ドルトムント(BVB)、シュトゥットガルトを経て、現在シャルケで通訳等の仕事を務めるマッシモ・マリオッティ氏が、『Goal』の独占インタビューに応じた。
スイス生まれで現在57歳のマリオッティは、プロフットボーラーとしてのキャリアを終えた後、10年間に渡ってドルトムントでユースチームの監督を務めていた。しかし2013年に突如ドルトムントの通訳の仕事を任されることになった。専属通訳を務めた選手の中には、ピエール=エメリク・オーバメヤンやウスマン・デンベレ、ヘンリク・ムヒタリアンといった錚々たる顔ぶれが含まれている。
15年間をBVBで過ごした後、2018年にマリオッティはシュトゥットガルトへ移籍し、翌2019年にシャルケへ移って今日に至る。ドルトムントとシュトゥットガルト時代同様、シャルケでも彼は通訳の仕事を引き受け、選手たちがチームに溶け込めるようあらゆるニーズに応える仕事を果たしている。
『Goal』のインタビューに応えたマリオッティは、通訳の仕事を始めることになったきっかけやシャルケへの移籍について、オーバメヤンの爆弾発言やデンベレの“失踪事件”、チーロ・インモービレの非難の真意について赤裸々に明かしてくれた。
取材・文=ヨヘン・ティットマール/Jochen Tittmar
■「私は選手でも監督でもなく、協力者だ」

――以前BVBで15年間を過ごしたあなたが、今季はシャルケで選手たちの世話をする仕事をしていますね。ライバルチームへの移籍をめぐって色々と言われたのではありませんか?
いや、全然そんなことはなかったよ。BVBのファンの意見で一番多かったのは、「クラブの選択を誤ったのは確かだが、それでも幸運を祈る」というものだった。これを聞いて、私が長年の間、常に愛情と責任感をもってBVBの仕事に当たってきたことをわかってもらえていると感じたよ
――まず2018年にBVBからシュトゥットガルトへ移りましたが、シュトゥットガルトからオファーがあった時には驚きましたか?
驚いたね。そもそも、『シュポルト・ビルト』誌のある記事がもとで起こったことだった。セバスティアン・ケール(ドルトムントのチームマネージャー)とマティアス・ザマー(2000~04年にドルトムントを指揮し、現在はテレビ局でコメンテーターを務めている)がBVBでいくつかの変革に手をつけるだろうという記事だったんだが、その中で“ルシアン・ファーヴル(2018年5月に監督に就任)はフランス語を話せるから、もう私がピッチで選手たちに付き添うことはなくなるだろう”と書かれていたんだよ。その記事が出るとすぐに、いくつもオファーをもらったんだ。私のような仕事をしている人間がブンデスリーガでそんなに求められているとは全然知らなかったよ。その時にシュトゥットガルトからもオファーが来たんだが、ほかにもブンデスリーガの2つのクラブが興味を持ってくれていた。自分では、どこかのクラブに志願しようなんて全然思いつきもしなかっただろうね。
――当時、BVBはあなたの希望に基づいた移籍だと発表していましたが。
いくつかオファーが来た後でケールと話し合った時に、私は「ずいぶん長い間ここで仕事をしてきたから、変化が欲しくなっている」と言ったんだ。私のBVBとの契約に期限は付いてなかったから、解任してくれるよう頼んだんだよ。私は不満もなかったし、腹を立ててもいなかった。何もいざこざはなかったよ。
――シュトゥットガルトでは一人暮らしで、ご家族はルール地方に残っていました。そしてたった1年で、あなたはまたルール地方に戻ることになりました。ひょっとすると、プライベートな生活は二の次と考えてらっしゃるんですか?
いや、そんなことはない。じっくり考えてシュトゥットガルトへ行こうと決めたんだが、またルール地方へ戻ることにしたのはプライベートな理由が大きかったんだ。そのことについては話したくないんだけれどね。
――構いませんよ。すでに1年前にもシャルケから働きかけがあったのだとしたら、後になって最終的にシャルケを選んだ理由は何だったんですか?
シュトゥットガルトとウニオン・ベルリンの入れ替え戦の後、VIP席でデイヴィッド・ワグナー(シャルケ現監督)に出くわしたんだ。私は彼が見に来ているとは知らなかった。その時にちょっと雑談をして、私が自分のプライベートな事情について話すと、デイヴィッドが言ったんだ。「シャルケはあなたのような人物を探しているところだ」って。それから少し考えて、結局シュトゥットガルトとの3年契約は解消することもできると思ったんだ。そのことについては大いに感謝しているよ。
――確かにあなたは第一線で戦う選手ではありませんが、長年ドルトムントにいたあなたが事実上最大のライバルクラブであるシャルケへ移ることについては、かなり悩んだのではありませんか?
本当にそんなことがやれるのかどうか、よく考えてみたよ。だが、こんなふうに思ったんだ。「私は選手でもなければ監督でもなく、むしろ協力者であって、その協力者がいわばメルセデス(自動車メーカー)からボッシュ(大手自動車部品メーカー)へ移るようなものなんだ」とね。私は自分の仕事を愛していて、今まさにシャルケのためにその仕事を果たしているところだよ。
■お役所仕事は何でも来い
――具体的にシャルケではどんな仕事をして、あなたは特にどの選手を担当しているのでしょうか?
私の助けを必要としている選手全員の世話をしているよ。プライベートな面で、選手たちの色々な用事を肩代わりするために私がいるんだから。たとえば、彼らがどこかの役所で2時間も待ったりしなくてもいいようにね。特に、外国から新たに加入して来た選手たちには、ドイツで生活を始めるためにどういう用事を片付けなければならないかを教えてやるんだ。家を探したり、誰かと会う日時を決めたり、役所に行ったり、家族の届け出を出したり、子供の幼稚園の申し込みをしたり……。とにかく、誰にとっても必要不可欠な部分で私は選手たちを支えているんだ。
――2013年にドルトムントでこの仕事を始めたわけですが、初めは慣れないことが多かったでしょう
ちっとも勝手がわからなかったが、それはまったく問題ないことだ。とにかく、どんなことにも慣れるしかないからね。結局のところ重要なのは、そういう様々な用事をできるだけ早く、確実に片づけるということだ。選手たちがいつでも私を呼び出して当てにしていいんだと気づけるようにね。私の仕事は何も特別なことではないけれど、とにかく誰かがやらなければならないことなんだよ。
――では、ドイツのどんなお役所仕事ももうあなたをひるませることはできませんね?
外国人局に住民登録課、道路交通局、学校に幼稚園に引っ越し会社、何でも来いだよ(笑)。シュトゥットガルトではパブロ・マフェオの子供の誕生に、それも分娩室で立ち会ったんだ。
――当時(2018年)のマフェオはクラブ史上最高額の移籍金で加入しましたが、ほとんど力を発揮することができず、前会長のヴォルフガング・ディートリッヒが言ったように“役立たず”な状態でした。なぜマフェオはチームに溶け込めなかったのでしょうか?
彼の場合、うまくチームに溶け込むために最高の条件が揃っていたんだ。監督のコルクトは完璧なスペイン語を話せたし、チームにはほかにも大勢スペイン語を話す選手がいた。最初から手厚く面倒を見てもらって、住居もすぐに決まった。皆ができるだけ彼のために気を配っていたよ。それなのになぜ、そういった努力が実を結ばなかったのか? それはロッカールームの雰囲気に溶け込むことがものすごく重要だからだ。彼の場合、残念ながらそこがあまりうまくいかなかったんだ。
――どんなふうにうまくいかなかったんですか?
ロッカールームでは、選手たちがお互いに自分から相手に近づいていかなければならない。だが、選手の資質や、その選手が新しいリーグと新しいメンタリティにどのくらい馴染めるかによって、うまく溶け込めるかどうかが決まることも多いんだ。シャビ・アロンソのような選手は、ミュンヘンへやって来たその週の終わりにはもう、印象としては500回くらいパスをもらっているような感じで、最高の働きをしていた。一言もドイツ語を話さないままでね。あるいは、オーバメヤンは少しもドイツ語を勉強しなかったけれど、それでも毎年何ダースものゴールを決めていた。
――マフェオはブンデスリーガのメンタリティにも適応できなかったんでしょうか?
私は彼に言ったんだ。「ミュンヘンだろうとマインツだろうと、君はこれからブンデスリーガで週末ごとに熱い戦いに加わることになる。君が半年前に、メッシを相手にいいところを見せたことなんて忘れてしまえ(編集部注:2017年10月、ジローナでプレーしていたマフェオが、バルセロナ戦の際にマンツーマンでメッシの動きを封じて注目を集めたことを指す)。アウクスブルクでメッシを気にかけている者などいないんだから」って。
ドイツで、その中でもルール地方という特殊な地帯で、人々がどんな価値観の下に暮らし、どんな考え方が好意的に迎えられるのかを選手たちに伝えることも、私の仕事の一部なんだ。そうなんだよ、シャルケの一員になったからには、どんな試合でも100%の闘争心を表に出すことによって、すべてをシャルケに捧げ尽くしているファンから愛される選手になれるということを知っていなければならないんだ。シャルケに新しい選手が入って来ると、私は彼らを連れてゲルゼンキルヒェンの町を隈なくドライブして、町の最高に素晴らしい部分もそれほど美しくない部分も見せてやったものだ。そういったことすべてが、選手たちがすぐにチームに溶け込むのを助けるための土台になるんだよ。
■軽い気持ちで言った冗談が今の仕事に?

――もう少し昔のことを振り返ってみましょう。あなたは2003年にBVBで働き始め、何年もの間ユース部門の監督を務めていました。そもそもどういう経緯でドルトムントで働くことになったのですか?
現役を引退した後、私はずっとユースの監督をやりたいと思っていた。だからまずB級ライセンスを取得して、BSVメンデンのB-ユースの監督を引き受けたんだ。そして、1年目に昇格を果たすことができた。それからボーフムのオファーがあって、U-14とU-15のチームを率いていた。これは1999年から3年間のことで、私の月々の稼ぎは300マルク(約3万円)だった。その後私はドイツフットボール連盟の支部で仕事をするためにイーザーローンへ行った。こういうのはすべて別に仕事を持ってやっていたことで、10年の間、主な収入はメンデン新聞の販売主任として働いて得ていた。その後、BVBがラルス・ティーフェンホフを通じてコンタクトを取って来たんだ。彼はBVBのU-13とU-14でコーディネーターと監督を務めていた。ユースの分野では、彼は、私が今まで知り合った中で最高の監督の一人だと思っている。それから私は彼と一緒にU-13チームの監督を引き受けたんだ。
――そして最初の年に、すぐにマリオ・ゲッツェを指導しましたね。どんな経験でしたか?
「BVBにはどんなファンタスティックな選手がいるだろう?」と期待してたんだが、マリオは信じられないくらい素晴らしかったよ。まったく驚くばかりだった。後になって色々な監督たちが「マリオを見つけ出した、成長させたのは自分だ」と言い張っているのを聞くたびに、つい私はにやにやせずにはいられなかったよ。なぜってああいう選手は、監督が何をしてもしなくても、勝手に力を発揮するようになるものだからね。マリオは非常にインテリジェンスのある選手で、すさまじくはにかみ屋だった。彼がすべてを出し切ってほかの選手を翻弄するようにさせるには、徹底的にプッシュしてやらなければならなかったよ。その頃からすでに彼は、今やベテランになっている選手たちでさえできないようなプレーをほとんどすべてやることができたんだ。
――2011年までユースの監督を務めた後、あなたはデイヴィッド・ワグナーの下でBVBのリザーブチームのアシスタントコーチになりました。これにはどういう経緯があったんですか?
ユースの監督をやって能力を認められたから、そのまま昇格させてもらったんだと思っているよ。だが、残念ながらシーズンが始まった直後に辞めなければならなかった。父が病気になって、イタリアにいる父のそばに付いていてやらなければならなかったからだ。イタリアから戻ると、ありがたいことにBVBはまた私をU-13の監督として雇ってくれた。それから1シーズンそのポストにいたんだが、ある時ドルトムントでグラウンドキーパーをやっているウィリ・ドロステと話していて、今の仕事への道が開かれることになったんだ。
――是非その話を聞かせてください。
当時、BVBはプロチームの選手たちのために通訳を探していた。ある日ウィリと一緒にいて、ただちょっと冗談を言い合っていただけだった。その時に私が言ったんだ。「おいウィリ、どうしてクラブは通訳を探してるんだ? 私を使えばいいんだよ。私は何ヶ国語もできるんだから」って。その後、ウィリがミヒャエル・ツォルク(SD)に電話したんだ。私は知らなかったんだけどね。そしてその日の晩にはもう、私はロッカールームに座ってオーバメヤンの通訳をしてたってわけだ。
――どういうことですか?
午後の2時、アイスクリーム・パーラーにいる時にツォルクから電話をもらって、夕方の6時にはロッカールームに座っていたんだ。その日ドルトムントでは、スタジアムでチームメンバーの紹介があって、それに続いて慈善試合が行われることになっていた。今でも覚えているが、チームとの話し合いの後で(当時の指揮官)ユルゲン・クロップが私を部屋に連れていって、そっけない調子で言ったんだ。「で、どうなんだ?やるのか、やらないのか?」ってね(笑)。
――あなたは承諾してすぐに呼び出され、数日後にはもう、スイスでのトレーニングキャンプに同行することになりました。
そうなんだ。私はまず、ポルトガルで行われることになっていたユース・フットボールの会議への参加を取り消さなければならなかった。そして、バート・ラガツ(スイスの保養地)でもう一度ツォルクと会ってゆっくり話し合ったんだ。もちろん、何もかも私にとってまったくワクワクするようなことだった。クロップの下でオーバメヤンやムヒタリアン、ソクラティス(パパスタソプーロス)のようなトップクラスの選手たちの通訳を務めて、チームのごく身近にいることになるんだからね。それでも、いったい自分にどんなことが降りかかることになるのか、本当にはわかっていなかったんだ。
■オーバメヤン爆弾発言に…
Getty Images――突然、通訳としてTVカメラの前に立ち、同時通訳する羽目になったわけで、簡単などとはとても言えない仕事ですね。今振り返ってみて、最初の頃はどうでしたか?
最初に通訳をやった時のことは決して忘れられないだろうね。アウクスブルクで試合があって、オーバが初めての試合ですぐに3点を入れたんだ。もちろん、試合が終わると彼のまわりにものすごい数の報道陣が集まってきた。私はわりとリラックスして通訳を始めたんだが、すぐにそれじゃ全然ダメだと気づいたよ。大勢の人間がこっちを見て、私の一言一言に耳を澄ましていた。それなのに、私は正規の訓練を受けた通訳じゃないから、かなり苦労しっぱなしだった。オーバやムヒタリアンがはっきり明確に話している時でも、ものすごく集中して聞いていなければならなかった。だから、私は選手たちに「ぶっ続けで3分間話したりしないでくれ」って言ったんだ。仕事を続けていくうちに、批判的な質問が出て不穏な状況になったことももちろんあった。そういう時は、とにかく選手の気持ちになって通訳しなければならなかったよ……。
――オーバメヤンの移籍をめぐる噂が過熱していた2016-17シーズンの最終節では、まさにそういう状況でした。オーバメヤンはスカイ(衛星放送局)のマイクを前にイタリア語で、「来週、ドイツカップの決勝の直前に会見を開いて、移籍を発表するつもりだ」と言いました。あなたはこの発言を通訳するのをためらいましたね。
すぐにスカイから翻訳を求められたので、私はオーバに「本当にそう言いたいのか?」と訊いた。私はただ彼を守りたかったんだ。ドイツカップで優勝したかったし、試合前に騒ぎになるのは避けたかったからだ。ただそれだけが私にとって重要なことだった。たぶん、あの時オーバはちょっと驚いたんだろうね。それで、私に「好きなように答えてくれ」って言ったんだ。私なら無難な答えをするだろうとわかっていたからだ。
――あなたがクロップの下で通訳を始めてから2年後にトーマス・トゥヘル監督に代わりました。初めのうちはツォルク率いるスカウティング部門で仕事をすることになりました。それはなぜですか?
チーロ・インモービレはクラブを離れたし、トゥヘルはオーバやムヒタリアンと英語で話していた。だからもう通訳は要らなかったんだ。それまでと同じように、まだ週に1度か2度はオーバの世話をしていたけれど、ムヒタリアンの方はすぐに自分でやっていけるようになった。だから私はスヴェン・ミスリンタート(当時のスカウト)やスカウト長のハイナー・フィンケのもとでほとんどの時間をU-23のために使って、その合い間に時々プロチームの仕事をしていた。レギオナルリーガ(ドイツ4部リーグ)の試合をじっくり眺めて、目ぼしい選手を探していたよ。けれど、国外へ出ることもあった。たとえばフランスへ行ってダン=アクセル・ザガドゥを視察したり、ウスマン・デンベレを見にヴェニスへ行ったりしていた。その後、トゥヘルが監督だった2年間にデンベレとラファエル・ゲレイロがBVBへ加入して、また私が必要とされるようになったんだ。
――トゥヘルが監督だった時期、BVBでは多くの対立が起こっています。必ずしも誰もが彼とうまくやれたわけではありませんでした。あなたはどうでしたか?
彼は私に対していつも極めて友好的でフェアだったから、私たちの間には問題が起こる気配すらなかったよ。彼はどんな話し合いにも私を同席させて、トレーニングや試合の準備に色々と貢献できるようにしてくれたし、私の貢献に対していつも大いに感謝の気持ちを示してくれていた。それに、いつも一緒にフットボールのことを話し合ったりもしていた。彼の下で私は本当にたくさんのことを学んだよ。彼はまったく素晴らしい監督だ。
――クロップはどうでしたか?
彼から何か求められた時には、ぼんやりせずにさっさと行動しなければならなかった。練習場や試合中の彼はまるでライオンのように恐ろしかったが、それが終わればこっちをハグしてきて、すべてまた平穏な状態に戻ったんだ。
私を5対2や10対10の練習に参加させて、さんざん面白がったりもしていたよ。「わお、マッシモ。やるじゃないか。今じゃもうそんな必要はないのにね。前は必要だったんだろうけど、全然ダメだったし」って言ってね。例によって素晴らしいレトリックだ(笑)。
ハノーファーとの一戦では、ムヒタリアンに言いたいことを私に通訳させるのを忘れたこともある。その時クロップはムヒタリアンに向かってドイツ語で何か呼びかけたんだが、もちろんムヒタリアンは理解できなかった。とたんに、クロップは私の方を向いて叫んだ。「マッシモ、一体全体彼に何て言ったんだ?」試合で興奮していたクロップは、まだ私に何も言ってなかったのを忘れていたんだよ。
■デンベレ脱走事件の真相は…
Getty Images――2013年以来、あなたは数多くの選手たちと親密な関係を築いてきましたね。今現在、あるいはこれまでの中で一番特別な関係で結ばれた選手は誰ですか?
オーバだね。彼とは5年間も一緒にいたんだから。オーバは本当にいいやつだ。私は彼のためにすべてを行ってきた。手紙を書いたり読んだりするのを手伝ったり、家を買うのに公証人のところへ付いて行ったりした。彼が頼んだわけじゃないんだが、それでもとても喜んでたよ(笑)。彼の家族ともずっと親しくしているんだ。
――デンベレもまた、いわばあなたの翼の下にいましたね。彼は移籍後に訴訟沙汰に巻き込まれました。ドルトムントで住んでいた家をゴミだらけにしたというので、退去後に家主が彼を訴えたからです。あの件について何かご存知ですか?
それは間違いなんだ。私は彼の代理人から、彼の家へ出かけて、本当かどうか調べた上で写真を撮って来るように頼まれた。私は彼が移籍した後の3月に依頼を果たして、彼の家ですべてを写真に収めた。鍵も回収して、レーダ=ヴィーデンブリュックにいる家主のもとへ届けた。デンベレの家にはゴミなんて少しも見当たらなかったよ。彼はその家を最高の状態にして退去していたし、家賃も支払い済みだった。結局、ウスマンへの訴訟は棄却された。彼はブラインドか何かのために後で4000ユーロ(約50万円)支払わなければならなかったのに、それでも敷金が返ってきたんだ。
――ドルトムントにいた頃、デンベレはどんなふうに暮らしでいたんですか?いくらか彼の生活を知る機会がありましたか?
彼は一人暮らしをしていたわけじゃない。いとこと親友が一緒に住んでいた。母親もしょっちゅう訪ねて来ていたよ。とにかくウスマンはとても若かったから、本当にたくさんの支えを必要としていて、それに応えるのはまったく大変だった。ウスマン本人はむしろリラックスしていて、いつも「きっと、あのマッシモがやってくれるよ」って言ってたんだ。トゥヘルもほとんど毎日ウスマンと話し合ったり、ビデオ分析をしてやったりしていた。トゥヘルは私に「マッシモ、我々には彼が必要だ。彼は本当に信じられないくらい素晴らしい。彼の面倒を見てやってくれ」と言っていた。結局、ウスマンはBVBで大きな成果を挙げられるくらいしっかりした生活をしてたってことだ。
――デンベレはバルセロナへの移籍を強行するために、ストライキを始めて練習に姿を見せなくなりました。その日のことはどんなふうに記憶に残っていますか?
みんなが私のところへやって来て、ウスマンがどこにいるのか尋ねたよ。けれど私にもわからなかった。だから彼と連絡を取ろうとしたし、いとこも探してみたんだが、無駄だった。ウスマンともいとことも3日間連絡が取れなかった。私はその時点で何となく予感していたよ。もう二度とドルトムントへは戻らないだろうって。後で車に乗って彼の家まで行ったら、その日の朝に母親と一緒にフランスへ発ったことがわかったんだ。
――数ヶ月後にオーバメヤンも同じような方法で移籍を強行しました。あなたは個人的にさぞかしがっかりしたのではありませんか?
もちろん、疲れ果てたし打ちのめされたよ。2回とも私は渦中にいたんだから。ウスマンは本当に大慌てで出ていって、後で彼と連絡を取れたのは私だけだった。私は彼に言った。「君は戻って来るべきだ。もっと違った形で事を収める必要がある。BVBの立場も理解して、プロらしく振る舞わなければならない」って。もちろんすでに遅すぎたんだけどね。
――BVB在籍当時のチーロ・インモービレは、マフェオのドルトムント版のようなことになっていましたね。イタリアにルーツを持つスイス人のあなたから見て、なぜインモービレは馴染めずに終わったのだと思いますか?
チーロがやって来た年、BVBは前半戦を終えた時点でいきなり最下位に落ち込んでいた。そもそも、それですべて説明がつくんじゃないかと思う。あっちもこっちも立て直しが必要なところばかりの年で、ほとんど何一つうまくいかなかった。チーロにはこっちに奥さんや何人もの友人がいて、デンベレやほかの選手たちより助けは足りていた。ちゃんとしたドイツ語を覚えるのは大変だったようだが、皆に溶け込むのを嫌がっている様子はなかった。とにかく彼は運が悪くて、BVBの調子が狂った年の犠牲者だったんだよ。クロップが4-2-3-1の陣形に切り換えるとオーバがFWに置かれたから、チーロにとってはますます厳しい状況になったんだ。
――インモービレは後になってあるインタビューの時に、「BVBのチームメイトの誰一人として僕を食事に呼んでくれなかった」と非難していました。
それについては、私の現役時代から一つの例を取って説明してみよう。私は1987年から88年にかけて、1シーズンの間ACリミニ(セリエC)のプロチームでプレーしていた。私は完璧にイタリア語を話せるし、イタリアのパスポートも持っている。にもかかわらず、最初の週は毎晩新しいチームメイトの誰かが私を招待してくれて、ピザハウスや自宅で一緒に食事をしたよ。
チーロにも教えようとしたんだが、ドイツとイタリアは全然違ってるんだ。イタリアへ移籍すると、お互いにわかり合える共通の言葉がまったくなくても、チームメイトの誰かから家族ぐるみで招待されるんだ。けれど、ドイツで普通なのは別のメンタリティだ。どちらかと言うと自分から近づいていく必要があって、自分が何もしなくても誰かが近づいて来てくれるようなことはまずないんだよ。たぶんチーロはインタビューでその違いのことを言っていたんだと思うね。
――最後の質問です。シャルケで数ヶ月を過ごした今、あなたはもうすっかりシャルケの人間になった気がしますか?
私はクラブと生活を共にして、毎日シャルケの選手たちと一緒に働き、彼らが勝てば喜びを覚える。そうじゃないと言えば、嘘になるだろう。以前ドルトムントの一員だった私にとって、それがまずいことでなければいいと思っている。私は自分が働いたことのあるどのクラブに対しても、ただうまくいくようにとしか願っていない。それは当然のことだ。シャルケとBVBのライバル関係は、私にとってルール地方になくてはならない重要なポイントだ。シャルケとBVBはお互いにお互いを必要としているんだよ。
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