【クリスティアーノ・ロナウドの物語】小さな島の“泣き虫少年”が最高の選手になるまで

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Ben Hayward
世界最高の選手、クリスティアーノ・ロナウドはどのような歩みを経て今の場所に辿り着いたのだろうか。我々はそれを探るため、彼の故郷を訪れた。ごく普通の少年から世界最高の選手になるまで――。すべてはここから始まったのだ。

1985年2月5日、クリスティアーノ・ロナウドはマデイラ島の中心地フンシャルの近郊にある最も貧しい地域の一つ、サント・アントニオという街で生まれた。普通の家族の、普通の末っ子として。

両親は料理人のドロレスと庭師のディニス。家族の最後の授かりものは、クリスティアーノ・ロナウド・ドス・サントス・アヴェイロと名付けられた。ロナウドという名前はアメリカ合衆国大統領ロナルド・レーガンにちなんだものだ。

父のディニスは地元のアンドリーニャというクラブでキットマンとして働いていた。そしてそこで出会った選手、フェルナオ・バロス・ソウザに、ロナウドの洗礼における代父になってくれないかと打診したそうだ。

バロス・ソウザは我々に対し、当時のことを振り返ってくれた。

「アンドリーニャでプレーしていたとき、彼の父ディニスに出会ったんだ。クリスティアーノ・ロナウドが生まれると、ディニスは私に洗礼の代父になってくれないかと頼んだんだ」

「洗礼の日、アンドリーニャはリベイラ・ブラーバで試合があって、私とディニスもそこにいたんだ。だから、私たちは洗礼にすごく遅れてしまってね(苦笑)。司祭は彼を洗礼したくないと言ったほどだったよ。私たちは司祭を説得しないといけなかった。笑える話だよね。すべてが整っていたのに、私たちがそこにいなかったなんて」

後にロナウドは父に連れられ、アンドリーニャのユースチームでプレーするようになった。

「彼が小さい頃は他の子どもたちと代わり映えはしなかったよ。違った点があるとすれば、ずっとフットボールをしていたことだ。他の子どもたちが勉強をしている時も、彼はずっとボールを触っていた」

「彼の父がアンドリーニャのキットマンだった時、サッカーボールの入った袋をよく持っていたから、クリスティアーノは一緒によくボールで遊んでいたね。ドリブルをしたり、他の選手たちのプレーを真似したり、そういったことをよくやっていた」

スタジアムの整備士であり、当時クラブにいたルイに話を聞いたとき、ロナウドのことを嬉しそうに思い出した。そして、4度のバロンドール受賞者について誇らしげに語る。

「僕が覚えているのは、彼がおとなしい子供だったということかな。ボールを持っていないと泣いていたし、チームメイトが喧嘩しても泣いていたね。それに勝てなかったときだって泣いていた。勝つことが大好きだったから。あまりに泣くものだから、みんなから“泣き虫”だなんて呼ばれていたよ。でも優れた選手だった。走るのが速かったし、多くのゴールを決めていた。ドリブルのスキルも素晴らしかったよ」

 

ロナウドの元チームメート、そして現在はアンドリーニャの監督を務めるリカルド・サントスも証言してくれた。

「僕たちは8、9歳だった。その時にはもうすごい選手だったよ」

「彼が初めてここに来たのは7歳か8歳だったと思う。父親に連れられてきたんだ。彼からボールを取り上げるのは難しかったよ。小さかったけど、ずっとボールに触っていたんだ。全然止められなかったね。家でもずっとボールと一緒だったみたいだよ」

アンドリーニャはその当時、1チーム7人制の試合をすることが多かった。リカルドはクリスティアーノがハーフタイムで交代しなければならなかったある試合を特に覚えているという。

「ロナウドはとても小さくて速かったからアベリーニャ(ポルトガル語で小さな蜂の意)と呼ばれていた。彼が何点決めたか正確には覚えていないけれど、常に僕らの中で一番のスコアラーだったことは間違いない。覚えているのは、僕たちがカッマラ・デ・ローボスで試合をしたとき、3-0で勝っていたんだけどlクリスティアーノがケガで交代して、僕たちは最終的に3-4で負けたんだ」

小さな蜂が泥まみれのピッチを飛び始めてから、他のクラブの注目を引くまでに長くはかからなかった。島で最大のチーム、ナシオナルもそういったクラブの一つだった。

洗礼の代父バロス・ソウザはこう話す。

「クリスティアーノがナシオナルにやってきたのは、私がそこでユースチームを任されていた時なんだ。ある日、突然ナシオナルの監督が私の所に来て『アンドリーニャの試合を見てきてほしい』と言ったんだ。とても才能のある少年がいるらしいから、と」

「だから私はアンドリーニャの試合を見に行ったんだ。そしてその少年とはクリスティアーノのことだったと気づいたんだ。私は彼をナシオナルに連れて行きたかったから母のドロレスに話しに行った。彼女は理解をしてくれて、クリスティアーノはナシオナルでプレーすることになったんだ」

島最大のクラブに移っても、クリスティアーノの才能が埋もれることはなかった。ナシオナルのユースチームで監督を務めていたペドロ・タリニャスはこう語る。

「ここマデイラで、彼の才能は知れ渡っていたよ」

「クラブにいたスカウトや関係者は、みんな彼がマデイラで最高の若手だと思っていた。彼はまだ若かったけど、何か特別なものを持っていることが見て取れたんだ」

そしてタリニャスはこう続けた。

「彼は10歳の時にナシオナルにやってきた。技術面がとても優れていて、両足を自在に使いこなしていたね。小さかったけれど、ものすごいテクニックを持っていた。いま彼のプレーやゴールから見て取れる“美しいゴールを決める”という意思は、その当時から変わらないよ」

クリスティアーノはナシオナルで7人制の試合、のちに11人制の試合でプレーすることになる。そして、才能が突出していたため、いつも一回り上の年齢の選手たちとプレーしていたそうだ。

「彼は身のこなしが素晴らしく、シュートにも長けていたね。当時からすでにパワフルだったよ。クリスティアーノのナシオナルでの2年目、私は彼のチームの監督をしていた。彼はキャプテンで、いつも3歳も上の年齢の選手たちとプレーしていた。その中でも一番目立っていたね」

タリニャスは当時を回想して話を続ける。

「素晴らしい能力を持って、素晴らしい可能性を秘めた少年だということが分かった。もし彼が努力を続け、強い意思を持っていけば、多くのことを成し遂げられるだろうと確信したよ。その時点でどこまで登り詰められるか、分かっていたかと問われればそうではないけど、彼が素晴らしい能力を持っていて、素晴らしい可能性を秘めていることは明らかだった。その頃からたゆまぬ努力をしてチャンスを確実にものにし、一歩一歩成長していったんだ」

当時、クリスティアーノはマデイラで傑出した存在だった。しかし、島からポルトガル代表選手が出たことはなかった。世界最高の選手を生み出すなんてもってのほか。だが、クリスティアーノがさらなる一歩を踏み出すまでに長くはかからなかった。

バロス・ソウザは地元の代理人だったジョアン・マルケス・デ・フレイタスにクリスティアーノを紹介した。彼はスポルティング・リスボンのパートナーであり、リスボンのクラブに強いコネクションを持っていた。

「彼に会った段階ではフットボールをプレーしているところを見ていなかった。だから私はスポルティングのスカウト、アウレリオ・ペレイラに電話したんだ。彼は素晴らしいキャリアを歩めるような若い選手を見つけ出すことに長けていた。彼に電話して『素晴らしい少年がいる』と伝えたんだ。すると彼はこう言ったんだよ。『彼をここに連れて来られるか』ってね」

デ・フレイタスはすぐにフンシャルからリスボンまでのチケットを買い、クリスティアーノとともにリスボンへ向かった。

「出発して3日後、アウレリオが『彼は素晴らしい』と言ったんだ。それに多くのプロフェッショナルが彼のスキルを一目見ようと集まってきたんだよ」

スポルティングはその才能に衝撃を受け、クリスティアーノは12歳にしてポルトガルの首都でプレーすることとなった。

しかし、12歳の少年がたった一人で知らない街で暮らすことは簡単ではなかった。デ・フレイタスが証言する。

「リスボンの生活に適応するのはとても難しかったようだ。マデイラ島でのなまりはリスボンで話されているものとは全然違うものだからね」

「それに学校でも問題を抱えていたよ。クラスメートは彼をからかって、彼はそれに反抗したんだ。家族の元に帰りたいと口にしたこともあった。でもどうにかつらい時期を乗り越えたんだ」

実際、クリスティアーノがリスボンでうまくやっていけないと見かねたスポルティングは、彼を一度フンシャルに帰したことがある。言い換えるなら「夢が潰えそうになった瞬間」だった。

バロス・ソウザは「スポルティングは『ここにいることを望まないプレイヤーは要らないと』と言っていた。だからクリスティアーノをマデイラに送り返したんだ」と話す。

しかし、バロス・ソウザは反抗した。

「私は割って入って『クリスティアーノはリスボンに行ってスポルティングでプレーしなければならない』と言ったんだ。『キミは家族の希望の星だから』とね。そして彼はリスボンに戻った」

「私は彼に、フットボーラーとしての将来があると確信していた。なぜならリスボンでの最初のトレーニングで監督のオズワルド・シルヴァが『彼はダイヤモンドだ』と言ったんだ。その言葉が彼がいるべき場所はどこかということを確信に変えた」

そしてクリスティアーノはリスボンに戻り、2度と振り返りはしなかった。ピッチ内でも外でも適応し、ヨーロッパでも有数のアカデミーで能力を発揮した。

GKのクリストファー・アルメイダ・デ・パイラーも話を聞かせてくれた。

「僕がそこにやってきた時、彼はすでに生活に慣れているようだった」

「常に一緒にリスボンのジョゼ・アルヴァラーデスタジアムの近くのレストランに行って、一緒に座ってランチを食べ、スタジアムの下にあるスポルティングの宿舎で生活していたのを覚えているよ。まるで家族のようだった」

パイラーはクリスティアーノとスポルティングのユースチームで一緒にプレーし、年代別ではポルトガル代表としても共に戦った。彼はクリスティアーノの飽くなき向上心が、他の選手と一線を介していると語る。

「スポルティングのアカデミーには傑出した選手が数人いたけれど、クリスティアーノはその中でも一番の努力をしていた。チーム練習ではそれほどでもないけど、練習後にいつも居残りをして一番苦手なことを30分ほど練習していた。それに僕が13歳でチームに合流した時、彼はその他のチームメイト全員よりもずっと大きな権威のようなものを持っていた。練習への態度、チームメイトを鼓舞する姿、チームメイトを指導する姿、勝利への意思、それらすべてが他の選手たちより優れていたんだ」

そしてパイラーはクリスティアーノが抱える家族への気持ちに寄り添い、こう続ける。

「僕たちはみんなフットボールをして家族を喜ばせたいと思っている。でも彼は家族を喜ばせるだけでなく、彼のプレーを見るすべての人を魅了したいと思っているんだ」

スポルティングのトップチームで一年間を過ごした後、クリスティアーノはさらなる歩みを進める。リスボンで行われたプレシーズンの親善試合で、サー・アレックス・ファーガソン率いるマンチェスター・ユナイテッドと対戦し、傑出した才能を示したのだ。程なくして、クリスティアーノはイングランドへ旅立つことになる。

デ・フレイタスはその試合をピッチサイドで見ていたそうだ。

「新しいアルヴァラーデスタジアムのこけら落としとなる試合で、クリスティアーノはユナイテッドと戦った。最初の45分、彼はフットボールショーをしているようだったね」

スポルティングはその試合に3-1で勝利。クリスティアーノは得点こそしなかったものの、多くのファンたちを興奮の渦に巻き込んだ。

「ハーフタイム、ファンたちは『クリスティアーノ!』と叫んでいたよ。彼がユナイテッドとの契約にサインしたのは、その3日後さ」

クリスティアーノは18歳で、世界有数のビッグクラブであるマンチェスター・Uへ駆け上がったのだ。

幼少期のチームメイトだったサントスはこう語る。

「ユナイテッドへ入った瞬間から、人々は彼の本当の価値を見出し始めたのだと思う。その時から彼はずっと人々を驚かせ続けているよ」

バロス・ソウザは、今でも時々クリスティアーノに会うという。

「たまにマドリードに行ってレアル・マドリーの試合を見るよ。私にとって、それはとてもうれしいことだ。もちろん、彼がプレーしているのを見るのが好きだし、ゴールを決めるのも興奮するね。それに個人として、チームとして、タイトルを獲得しているのを見ていると、とても誇らしく思えてくるんだ」

地元の代理人デ・フレイタスも、今でもクリスティアーノに会うことがある。最後に会ったのは彼が7月にフンシャルに帰ってきた時だった。

「私はクリスティアーノが人として好きだよ。いいヤツだし、家族を愛する男だ。決して家族のことを忘れないし、それに何より、彼はここで多くの人の手助けをしている」

そして、クリスティアーノの地元の人々の誰もが思っていることを、タリニャスが代弁する。

「私たちはクリスティアーノ・ロナウドに感謝すべきだ。なぜなら、彼は世界中で人気者になった今でも、生まれ育った島に特別な愛情を持っているからだ。彼は私たちの誇りだよ」

ロナウドは博物館とホテルをマデイラ島にオープンさせた。アンドリーニャの山の上では、若きクリスティアーノのイメージがスタジアムのフェンスを飾っている。太平洋に浮かぶ島で生まれた普通の少年は、史上最も偉大なフットボーラーになった今でも、クラブとの絆を紡ぎ続けているのだ。

当時のクリスティアーノを一番間近で見ていた整備士のルイは言う。

「ここでプレーするすべての子供たちはロナウドの夢を見ている。彼らはみんな彼のようになりたがっているんだ。みんながね」

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この地に来て、様々な人から話を聞いた。そして、わかったことがある。

世界有数のアタッカーは、誰からも愛されるフットボーラーである、ということだ。

文=ベン・ヘイワード/Ben Hayward.

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