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ジャンルイジ・ブッフォン:スーパーマンの作り方

パルマの試合前、監督であったネヴィオ・スカーラはいつも各選手の部屋を通りかかり、選手達の心構えを確認していた。

1995年11月19日のACミラン戦の前日、スカーラはとりわけある選手の振る舞いに興味を持った。それは当時17歳のジャンルイジ・ブッフォンのことだ。

スカーラは『Goal』のインタビューに対してこのように答えている。

「ジジはファーストチームでプレーしたことがなかったし、我々はロベルト・バッジョ、ジョージ・ウェアやパオロ・マルディーニのようなスーパースターを擁するチームと試合をする」

「そこで私は彼に『ジジ、もし私が明日君を出場させたらどうなる? 準備はできているか?』と聞いたんだ」

「ジジは私を直視し、困惑したような様子で、『ミステル、何が問題だというのですか?』ときっぱりと言ったよ」

10代のころでも、ジジはチャレンジすることを恐れなかった。そしてそれが彼の流儀であった。

「子供のころから、難しいタスクを好んでいたんだ」

「選択しなければならないときにはいつも、自分の思うままにやってきた」

「俺は、常に難しいチャレンジ、それも乗り越えることが不可能と思われるようなことを好む人間だ。ゴールキーパーをやっていることも、自分の性格や気質に沿ったまでのことだ」

彼の性格も気質も、いずれもカラーラで育まれたものだ。

カラーラは大理石の採石で有名なトスカーナ地方の小さな街で、1978年1月28日土曜日にマリア・ステッラはその街で彼女の息子を産んだのだった。

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しかしながら、看護師によって集中治療室に連れて行かれるまでの間に、マリアと彼の夫であるアドリアーノ・ブッフォンは生まれたばかりの子供を抱っこすることができなかった。

ジジが生まれたときのことを振り返る前に、マリアは大きな深呼吸をしてから話し出した。

「運命だと思ったの」

そういうと彼女はため息をついた。

「でも、その当時簡単ではなかったわ」

「生まれたばかりのとき、全く問題ないように見えた。4キロもあって、それからも常にあの子は大きいわね!」

「しかしあの子はへその緒が絡まって息ができなかったの。チアノーゼ(酸素不足により皮膚が青紫に変色すること)が出てしまい、保育器の中で5〜6日、十字架の上のキリストのように横たわっていることしかできなかったの」

「もしかしたら脳に損傷があるかもしれなかったわ。お医者さん達があの子を私たちに渡してくれた時、ドクターは『(どうなるかは)神のみぞ知る』と言ったのよ」

「でも神はとても寛容だったわ。私たちにとても優しかった。ジジは他の子達よりも早い9カ月で歩き、しゃべるようになったの。その時からすでにあの子はナンバー1だったのね」

彼はいまもそうだ。歴代最高額なゴールキーパーであり、歴代最高のゴールキーパーである。しかし、彼はサッカーを始めたころ、ミッドフィルダーとしてプレーしていた。

「他の人たちにとって、ジジはレジェンドだというのはわかるわ」

ブッフォンの姉、グエンデリナは昨年行われたコリエレ・デラ・セラ紙のインタビューに物思いにふけりながら話した。

「でも私にとっては、あの子はいまでもカナレット・ディッラ・スペツィアの小さな男の子で、サッカーを始める前には、真っ赤なほっぺで、ヤマアラシのようなツンツン頭、とても細い足とお腹がちょっと出て走り周っていたの。あの子はたくさん食べるのが好きだったからね!」

ジジの食への情熱はヴェニスの北東130kmにある街、ウディネに源を発する。彼の父親であるアドリアーノはラティサーナの出身だが、アドリアーノの兄弟達はペルテガタに住んでおり、ジジは幼いころ夏休みの大半を叔父のジャンニ、叔母のマリア、祖母のリナとともにそこで過ごしたのだった。彼らのアパートは食料雑貨店の上にあり、そこの店ではジジのもう一人の叔母であるアルディーナが働いていた。

自伝にも書いていたように、ジジにとってそれはまさに「魔法の国のようだった」。

「棚を動かし、食べるものがやまのようにある通路を走り、滑るんだ。俺はいつも満腹だったよ。好物はモルタデッラハムのサンドイッチで、すごい早さで貪り食っていたよ」

ジジの食生活が彼の急激な成長に役立っているとすれば、彼の遺伝子はより大きな役割をになっていたことになる。

「俺にはスポーツの遺伝子があったといつも思うんだ。俺のそれは、アスリート一家としてのものだね」

ジジの父親は砲丸投げの選手であり、母親は円盤投げの選手だった。姉は2人ともバレーボール選手だったのだ。

「5人中5人がアッズーリなの」

「私たちはみんなイタリア代表なのよ」

「私たちはとてもラッキーだった。本当にスポーツ一家。アドリアーノと私は常にスポーツをしていたし、それを子供たちに教えたのよ」

マリアはそう誇らしげに『Goal』に語ってくれた。

実際、両親ともに体育の教師であり、またアドリアーノはジジが一番最初にプレーしたチームであるカナレット・ディ・ラ・スペツィアでコーチをしていた。もともとは陸上をやっていたものの、アドリアーノは熱狂的なサッカーファンでもあった。しかし、6歳のころのジジは実はそうでもなかったのだ。彼は卓球をやることにより夢中になっていた。

しかし、彼はサッカー選手になるという罠に引っかかってしまったのだ。

「始めのころは、チームにも、サッカーというスポーツ自体にも特別情熱を持っていたわけではなかったんだ。でもバッグやスパイク、ユニホームを持てるというのが気に入ったんだ。それが全てを変えたんだ」

そして彼がデビュー戦でフリーキックからゴールを決めたこともその気持ちを助長させた。彼の体の大きさと力のおかげで、特に彼がより家に近いチームでプレーするためにカナレットの次にプレーをしたカラーラにあるペルティカタ時代にブッフォンは、セットプレーのスペシャリストだった。彼は11歳の時に初めてサンシーロでプレーしたときにもフリーキックをバーに当てたのだと自ら語っている。

「正直にいうと、ジジがフリーキックをバーに当てたことを覚えていないんだ」

「でもジジがそう言うなら、本当に違いない!彼は常に正直だった。いまでもそうだけどね」

クリスティアーノ・ザネッティは『Goal』のインタビューにそう答えた。

ザネッティはよく知っているのだ。彼はブッフォンと共に、ユヴェントスでもイタリア代表でもプレーをした。彼らが初めてチームメートとなったのは、1989年3月5日、ジュゼッペ・メアッツァ・スタジアムでのことだった。

すでに引退しているザネッティは回想する。

「僕はマッサ出身で、ジジはカラーラ。二つの街はとても近かったから、お互いのことはよく知っていたんだ」

「しかし、僕たちはいつも対戦相手だった。でもその時はお互いにカラーラとマッサの代表選手として選ばれて同じチームでヴェネトのチームと対戦したんだ。セリエAのインテル対ヴェローナの前座試合としてね」

「僕たちのような少年にとっては、サンシーロでプレーできるというのは信じられないような経験だよ。僕はトップ下、ジジは僕の一列後ろのミッドフィルダーとしてプレーしたんだ」

「当時の彼はほかの誰よりもはるかに大きかったから何も驚きはなかったね。僕は当時のように小さいわけではないけど、それでも今でも彼は大きい。しかし当時の僕は本当に小さかった。ジジは僕のことを“ザネッティーノ”と呼んでいたんだ」

「ジジに比べればどんな子も彼よりは小さかった。だから彼がその後ポジションを変えたことにも僕は全く驚かなかったよ」

ブッフオンのゴールキーパーとしてのポテンシャルに気がついていたのはザネッティ少年だけではなかった。父親のアドリアーノもまたそれに気がついていたのだ。しかし、アドリアーノは典型的な傲慢な親とは正反対のタイプで、息子の試合を見に行っても目立つことはなく、観客席の隅でひっそり静かに座りながら試合を見ていたのだった。

アドリアーノは、単にサッカー、バレーボール、バスケットボールやかくれんぼをマルコ、クラウディオ、ブックやマランゴといった友達たち「カルドナのギャング」と楽しんでいただけのジジにプレッシャーをかけたくなかったのだ。

しかし、イタリアワールドカップが若きブッフォンの人生の方向性を完全に変えた。彼の国で行われたワールドカップ期間中、ジジはカメルーン代表と、ゴールキーパー・トーマス・ヌコノに夢中になったのだった。

ブッフォンがヌコノのことを知ったのはそれよりも3年前のことで、UEFAカップで当時エスパニョールでプレーしていたヌコノがアリゴ・サッキ率いるACミランを倒す立役者となった時であった。しかしヌコノのアクロバティックなプレースタイルに釘付けになったのはイタリアワールドカップの時だった。

「あの子はカメルーンの試合を全て見ていたわ」

「数年前には、アフリカでのチャリティーマッチでトーマスと一緒にプレーしたはずよ」

“不屈のライオン“が準々決勝で延長戦の末敗れたときには涙を流し、その試合でイングランドに与えられた2つの”ラッキーな“ペナルティーキックはいずれも議論を呼びながらも、ガリー・リネカーによって決められ、そのことはいまでもブッフォンには苦い思い出として残っている。

彼のヌコノへの憧れも今でも続いている。ブッフォンは彼の長男の名前を自身のアイドルから取りルイ・トーマスと名付けたのだが、それを聞いたヌコノはブッフォンに電話をかけ自分の名前をちなんだ名の子供の誕生を祝福したのだった。

ヌコノの存在はジジにとっては初めてのヒーローというだけでなく、神のお召しのようなものでもある。それに気がつき、父親のアドリアーノは1990年夏に息子にこう言った。

「ジジ、ゴールキーパーをやってみたらどうだ?」

その問いへのヌコノに夢中になった少年からの答えは予想通り熱に満ちたものだった。

しかし問題は、ペルティカタはジジをミッドフィルダーとしてしか見ていなかったことだった。それは彼らだけではなかった。インテルも、ブッフォンが自宅からわずか5分の距離にあるクラブでプレーしていたときに彼をスカウトしたのだ。

ところがジジは、ゴールキーパーになることを決心し、運良くボナスコーラという地元のクラブがゴールキーパーとして彼を受け入れたのだった。

「ペルティカタでは、ジジは中盤から、コーナーから、あらゆるところからゴールを決めていた」

「彼は体も大きく、足元の技術も優れていたのだが、ゴールキーパーをやりたかったんだ」

かつてブッフォンを指導したアヴィオ・メンコーニはイル・ティレーノのインタビューでそう振り返っている。

「だから、『全てのチームがミッドフィルダーとして欲しがっている選手がいるんだが、彼はゴールキーパーをやりたいらしい』と聞いた時に、『問題ないよ。ここに連れてこい』そう言ったんだ」

「ジジには正しいダイブの仕方を教えなければならなかったし、常にボールをキャッチしなければだめだとも伝えた。しかしそれ以外は特になく、ジジはゴールキーパーをやるために生まれてきたような子だったよ」

少し前にもメンコーニ以外の人が同じような結論を下していた。ゴールキーパーとしての彼の最初のシーズンが終わる前に、ブッフォンはすでに他のクラブから注目を集めていた。ACミラン、ボローニャ、パルマといったクラブが彼をトライアルに招待したのだ。

ミランは最も熱心で、ジジの両親にサインを求めて契約書を送ったこともあった。しかし、息子がプレーすることになるかもしれないロディの施設を見学に行ったあと、アドリアーノとマリアはジジが家から遠く離れた場所に暮らすことになることを心配したのだった。

ボローニャはより魅力的な選択肢であり、ジジもカステルデボーレでのトライアルを楽しんでいた。ところが、クラブの全員が納得しなかったことで、ジジへの興味も薄れていったのだった。

ボローニャにとっては致命的な間違いであった。パルマにもブッフォンに懐疑的な目を向ける人間はいたが、ある一人の男はジャッロブルーが将来的にスーパースターになる若者を手中に収めようとしていることにすぐにきがついていたのだ。それがエルメス・フルゴー二だ。

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「ジジを見てすぐ、『この子は化け物だ』と自分に言い聞かせた」

「ジジは少しばかり敏捷性に欠け、技術も十分ではなかったので、パルマのスポーツディレクターは彼のことに確信を持てていたわけではなかったんだ」

「しかし、それは改善できると思った。だから『他のクラブがサインをする前に、今すぐこの子と契約するべきだ』とクラブに言ったんだ」

「幸運なことに、彼らも耳を傾けてくれて、ジジはパルマにやってくることになった」

かつてキーパーコーチとしてジジを指導したフルゴー二はそう振り返る。

わずか13歳にして、まだファーストキスも済ませていないころに、ブッフォンは地元カラーラを離れ、パルマに引っ越したのだった。

彼自身がそうであったように、彼の友人やボナスコラ時代のチームメート達がパルマのシャツやジャージにズボン、またソックスまで欲しいとリクエストが殺到したのだ。

元コーチのメンコーニは幾分高い目標を持っていた。彼の教え子はいづれイタリア代表に選ばれるようになると確信し、ブッフォンがあらゆる世代でイタリア代表に選ばれた時にはユニホームを送るように頼んだのだ。

ジジはそれを約束したが、特にパルマに移籍したばかりのころは(イタリア代表になるということは)叶いようのないことだと思っていた。イタリア代表という華やかな場所は、彼の新しい場所であったマリア・ルイジア寄宿学校の地味で単調な生活からは程遠いところにあった。

それは、いまでもスタディオ・タルディーニから徒歩ですぐの場所にある派手でカラフルな建物であるが、初めて親元をはなれた13歳の少年にとっては難しい環境だった。

陽気で、外交的な性格の彼は、すぐにアンドレア・タリアピエルタ、スティーブ・バランティ、アントニオ・ヴェントゥリー二というルームメイト達と仲良くなった。しかし、ヴェントゥリー二はわずか2カ月でそこを後にしたという。

「家族が恋しくなり帰っていった。始めは俺もハッピーではなかったよ。“寄宿学校”という言葉にも、ポジティブな感情は抱けなかった」

「でも時がたつにつれ、そこが好きになったよ。慣れたということが大きいのだろうがね」

マリア・ルイジアにはイタリア国内のあらゆるところから、いろいろなタイプの家庭、様々な経済レベルの家族の元で育った子供達が暮らしている。

どんな学校でも、いじめという問題は起こるものだが、ジジにはその点問題はなかった。

「もし誰かが一度俺にちょっかいを出したとしたら、間違いなく二度目はしてこなかった」

ブッフォンはピッチの上でも自己主張の強い人間だったが、強く言い過ぎることに罪悪感を感じてもいた。彼は派手なプレーをすることも多かったが、それが結果的に馬鹿げたミスを引き起こすこともあった。ジジはあらゆる人々に好印象を与えてるプレーができていると純粋に思っていたが、彼の馬鹿げたプレーは気付かれていたのだった。

ある練習試合で不要なミスを犯した後、当時パルマのユース部門責任者であったファブリツィオ・ラリー二がブッフォンに近づき、ピッチから出るように命じたのだ。

「(振る舞いを)改めろ。それができないなら、もう家に帰れ」

そう言ったのだ。

ブッフォンはその時のことを 「雲一つなく晴れた空から、稲妻が放たれたようなものだった」と回顧する。

警告は望んだような効果を発揮した。ブッフォンは派手なプレーをすることをやめたのだった。そして改めてサッカーに集中した。

それからわずか1カ月後、彼はモラッサーナでの4チームでの大会で3本のPKを止めるとともに、自らPKを決め優勝した。それは意義のあることだった。バルマのユースチームの指導者全員が彼を信用したのだ。

国際的な知名度もすぐに広まることとなった。わずか1年後の1993年5月、彼はイタリアU-16代表がトルコで行われたU-16ヨーロッパ選手権での決勝進出の立役者となったのだ。後々ローマの王様となるフランチェスコ・トッティを前線に擁しながらも、トッティよりも1歳半若いブッフォンがベスト8のスペイン戦ではPK戦で2本のPKをストップ、そして準決勝のチェコスロバキア戦では3本のPKをストップし、注目を独り占めすることとなった。

準決勝と同じ日、16歳のテニス・プレーヤー、マリア・フランチェスカ・ベンティヴォーリオがイタリア・オープンの準々決勝に進出した。そして翌朝、イタリアには2人の新たなスポーツ界のスターが生まれたのだった。

「ベンティヴォーリオとブッフォン」

「イタリア中が君たちを称賛する!」

ガゼッタ・デッロ・スポルトの1面にはその見出しが躍ったのだった。

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突如として、彼の名前は知れ渡ることになった。ブッフォンはローマからパルマへの帰路、2人のチームメートとともに、誇り高くイタリア代表のトラックスーツに身を包み電車に乗っていた。

彼らのトラックスーツに気がついた2人の若者のうち一人が、「ヨーロッパ選手権の記事を新聞で読んだのだけど」と口にする。

「ゴールキーパーについて良く書かれていた。彼の名前はなんだったか?…ブッフォンだったかな」

そう話していたところ、それを聞いて喜んだブッフォンは「それは俺のことだ」と大声で叫んだのだ。

「すごく誇り高い気分になったんだ」

「しかし同時に、何かが変わったと感じたんだ。俺の人生に新しい何かが起こったってね」

後にブッフォンはこのように語っている。

それでも、彼はジジであることを望み、時間が許す限り彼の愛する地元のチームであるカラレーゼの試合を見に出かけるのだった。当時彼は一人で、単にファンとしてではなく熱狂的なコマンド・ウルトラ・インディアン・トリップスの一員としてアウェーでの試合を観戦に出かけていたのだ。ブッフォンは、“CUIT パルマ支部”と書かれた横断幕を試合観戦に持ち込み、一方で彼のグローブにはCUITの文字がいまでも刻まれている。

それは全て反抗期のころの出来事であったとブッフォンも認め、プロのサッカー選手になるという夢を追いかけて多くのものを犠牲にしていたが、同時にティーンエイジャーとしての日々を楽しみたいという欲求も強かったのだ。

彼は14歳でタバコを吸い始めた。ウルトラのメンバー達とつるんでいた時には、ドラッグをやったことも1度あった。彼はバカなことをしたこともあったが、同じ過ちを2度繰り返すことはなかった。

10代のころ、彼は常に生意気だった。1995年夏の北米ツアーの時に初めてパルマのトップチームのメンバーに選ばれて参加したとき、彼の未熟さは明らかだった。

ゴルフ場に併設されたホテルに宿泊した際、当時の監督であったスカーラは選手達にカートに乗ってふざけないように注意をした。しかしジジはそれを守らなかった。

ナイアガラの滝への小旅行を前に、スカーラはジャンクフードを食べることを禁止した。しかしそれをジジは破ったのだ。

「俺は自由の女神のトーチ大のジェラートを頼んだんだ」

「スカーラが言ったことと全く逆のことをしたんだ。もし彼が精神科にかからなければいけなくなったら、それは俺のせいなんじゃないかって、時々怖くなるよ」

事実、スカーラはジジも単に普通の10代の若者に過ぎないと懸念していた。

「コベルチアーノで指導者の勉強をしていた時、心理学を学んだのだが、これについて本で読んだことがあるよ」

「ジジも時にバカなことをしていたけれど、それはまだまだ彼も子供だったからなんだ」

「でもそうれは些細なことだったんだ。私にとって大事なのは、彼は立派な人間となり、監督やチームメート、クラブのことをリスペクトしている。いま考えると、彼はそうしたことを私から習ったのかもしれないと思うよ」

「しかし、ジジはいつも良い少年だったし、とても賢く、向上心を持っていた」

フルゴー二はブッフォンに不満を持ったことはなかった。実際フルゴー二はブッフォンの生意気さを楽しんでいたし、それも彼の楽観的なパーソナリティの延長であり、それがあったからこそサッカーの難しい局面にも対処できるのだと思ったのだった。

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「ピッチ内外でそれが彼のキャラクターだった。彼は謙虚だったけど、強い個性を持った子だったよ」

そう強調した。

「ある日、ジジよりも2、3歳年上のゴールキーパーを指導していた時、彼らが手を抜いてトレーニングをしているように見えたことがあって、彼らの背中を蹴り上げようと思ったんだ」

「『こいつを見てみろ。こいつの態度を学んだらどうだ。こいつは20歳の時にはセリエAでプレーしていることになるぞ』そう彼らに叫んだんだ」

「それを聞いていたジジは、『じゃあミステル、その時まで僕は何をしているというのですか?!』とジョークを飛ばしたんだ。ジジはそういう奴で、子供のそういう部分はかえるべきではない。それが将来どんな人間、選手になり、どこまで行けるのかを決めることになる」

それこそが、スカーラにとっても1995年の11月にルカ・ブッチが負傷で戦列を離れた時にブッフォンをトップチームに上げようと思った理由だ。

「アレッサンドロ・ニスタが控えのキーパーだったので、ミランとの試合では彼がプレーすることが有力だった」

スカーラはそう認めた。

「しかし月曜日のトレーニングで、ブッフォンは素晴らしかったんだ」

「いつもそうだったが、ブッフォンはシュートを次から次へと止めていた。そして金曜日、ゴールキーパーコーチであるエンツォ・ディ・パルマに『私が見ていたのと同じことを見ていたか』と話したんだ」

「エンツォはこう答えたよ。『こいつは我々が思っている以上だ。でもミラン戦で彼を先発させるわけにはいかない。もし失敗でもしたら、彼は二度と立ち直れないだろう』とね」

「しかし、翌日土曜日のトレーニングでも彼は信じられないようなプレーをしていた。だからその晩に彼に話しをすることを決めたんだ」

「彼が平静だったのを見て、彼を先発させることを決心した。それ以来、彼に一切の疑いを持ったことはないね」

チームメートの中には、これからバッジョやウェアを止めないといけない男が、キックオフの数時間前にタルディーニ・スタジアムへ向かうバスの中で居眠りをしているのを見て逆に不安になったものもいた。彼にはリラックスしてほしかったが、そこまでのリラックスとは思っていなかったのだ。

ジジの両親がスタジアムに到着した時、まさか自分達の息子が先発出場するとは思ってもいなかった。

「あの子は、その試合でデビューすることを言わなかったの。何も言わなかったのよ!」

マリアは信じられないといった様子で、そう『Goal』のインタビューで話してくれた。

「その試合の前日、私の兄弟からジジがデビューするかもしれないといううわさがあることを聞いていたの。でもそんなことは信じられなかった。17歳で、まだ赤ん坊のようなジジが、ウェア、マルディーニやコスタクルタのような選手がいるミラン相手に出場することが可能だなんて思えなかったわ」

「だから、いつもと同じように試合を見にスタジアムへ行ったの」

ところが、スタジアムの中に入ったところで出くわしたフルゴー二から、息子が先発出場することを知らされたのだ。

「彼らは驚いていたよ」

フルゴー二はそう言うと、笑った。

「しかし、彼らに言ったんだ。『心配はいらない。あなた達の息子は問題なくプレーできる。彼にとって最高の試合になるだろう』とね」

パルマのドレッシングルームでは、ブッフォンは生まれて初めて緊張していた。しかし彼の親友であるマッシモ・クリッパとアレッサンドロ・メッリはすぐに、すべてがうまくいくはずだと彼を勇気付けた。

ミランの選手たちでさえも、ブッフォンの不安を取り除こうとしていた。試合前にピッチへと向かうトンネルの中でミランの選手たちの横に並んだ時、対戦相手であるセバスティアーノ・ロッシやクリスティアン・パヌッチが彼を励ますために2、3言声をかけたのだった。そして、自身のセリエAデビューを16歳の時に飾ったパオロ・マルディーニは、ブッフォンを凝視し、微笑みかけ、そして彼の幸運を祈ったのだった。

その後、ブッフォンは早く試合が始まってほしくて仕方がなかった。

1995年11月5日のパルマのチーム写真には、クラブの歴史上初めて、そしていまでも唯一、ゴールキーパーが写っていない。

ただ単に、ブッフォンはその慣習に不慣れだった。彼はプリマヴェーラから昇格したばかりで、プリマヴェーラでは試合前に集合写真を撮るという慣習はないのだ。

そのため相手チームとの握手が終わるやいなや、両チームの主将がレフェリーとともにコイントスをしている間に、ブッフォンは彼の守るゴールへと走っていったのだった。

RAI3の当時の映像を見ると、パルマの選手達がブッフォンを集合写真のために呼び戻そうとしていたが、時すでに遅しだった。

ブッフォンはすでに守備位置についていたのだが、その後ミランはどれほど彼がゴールマウスにいなければと思ったことだろう。

パルマの17歳のルーキーは、試合が始まる前にルーキーらしい失敗を犯したが、試合開始のホイッスルが鳴り、試合終了まで完璧なプレーを見せ、バッジョ、ウェアやズボニミール・ボバンのような選手達のシュートを次から次へと信じられないようなセーブでストップして見せた。

「あの日ジジは、奇跡のようなプレーを見せた」

スカーラは『Goal』のインタビューにそう振り返った。

その試合で見せた素晴らしいプレーは、後に“聖ジジ”と呼ばれることになる男が見せた数多のスーパープレーの中の一番最初のものだった。

1997年のセリエAでのインテル戦で、当時最高の選手だったロナウドのPKをストップしたあと、歓喜のパルマ・ファン達は彼らの新しいヒーローにスーパーマンのTシャツを着せたフラッグを掲げたが、その2年後にはコッパ・イタリア優勝を果たした後にブッフォン自身がスーパーマンのTシャツを着て優勝を喜んだのだった。

スーパーマンへの例えは、まさに彼にふさわしいものである。類稀な体躯と力を持ち、まるで超人がアスリートとしての特性を備えたようなヒーローに成長したのだ。さらには、彼がミスをした時でさえ、スーパーマンと比べられることもあった。

実際、2016年に代表チームやユヴェントスでの試合でいくつか大きなミスを犯したことで、彼がピークを過ぎたことを揶揄する批判が報道された時には、ユヴェントスのファンはその直後のウディネーゼ戦の前に

「スーパーマンでさえ時にはクラーク・ケントになることがある」

「でも、ジジはいつだって俺たちのスーパーヒーローだ」

このように書かれた横断幕をスタンド広げたのだった。

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だがブッフォンはそのように自分のことを思ったことはなかった。多くの名声を受けたにも下変わらず、彼がどうやってここまでたどり着くことができたのか、あるいは彼の両親に教えられたことを忘れたことは決してなかったのだ。

そのことについてマリアはこう説明してくれた。

「スポーツは常に私たち家族にとってとても大切なものだったけれど、それは身体的なアドバンテージを持っていたからではないの」

「スポーツが、どうやって他人と交流し、負けることや苦しいことに対処するのかを子供達に教えるための格好の教材だと思っていたのよ。ジジも苦しむことがあったわ。もちろん彼はとても幸運だったのは間違いないけれど、それでも負けることや怪我をすることも多かったからね」

「2010年のワールドカップの時、ジジが南アフリカから電話をかけてきてくれたのだけど、その時彼は背中をひどく痛めていて、携帯電話を握ることもできず、動くことさえ出来なかったようで、ベッドの上からスピーカーにしていたの」

「スポーツも、人生と同じように、どのように苦しみや障害を乗り越えるのかを教えてくれる。そして謙虚であり続けさせてくれる。だから、ジジも全く変わることはなかったわ」

「ジジのデビュー戦の後も、私たちは試合後にジジに会うことができなかったの。すぐそばで行われていたヴェロニカのバレーボールの試合を車で見に行かなければならなかったから」

「バレーの試合会場に着いたとき、多くの人から褒めていただいたわ。『あなたの息子は信じられない!』というようなことをね。みんなレフ・ヤシンと比べていたわ。私はヤシンが誰だか知らなかったのだけど!」

「パルマに戻ってジジを迎えに行った時、ジジは穏やかだった。あの晩のTV番組では、“ベイビー・ブッフォン”のことをみんな話していたのだけど、ジジはいつものジジだったのを覚えているわ」

「翌朝、私たちは新聞を取りにいって、部屋に戻った時にジジは電話をしながら私たちに静かにするように合図をしたの。私は『どうして私たちは静かにしていないといけないの?』と尋ねたら、『僕はいまライブでTVに出ているんだよ!』と答えたの」

「それでもジジは全く変わることはなかったわ。ジジの性格は主人によく似ているのよ。とてもバランス感覚があって,分別のある人なの」

アドリアーノはブッフォンをうまく育てた。スーパーマンに地に足をつけていることの必要性を説いたのだ。他人がブッフォンのことを並外れているといっていたときでも、アドリアーノは単に“そこそこ”なだけだと言っていたのだった。

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ジジは自分がスーパーヒーローではないことをわかっていたが、周りの人たちのサポートなしには自分は何者でもないこともわかっていたのだ。そして常に感謝の気持ちを表現していたのだった。

彼は自分の家族を経済的にも、仕事の面でも助けたが、実家に戻れば今でも、家族の赤ん坊であったジジのままなのである。

1997年、ロシアの凍てつく寒さの中でイタリア代表デビューを飾ったときにも、いつもと変わらない様子で、アヴィオ・メンコーニにユニホームを贈ることを忘れていなかった。

2年前のコッパ・イタリアの試合でパルマに戻ったときには、エルネス・フルゴーニを訪ね、過去や未来について語り合ったのだった。

そして昨年タイトルを獲得した時には、ネヴィオ・スカーラに電話をかけた。

「ジジは、『ミステル、こんにちは。お元気ですか?もう随分前のことになりますが、当時ミステルが僕のためにしてくれたことがどれほど僕のためになったのかを伝えたかったのです』と私に言ったんだ」

「でも私は驚かなかったよ。それが彼だからね。それがジジ・ブッフオンなんだよ」

そうスカーラは話していた。

それこそが、彼がいつでもナンバーワンである所以なのだろう。

文=マーク・ドイル

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