦・オーストラリア戦。26分に自身のクロスがネットを揺らし、先制点をゲット。日本代表は順調に試合に入った、かに見えた。しかし、試合終盤の6分間でまさかの3失点。衝撃的な逆転負けを喫し一気に苦境に陥った日本は、グループ最下位に沈む。中村は、大会を通じて原因不明の発熱と体調不良に陥ったことを明かすなど、不完全燃焼のままドイツを去ることになった。

その4年後の2010年。「集大成」と位置付けた南アフリカW杯。納得いく形で結果を残そうとしていた中村は、前年夏に移籍したスペインのエスパニョールで出番に恵まれなったことを危惧し、本大会3カ月前に古巣・横浜F・マリノスに復帰する。

ところが、5月の壮行試合・韓国戦で日本は0-2で惨敗。危機的状況に陥ったチームを立て直すため、岡田監督は「超守備的布陣」へのシフトを決断する。けがを抱えてコンディションが上向かない背番号10は外され、W杯初戦・カメルーン戦で攻撃のけん引役となったのは8歳年下の本田圭佑(当時CSKAモスクワ、現パチューカ)だった。

■代表、クラブ、それぞれの場所での存在感

W杯には縁が薄かったが、中村の日本代表での98試合はインパクトが大きいものばかり。04年のアジアカップ決勝・中国戦(北京)では全3得点をお膳立て。08年W杯南アフリカ大会アジア最終予選のバーレーン戦でも得点を挙げている。一時は「俊輔ジャパン」と言われたほど、彼の影響力や存在感は大きかった。

それはセルティックでも同様だった。今でも語り継がれている06-07年欧州チャンピオンズリーグ・マンチェスター・ユナイテッド戦。プレミアリーグの強豪相手にアウェイ、ホームと2試合連続で芸術的な直接FKを決めた。圧倒的な技術の高さと高度な戦術眼があれば、スピードやフィジカルの強さが不足していても、ハイレベルな世界で通用することを彼は実証したと言っていい。

10年3月の横浜FM復帰後、13年には2度目のJリーグ最優秀選手賞を獲得。7シーズンを古巣で戦い、17年にはジュビロ磐田に移籍した。間もなく40歳の大台に突入しようとしているが、サッカーへの飽くなき向上心は衰えることを知らない。それは磐田の後輩たちも実感している。

「俊さんからは『もっと練習しろ』『動けよ』って毎日言われる。食事に行っても言われるくらい。怖いけど、愛があるんだよね」と語ったのは川又堅碁だ。

中村俊輔39歳。彼がピッチを懸命に駆け回り、献身的にチームを支える姿は多くの人々の胸を打つ。6月24日には40歳を迎えるが、その卓越した戦術眼と芸術的な左足をこれからも見せ続けてほしい。

文=元川悦子

 

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